港北ニュータウンの古代から現在までの歴史

港北ニュータウンの開発に先だって大規模な遺跡調査が行われ、街のほぼ全域から大量の遺跡が発掘された。
その全331地点の遺跡分布を示すが左のマップであり、赤いをクリックするとその歴史解説に進みます。
(一部の遺跡解説を除く)
特徴は全遺跡の約90%は縄文時代に重なっており、縄文時代に多くの人がこの地へ移り住んで来たようだ。
また弥生時代の大塚・歳勝土遺跡などを始め、港北ニュータウンは幾千年の歴史を秘めた古代遺跡の上に建つ千年都市である。

歴史解説の主な目次
紀元前18,000〜4000年前 古代ニュータウンの最初の1軒
紀元前4,000年前 海辺のニュータウンへようこそ
西暦 元年前後  都筑の原形生まれる。
西暦 743〜1191年 古代ニュータウンに豪邸が建つ
西暦1192〜1523年 次の千年王国
西暦1524〜1853年 戦場にかける城。防衛ラインをつくる
西暦1854〜1964年 外圧に弱い日本の始まり
西暦1965〜1976年 港北ニュータウンはまだ設計図の中
西暦1977〜1992年 ブルドーザが地図を作る
西暦1993〜1997年 港北ニュータウン、デビューの時代
西暦1998〜2005年 街全体がテレビスタジオだ
西暦2000年前後  クリスマス・イルミネーションのブーム
西暦2006〜2010年 港北ニュータウンの完成図
西暦2011〜2019年 揺れる時代へ
西暦2020〜現在  もう普通の生活に戻れない令和

港北ニュータウン全遺跡マップの拡大および現況

港北ニュータウン千年都市へ戻る

古代ニュータウンの最初の1軒

紀元前18,000年前 旧石器時代 北のナウマンゾウがくる。とっても寒いゾウ
紀元前7万年前に始まった第4期氷河期がこの頃、最寒冷期を迎え、海面が現在より100m近く下がった。
東京湾全体が陸地として現れ、日本と朝鮮半島が陸地でつながった。
そして大陸からはナウマンゾウが何万象も渡ってきたなんちゃって。
この時代、当地は高山地帯のような気候で草原に林があるような風景であった。

そのような寒冷な気候と古富士の降灰のためか、この時期の遺跡は17か所と少ない。
当地でもっとも古い遺跡は第三京浜都筑インター付近の北川遺跡(マップ Kk)である。
紀元前12,000〜10,000年前 縄文時代 土器の王者:花見山遺跡
氷河期が終わり、ゆっくりと温暖化へ向かうが当時の遺跡数は少ない。
花見山遺跡(マップ Hn)日本でも特に古い時代のものと考えられている隆線文様の土器が大量に発掘された。
なお、どうでもいいことだが遺跡があった見花山町と花見山遺跡の名は逆さまである。
どういうつもりで、こんなややこしい名前にしたのだろうか。
紀元前10,000〜6,000年前 縄文時代 古代ニュータウン時代
富士山の活動も落ち着き、現在と近い気温に近づいて古代ニュータウン時代が到来する。
この時代から遺跡が急激に増加する。当地の遺跡のほとんどは縄文時代のものだ。
現在の港北ニュータウンと同じように人口が急増したらしく、たぶん1万年前にもここはニュータウンだったのかもしれない。
不動産屋のチラシもない時代にどうやって多くの人が集まったのだろうか。口コミならばすでに言葉があったのだろうか?

当地の縄文人は狩猟しながら住居を転々と移動していたらしく、落とし穴を作って獲物を捕らえていた跡が当地で多数見つかっている。
当時の遺跡も多数発見され、加賀原遺跡(マップ Kg)では縄文早期から中期にかけての遺跡が出土。
月出松公園内では遺跡が埋設保存され、遺跡を示す標識がある。

