伝説を生んだ茅ヶ崎城
港北ニュータウンには黄金埋蔵伝説を伝える茅ヶ崎城址がある。ここは2008年6年に茅ヶ崎城址公園としてオープンした。
公園整備される前は樹木が空を覆い、甲冑の武者が現れそうな雰囲気が漂っていた。
城郭は残っていないが、空堀が中央本丸跡を中心に周囲約150メートルの長さで取り囲み、空堀を築く土塁の高さは7メートル近くあり、堀の幅は15メートル程度である。
今の感覚では狭く感じるが、これは当時の弓の射程距離内に敵をすべて閉じこめられるので、ちょうど良い寸法である。
このため当時の築城法としては防御に優れた城として歴史的価値が高く、約500年後の今に至るまでよく保存されている。
最初の築城者、年代は諸説あり、はっきりしないが、後に北条氏が敵対する上杉勢を迎え撃つために小机城の支城として再整備されたことがわかっている。
同様に港北ニュータウン周辺に荏田城、山田城、池辺城、川和城、佐江戸城などの支城が置かれ、時代は不明だが当地がかつて激戦地となった言い伝えがある。
黄金伝説と義経伝説
さて黄金伝説だが、茅ヶ崎城には「黄金千貫、二千貫、朝日輝るタ日かがやく所にぞある。」という伝承がある。
このような黄金伝説と似た伝承が各地にもあるが、伝承研究によるとこれらの黄金伝説は源義経伝説と一緒に伝えられているケースが多く、これらの伝承は当時の念仏僧によって広められたと考えられている。
それを裏付けるように茅ヶ崎城から数km先に源頼朝の家臣江田源三の居城と言われる荏田城がある。
黄金伝説と鍛冶伝説
また伝承研究によると黄金伝説には鍛冶が転じて金となったという説がある。それを示すように剱神社では次のような伝説がある。
「昔、炭売り商人が陸奥から鎌倉の鍛冶屋のもとへ炭を売りに通っていた。
鍛冶屋は長年の取引の感謝として1振の刀を商人に贈った。
商人は喜んで刀を差して帰路についた。
帰路の途中、当地の泉で喉を潤すと酒を呑んだように酔いがまわり、そこに倒れ伏した。
それを松の木の上から大蛇が狙っていた。
大蛇は倒れ伏した商人を飲み込もうとした時、腰の刀がひとりでに動いて、大蛇を刺し殺したという。」
この刀を剱明神として祀ったのが剱神社の由来である。
この伝承によると鍛冶屋から受けた刀が宝刀になったと伝えられていることがわかる。
また、この炭売り商人が喉を潤した泉が霊泉の滝ならば剱神社の近くで現在も清水が湧き出ているが、この霊泉の滝は老馬鍛冶山不動として祀られており、ここでも鍛冶の名が残されている。
黄金伝説の推測
これらのことから源氏勢力圏下となった当地に義経伝説とともに黄金伝説が伝えられ、それに鍛冶伝説が加わったようだ。
つまり鍛冶屋→宝刀→黄金伝説というようにミックスされたのかもしれない。
私の推測だが茅ヶ崎城の黄金とは剱神社の宝刀のことを宝としたとも想像したくなる。
横浜市が茅ヶ崎城を発掘調査をして器などが出土しているが黄金が発掘されたとする記録はない。
ならば、なぜこのような1支城に黄金伝説が伝わったのかはまったくの謎である。
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