海辺のニュータウンへようこそ

紀元前4,000年前 縄文時代 地球温暖化。縄文ビーチ時代
地球温暖化により極地の氷が溶けて海面が現在より数メートル上昇した。
そのため海岸線が現港北ニュータウン付近にまで迫り、魚や牡蛎、蛤などの貝が採れた。
ここは南国気分で取れたての焼き蛤なんて食べ放題だったのだろう。
貝を捨てた貝塚として都筑中央公園内の境田貝塚(マップ Sk)南堀貝塚(マップ Mk)など多数発掘された。
紀元前3,000〜2,000年前 縄文時代 再び地球が冷え冷えぇぇ
再び地球寒冷化により再び海岸線が後退し、次第に遺跡数が減少してゆく。
紀元前1,000年前 縄文時代末期 富士山キレる。逃げろ。ゴーストタウンへ
この時代に入ってからの遺跡が激減する。
再び富士山の噴火による降灰などによって人々が逃げ出したらしい。
いったい古代ニュータウンの彼らはどこへ消えてしまったのか。

都筑の原形生まれる。西暦のスタート

紀元0年前後 弥生時代 再び古代ニュータウン。関東最大の大塚遺跡誕生
早渕川沿いの谷間にある自然湿地で稲が作られ、台地上に遺跡が再び増加し、再び古代のニュータウンが出現する。
大塚・歳勝土遺跡(マップ Os)のような規模の大きい遺跡が出現し、方形周溝墓が作られた。
他に八幡山遺跡(マップ Hc)などがある。

また当地の西にある江田駅周辺と市が尾町朝光寺原遺跡から発掘された朝光寺原式土器がある。
その土器の発掘分布がその後の都筑郡区域とほぼ一致することから、この時代に都筑の文化圏が生まれたとする説がある。
300年前後 みんなヒミコちゃんの尻の下の時代
大和政権が全国統一する。卑弥呼現れる。
男が納めると国乱れるので女が納めてやっと安定したとある。早くも日本男子が尻に敷かれるルーツがここにある。
500年前後 大和古墳時代 俺様の自慢はデカい墓
農耕生産力が豊かになると、あちこちで力を持った人間が現れ、多摩川、鶴見川流域各地に古墳が作られる。
当地の矢崎山遺跡(マップ Yz)からは大きな集落跡と古墳が発掘された。
また東名高速沿いの赤田地区の丘にも赤田古墳群(マップ Ak)虚空蔵山古墳(マップ Cm)などが点在している。
他の古墳としては綱崎山遺跡(マップ Tn)上の山遺跡(マップ Ue)がある。

それぞれの古墳に共通しているのが小高い丘の頂上にある眺望のよい所である。
つまり、いつの時代も権力者は高い所から見下ろすのが好きなのである。
701年 飛鳥時代 都筑の政治の中心地になる
この年、武蔵国に国郡制が施行され、当地が都筑郡における古代ニュータウンの中心地になる。
聖徳太子による憲法17条の制定(604年)以後、全国統治を進めるために法律が作られた。
そして、日本中、みーんな国のモノだもんね!と決めてこの年に土地の私有化などを禁止してしまった。
その国有地を耕す国民を登録し、税金を取り立てるための役所仕事が必要となるため、東国(関東方面)へ国司が派遣された。
それにより、この地には武蔵国都筑郡が置かれた。

都筑郡は現在の港北ニュータウンを含む都筑区、港北区、緑区、青葉区、旭区を含む広大な地域だった。
武蔵国の国府(東京都府中市)と各郡を結ぶ幹線道路の1つとして現在の国道246号線の原型が作られた。
この道をそのまま西へたどれば奈良の都へ行くことができた。
そしてその幹線道路上に郡役所として都筑郡衙が建立された。
それは国道246号線と江田駅が交差する付近で長者原遺跡(マップ Cy)として発掘された。
つまり当時はこの地が都筑郡の中心地だった。

古代ニュータウンに豪邸が建つ

743年 奈良時代 国有地バブル政策が破たん
国有地政策も最後は崩壊してしまう。人が増えても土地が増えず、人々は重税に耐えかねて村から逃げ出す人が続出する。
そこでこの年、土地の永久私有化を認める法律が制定される。
すると急にやる気を出した地方豪族が離村者を集めてせっせと私有地を開墾して財を増やした。
反動で朝廷の支配力がますます弱まってしまう。
当地が都筑郡の中心となるのと同時に当地にも豪族達が現れた。
神隠丸山遺跡(マップ Km)から約50m四方の広大な敷地を持つ豪族の屋敷跡が発掘された。
ここは丸山御所と呼ばれる言い伝えがある。

しかし当時の多くの人は貧しく、彼らの貧しさをさらに追いつめたのが防人(さきもり)の兵役義務だ。
旅費から武具まですべて自己負担で揃えて遠く九州まで(もちろん徒歩で)旅立った。
だから行き帰りで餓死する人が続出したらしい。
その哀しみを詠った都筑の人の歌が万葉集に残っている。
812年 富士山大噴火。818年、878年 大地震。
度重なる災害に東国が荒れ、山賊が横行する。
838年 平安時代 杉山神社。いったい本家はどれだ?
この年、都筑郡杉山神社の霊験に対して官幣が預けられたことが続日本書紀に記されている。
その後、末社が約50社が作られたが、その本社が不明である。
現在6社が有力視されており、茅ヶ崎社(マップ Sk)大棚社(マップ So)の2社が当地にある。
939年 平安時代 平将門、関東独立国へ今一歩
桓武天皇の曾孫の高見王が平姓を名乗り、荒れる東国を治安維持するために下る。
しかし領地をめぐって平家に内紛が起こり、平将門の乱が東国で勃発。この年、東国は平将門の天下となる。

一方、地方豪族達は武装化して武士団を作り、当地にも都筑党がいたらしい。
その騎馬兵に必要な馬の放牧が当地で盛んになる。
これに目を付けた政権側は武士団の力を借りて将門の乱を鎮圧したこととから、彼ら武士団がお調子づいてますます勢力を持つ。
東(あずま)男に京女の気風が生まれたのはこの頃だろうか。
その後、源氏が平氏と婚姻を結び、鎌倉に本拠地を構える。この頃より東国の中心地は鎌倉に移り始める。

次の千年王国

1192年 鎌倉時代 「いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府」覚えたかな?
源頼朝によって鎌倉幕府が開かれる。
この頃、「いざ鎌倉へ」の時に備えて鎌倉へ真っ直ぐ進む鎌倉道が整備され、国道246号線の一部も組み込まれる。
鎌倉道の要衝を守るため荏田城(マップ Ej)が作られた。
1213年、1241年、1244年、1257年、1293年 大地震
 
1333年 室町時代 北条氏、鎌倉暮らしが板につかず
源頼朝死去後、鎌倉幕府は執権職の北条氏の支配に移った。
しかし、新田義貞に攻められてこの年に倒幕し、北条の名は一旦歴史舞台から消える。
足利尊氏は京都で室町幕府を開幕し、鎌倉にも鎌倉府を置いて東国支配した。
1478年 室町時代 上杉家同士の戦い。小机城のバトルロイヤル
関東は鎌倉府が政治の中心となり、管領の上杉氏の勢力が強くなった。
しかし権力争いから上杉家内紛が起こり、山内上杉家の長尾景春と扇谷上杉家の太田道灌が戦った。
当地より南にある小机城に山内上杉派の長尾景春に味方する在郷武士団が立て籠もって小机合戦が起こる。
しかし扇谷上杉派の太田道灌に攻められ、この年、落城する。
1495年 大地震。
 
1516年〜1524年 室町時代 港北ニュータウンが激戦地に
上杉家の内紛に分け入った北条早雲の勢力が強まる。
時代は不確かだが北条氏と扇谷上杉氏が当地で衝突したと推測されている。
それによって、当地でかつて激しい戦闘が行われたとの伝承がある。

戦場にかける城。防衛ラインをつくる

1524年 室町時代 北条氏、防衛ラインを作ってもう安心ぢゃぁ!
この年、北条氏は上杉勢力を一掃し南関東を支配した。
そして小田原に拠点を築き、北条氏は北の守りとして小机城を改修した。
さらに、当地にある茅ヶ崎城(マップ Tj)のほか、荏田城(マップ Ej)、山田城ほか各城を小机城の防衛ラインとして編成した。
こうして当地は北条氏の支配下に置かれた。
茅ヶ崎城の築城はこれより約1世紀ほどさかのぼるものと推測され、北条氏が後に整備したらしい。
1590年 安土桃山時代 秀吉、北条氏にムカツク
豊臣秀吉は服従しない北条氏を攻めるため小田原に侵攻した。
関東に強大な勢力を持つ北条氏は箱根山の防衛力と徳川家康の協力を過信していた。
だが現実は家康の支援を得られるどころか、家康から小田原開城を勧められ、この年、遂に北条氏は滅亡する。
その後、秀吉は徳川家康に関東支配を預ける。

小机城をはじめ、当地内の各城は北条の小田原援軍に向かってほとんど空となり、そのまま廃城にされた。
これ以後、当地は現港北ニュータウン開発が開始されるまで歴史的な舞台から遠ざかった。
そして、この地は陸の孤島としての不便さから当地の遺跡が明治時代以降の乱開発から守られるという幸運に恵まれる。
1603年 江戸時代 徳川の転勤者がやって来る
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康によりこの年に江戸幕府が開かれる。
この地の多くは幕府の旗本領となる。
家康は家臣を連れて東海から関東へ移り、東海、甲斐方面出身者の家臣を当地の領主として置いた。
1633年 大地震、1641年 寛永飢饉、1648年 再び大地震
 
1703年、1706年 大地震、そして1707年 富士山大噴火
富士山大噴火によって小田原は壊滅的打撃を受けた。
横浜市内では約20センチの降灰があり、大災害を受ける。
1732年 享保の大飢饉
 
1782年 大地震、天明の大飢饉
 
1831年 天保の大飢饉
 

外圧に弱い日本の始まり

1854年 江戸時代 超ド田舎、横浜が大慌て
この年、米国ペリーの黒船が開国を迫り、2度目の来日。
外交交渉地として江戸から離れた横浜村が選ばれる。
半農半漁の寒村だった横浜村をあわてて整備したのを始まりに、その後、横浜村は国際貿易港湾都市に急成長する。

この頃、当地では冨士講が流行し、富士塚があちこちに作られたが現在まで残っているのは少ない。
当地では川和富士塚(マップ Kf)山田富士塚(マップ Yf)、池辺富士塚が原型を残している。
1868年 明治元年 神奈川県誕生
神奈川府から神奈川県となる。当時、当地は神奈川県都筑郡。
1889年 明治22年 横浜市誕生。名物横浜ソーメンはいかが
当時、当地は横浜市都筑郡。
当時、当地は農村地帯であり、江戸末期から大正時代まで当地近郊の農家の副業として素麺作りがブームになる。
その後、素麺作りは衰退し現在では生産していない。
1923年 大正12年 関東大震災
横浜市全世帯の95%が被災した。
1926年 昭和元年 東横線開通。綱島温泉ブーム
東京、横浜を結ぶ東横線(当時、東京横浜電鉄神奈川線)ができ、当地より西に5,6km離れた所に綱島駅ができた。
当時、綱島では1914年にラジウム鉱泉が発見され温泉街として発展していた。

しかし当地から綱島駅までのアクセスが非常に悪く、地下鉄ができる1993年まで陸の孤島状態が続く。
1939年 昭和14年 港北区誕生。都筑の地名がいったん消える
横浜市都筑郡から現都筑区の前身である港北区が誕生する。
1944年 昭和19年 戦争から子供達を守る
第2次世界大戦により学童疎開が始まる。
当地の正覚寺に横浜中心地から集団疎開を受け入れる。
翌年、横浜大空襲を受けて横浜が燃えた。避難して助かった人が多かっただろう
1964年 昭和39年 東海道新幹線が開通、ようこそ、草むらへ
この年に新横浜駅が開業して以来、その後何年も経ても駅前には草むらとホテルがあるだけでうら寂しい所だった。
地主が土地の値上がりを狙いすぎて街の発展を妨げ、問題となる。
現在のビジネス街はその後、かなりの年数を経過してから作られる。

港北ニュータウンはまだ設計図の中

1965年 昭和40年 港北ニュータウンの夢を見る
横浜市は港北ニュータウン計画や横浜ベイブリッジ計画などを発表。
これらはいかに壮大な計画だったか、その後の年月の長さが物語る。
当時はニュータウンの場所がまだ港北区だったため、港北ニュータウンの名前となった。
この年、第3京浜道路が開通
1966年 昭和41年 田園都市線、名前に偽りなしの田園地帯
溝の口駅〜長津田駅間が開通。
当時は田園都市線の名前通りにまったくの田園地帯であり、当地にもっとも近い駅として江田駅ができる。
しかし江田駅から唯一の足はバスだけで、陸の孤島に変わりはなかった。
1969年 昭和44年 港北区から緑区が分かれる
港北区から緑区が分区された。港北ニュータウンは当時の港北区、緑区の2区にまたがる。

翌年、昭和45年から遺跡調査が開始される。
その後、平成元年まで19年間に及ぶ当地の膨大な数の遺跡調査が行われた。
この年、東名高速道路が全面開通した
1972年 昭和47年 港北ニュータウンの設計図をみんな初めて見る
港北ニュータウンの基本設計を住民に説明。
当時、住民側は宅地会という交渉窓口を作り、住民代表を送って移転条件等を話し合う。
そして2年後の昭和49年に造成工事を開始。
初期の頃は遺跡調査と地権者との調整に費やされたが、住民の意見を反映した前向きな街作りが進められた。
都筑中央公園の設計にもその考え方が生かされている

さぁ!堀りまくるぞ!ブルドーザが地図を作る

1977年 昭和52年 ジモト民の大移動開始(仮換地の供覧開始)
港北ニュータウン内に散在していた民家を移転させ、新たな街並みを作る換地移転が開始される。
当時、土地を持っている全ての地主は土地面積の40〜50%程度を無償で拠出(減歩)した。
この減歩によって、ニュータウンの広い道路や、学校用地等が実現した。
駅前に土地を残すには約80%近い減歩を求められるなど、駅予定地からの距離に応じて減歩率が異なった。

この頃、発掘されたばかりの遺跡があちこちに出現。
画像左の現在の大塚歳勝土遺跡は発掘当時は画像右のように現在の約2倍の大きさがあった
この年、田園都市線、たまプラーザ駅と江田駅の間にあざみの駅ができる。
1983年 昭和58年 金妻の街に憧れる
「金妻」と言えばこの年にテレビドラマ「金曜日の妻達へ」が大ヒット。
田園都市線沿線が舞台になる。隣町の「たまプラーザ駅」前の喫茶店がロケに使われたのが当地では話題になる。
まだこの頃はテレビロケがモノ珍しかった。この頃、たまプラーザ駅がショッピングに使える街になった。

同じ年、港北ニュータウンでは第1次共用開始。
その後、マンション、土地の分譲がボチボチはじまるが、まだ交通の便が悪く、人気はいまいちだった。
1985年 昭和60年 第1回港北ニュータウンまつり開催
当時、造成中の空き地を使って「港北ニュータウンまつり」が開かれた。
プロの歌手を呼んでステージを作り、ジモト企業の社員が手作りの模擬店や住民のフリマを出店する形でスタートした。
タレントがステージで最初に必ず口にするのが、「ここはどこなんですか?」
・・・無理もない。当時はまだ地図にもろくに出ていない街なんだから。


現在は当時の人口の5倍にも膨れ、港北ニュータウンまつりも「区民まつり」に名を変わった。
1998年からセンター南駅前で盛大に開催され、17万人の来場者を数えるようになった。
1989年 平成元年 平成のオジさん現る
平成に入ってからニュータウン工事が一気に加速する。
道路は毎年付け変わり、買ったばかりの地図がすぐに役に立たなくなった。
この頃、セブンイレブンにショベルカーでお買い物する風景も見られた。
また当時、敷設中の道路があちこちにあり、車の教習には最適だった。
当時の平成のオジさんもついに総理大臣へ登り詰めた。何事も地道にやっていれば人も街も変わるものだ。

港北ニュータウン、デビューの時代

1991年 平成3年 ドイツの学校デビュー
東京大森から移転した東京横浜獨逸学園が仲町台駅近くに開校しました。
この学校はドイツ本国以外で最も古い歴史を持つ在外学校と言われる。
この学校の開校によりドイツ人子弟向け教育環境が整い、その後、都筑区へのドイツ系企業の進出が促進された。
1993年 平成5年 地下鉄(ブルーライン)開通と双子のローソン物語
港北ニュータウン内に待望の市営地下鉄3号線 (ブルーライン)が開通し、陸の孤島から脱出を果たした。
それまでは横浜へ行くより東京へ行く方が近かったので、この周辺の住民は「横浜都民」と呼ばれていた。
しかし、開通後、横浜へのアクセスが良くなり横浜市民としての自覚が芽生えるようになった。

開通当時、駅前に何もなく殺伐とした景色が広がり、抱きつき痴漢が出没して話題となる。
あまりに寂しいのでコスモスが植えられた。だが昼間は美しいが、夜の外灯の下に揺れる花も寂しさを募らせた。
その切り札として防犯対策を兼ねてセンター北、南駅の両方にローソンが同時開店した。
しかし、乗降客がなかなか増えず双子のローソンはあえなく撤退し、今は幻となった。
かつてのコスモスの花園に今はビルが林立している。
1994年 平成6年 都筑区誕生。筑は築ではないゾ
横浜市の港北区と緑区にまたいでいた港北ニュータウンと周辺地区を1つにまとめて新たに都筑区となる。
これにより港北区、緑区が港北区、緑区、都筑区、青葉区の4区になる。
これ以後、港北区とは関係ない都筑区の港北ニュータウンという紛らわしい名前になった。

翌1995年 横浜市歴史博物館がオープン。港北ニュータウン一帯の遺跡や埋蔵品を誰でも目にすることができるようになった。
1996年 平成8年 街の景観が受賞
第16回緑の都市賞で内閣総理大臣賞を受賞。住民参加の街作りと緑化に対して評価された。
第3京浜道路に都筑インターチェンジが開設。

街全体がテレビスタジオだ

1998年 平成10年 大型デパート時代到来。田舎が一気に都会にヘンシーン!
大型デパートとしてセンター北駅にあいたい
センター南駅に港北東急が相次いでオープン
Yokohama Walker誌にも紹介されるようになり、当地の地下鉄駅の乗降客が激増する。

港北東急前のスキップコートを使い、その後、色々なイベントが開催されるようになった。
右の画像はその後、スキップコートで開催された満席の観客を迎えたクラシックコンサートの様子。
1999年 平成11年 テレビロケ人気高まる。金妻の夢よ、もう一度
頻繁にテレビドラマに当地が登場するようになる。
16年前の「金妻」で初めてテレビロケが隣町のたまプラーザ駅に来て以来のことである。
当時は毎週のようにあちこちで右の画像のようなロケが見られた。

翌2000年 治安対策として当時、住民の要望が大きかった都筑警察署がオープン。
免許の更新も便利になった。
2000年 平成12年 街のランドマーク大観覧車の花が咲く
3月17日モザイクモール・都筑阪急がオープン。大観覧車がグリーンにライトアップされ大輪の花を咲かせた。
この日10万人の人出。写真左はオープン当日の日本テレビ 朝6時の天気予報での生中継の様子。

4月8日、9日桜の名所で有名だった都筑区大丸の大手企業のグランドで最後の「お花見会」が開かれた。
同グランドには樹齢3,40年の桜の巨木100余本があり、毎年、桜の季節にはグランドが解放され区民の絶好の花見スポットだった。
そのグランドは大手マンション会社に売却され、その後、伐採された。
ここに静かに桜の名所が消えた。画像右は最後のお花見会の様子。

この頃、クリスマスシーズンになると港北ニュータウン、近隣地域では一般住宅でイルミネーションの装飾がブームとなった。
最盛期のハウス・イルミネーションはこちら
2001年 平成13年 地下鉄4号線(グリーンライン)、工事着工
1月30日地下鉄4号線(グリーンライン)の工事着工。
だがこの時点で用地買収は46%にとどまり、開通は2007年以降と報道される。
画像はセンター北駅の4号線(グリーンライン)建設前の花畑

4月昭和大学横浜市北部病院が開院。
この頃からニュータウン中央周辺を中心に休日の交通渋滞が大きくなりはじめる。
2002年 平成14年 ワールドカップに燃える
3月10日都筑大橋の完成を祝い、橋の上で歩行者天国にしたイベントを開催。
橋の完成により最後に残った主要幹線道路(佐江戸・北山田線)が開通。画像左は建設中の都筑大橋
また橋周辺部の中央地区の整備も進む。画像右は造成中の中央地区(都筑中央公園より撮影)

3月28日あざみ野駅が急行停車駅になる。
6月9日ワールドカップ 日本対ロシア戦が隣接する新横浜の横浜国際総合競技場で開催され、全世界に中継された。
そして6月末の決勝戦もここで開催された。(横浜国際総合競技場は2005年に日産スタジアムに改称)

港北ニュータウンの完成図

2006年 平成18年 市営地下鉄の呼称決まる
営業中の市営地下鉄3号線が「ブルーライン」と呼称が決まり、建設中の4号線は「グリーンライン」と決定された。
わかりやすいけどあまりに平凡な名前になんだかなぁ〜

3月 センター北駅と南駅を結ぶ自転車歩行者専用道路みなきたウォークが開通。
「みなきたウォーク」を中心に早渕川の遊歩道も整備され、中央地区周辺にはレストランが相次いで出店。
南北のショッピングタウンが散策しやすくなった。
2007年 平成19年 デパート出店ラッシュ続く
3月15日ららぽーと横浜が鴨居駅に近い都筑区内にオープン
4月21日ノースポートモールがセンター北駅にオープン。
これでモザイクモール・都筑阪急、港北東急、あいたいの5つのデパートが都筑区内に集結し、巨大ショッピングタウンが出現した。
画像はノースポートモール建設前の空き地沿いで開かれたフリーマーケットの風景

4月5日田園都市線は朝のみ混雑緩和のため、急行が準急になった。
7月20日港北MINAMO(みなも)がオープン。
都筑区初の天然温泉のスパが併設された。千葉、東京湾周辺の温泉に多い黒湯(ナトリウム-塩化物泉)だ。
2008年 平成20年 2本目の地下鉄が開通
3月30日市営地下鉄4号線グリーンライン(日吉〜中山間)が開通。
4両編成、コンパクトな車両が予想外のイメージ!
開通当時は駅プラットフォームにネオンサインがあったが、今はない。
開通でセンター北、南が名前通りの交通のセンターとなる。

2本の地下鉄の完成で港北ニュータウンのインフラ整備は完成を迎えたと言えるだろう。
3月5日コーナン港北センター南モールがオープン。
日曜大工店コーナンと大型電器店のエディオンが入る。
12月5日ヤマダ電機などを主力にしたルララこうほくがオープン。
一方、そのオープン前にジョーシン、ラオックスが撤退。
このように大型有名電器店が港北ニュータウンに進出しては消えてゆくことが過去、数知れず繰り返された。
2009年 平成21年 横浜市開港150年、都筑区区制15周年を迎える
開国・開港150年を記念して開国博がみなとみらい地区、横浜北部等で開催された。
また1994年11月6日に旧緑区と旧港北区の一部が一つになって都筑区が誕生してこの年15年を迎えた。
都筑区の住居人口は15年前に比べ約1.8倍。
産業的には工業就業人口が0.8倍へ減少し、商業就業人口が2.5倍と爆発的に増加。商業人口が住居人口を上回る状況となった。

揺れる時代へ

2011年 平成23年 激震の年
3月11日M9の東日本大震災が発生し、都筑区でも震度5弱を記録。
交通機関が全て止まり、さらに区内の一部で停電も発生。暗闇の街を歩く、多くの帰宅難民が生まれた。
区内ではイケア港北が寒さに震える帰宅難民向けに店内を休憩所として開放し、食事が無償提供された。
このように人々や企業が助け合う姿に心をうたれた。

一方、地震による大津波によって福島第1原発の電源喪失事故、水素爆発事故で放射能が大量に放出される大惨事となった。
さらに経済もユーロ金融不安、円高と立て続けに激動が起こり、市民、企業にとって二重苦、三重苦のまさに激震の年となった。

2011年末、ヨツバコがセンター北駅前にオープン
2012年 平成24年 雲間に見えた金環日食
5月21日(午前7時34分頃) 横浜では金環日食がピークを迎えた。
朝から曇が深く垂れこめたが、幸運にも厚い雲がサングラスの役目をして、肉眼でも金環日食がハッキリと見ることができた。
しかし、外交面では暗雲が垂れこめ、尖閣諸島問題、竹島問題で揺れ続け、先が見えない状況となった。

ドイツクリスマスマーケットin都筑が初めて開催された。
2012年度末現在、都筑区には東京横浜独逸学園やドイツ系企業のBosch(ボッシュ)、TÜV(テュフラインランドジャパン)、
Festo(フエスト)、BJB梶AEmugeFranken(エムーゲフランケン)、Schmalz(シュマルツ)(都筑区北部からの立地順)などが進出。
多くのドイツ人も暮らしている。
2013年 平成25年 南北アベノミクス対決
10月25日 センター北駅前にプレミアヨコハマがオープン。最上階には区内初のライブステージが併設された。
このホールの床面には世界初のAIR免震装置が組み込まれ、ライブで盛り上がっても階下のフロアには振動が伝わりにくい構造という。

続いて、10月31日 センター南駅前のパルスポットが建て替えられ、サウスウッドがオープン。
2014年 平成26年 都筑区誕生20年。港北ニュータウン構想から50年
1994年の都筑区誕生から20年。1965年の横浜市の港北ニュータウン構想計画から実に約50年。
ようやく港北ニュータウンの都市景観はほぼ完成の域に達し、都筑区では都市計画の見直しが始まった。
交通など利便性、高齢化社会、緑の環境などに配慮したバランスのとれた新しい町づくりをめざすようだ。
2017年 平成29年 高速道路 横浜北線が開通
横羽線の生麦ジャンクションと第三京浜の横浜港北ジャンクションを結ぶ 8.2kmの高速道路 横浜北線が開通した。
これにより横浜港方面に10分短縮。羽田空港方面も10分短縮となった。
横浜北線開通に伴い、第三京浜の港北インター入口位置が従来とは大きく変わった。
また、東名高速道路への延伸工事も始まった。
2018年 平成30年 平成最後の年は災害の年
大阪北部地震、北海道胆振東部地震、西日本豪雨など日本各地に自然災害が相次いだ。
埼玉県熊谷市では歴代最高41.1℃を記録する猛暑に見舞われた。
都筑区でもこの夏38.9℃を記録し、さらに台風による強風で屋根などへの被害が相次いだ。
2019年 令和元年 令和のオジさん現る
昭和31年4月30日をもって平成は終り、5月1日から令和となった。
平成のオジさんに続き、令和のオジさんも後にまたしても総理大臣となった。

もう普通の生活に戻れない令和

2020年 令和2年 パンデミックで昔の生活が幸せだったことを知る
中国武漢から発生したCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)は全世界に拡がった。
4月に全国に緊急事態宣言が発令され、人々の生活が一変した。
3密、ソーシャルデスタンス、リモートワーク、リモート飲み会、オンライン会議、Gotoトラベル、Gotoイート、
PCR検査、クラスター、アベノマスクなどコロナ由来の新語などが次々と生まれた。
12月31日時点の感染者累計数(集計時のズレにより人数ズレあり)
全世界 8,270万人(死者 180万人) 国内 23.6万人(死者 3,505人) 神奈川県 2.1万人 横浜市 10,158人 都筑区(12/24時点) 395人

この年、東名高速道路と第三京浜、横浜北線を結ぶ 7.1kmの高速道路 横浜北西線が開通した。
これにより東名高速から横羽線まで南北に結ぶ高速道路が開通した。
2021年 令和3年 パンデミック2年目 変異株に翻弄される世界
COVID-19は変異を繰り返しデルタ株が世界中に猛威を振るった。
ワクチンは国内では2月から開始されたが、当初は接種予約が取れない状況が続いた。
感染者が急増する中、7月に無観客での東京オリンピックが開催された。
日本では秋に感染者が一旦収束したものの、今度はオミクロン株が世界中で爆発的に拡がってきた。
12月31日時点の感染者累計数(集計時のズレにより人数ズレあり)
全世界 28,654万人 (死者 543万人) 国内 173万人(死者 1.8万人) 神奈川県 17,0万人 横浜市 69,798人 都筑区 3,443人
12月21日時点の横浜市のワクチン接種率 0才以上(2回目) 77.5% 接種可能年令12才以上(2回目) 85.6%

また、8月に横浜市長選挙が実施された。カジノ誘致派の現職の林文子氏が落選し、山中竹春氏が新市長となった。

2022年 令和4年 住んで良かった街ランキングBEST100で第2位に輝く
10月23日テレビ東京で放映。関東の街で実際に住んだことがある人26,180人が評価した結果を100位までランキング。
センター北・南が堂々2位を獲得。「環境 9.0pt」「商業施設の充実度 8.5pt」「おしゃれさ 8.3pt」「交通便 8.1pt」「飲食店の充実度 7.6pt」「家賃や物価等の生活コスパ 7.2pt」
東京へ行かなくても何でも揃う。スーパーが多く安いなどがコメントされていた。
ちなみに1位吉祥寺、3位元町中華街、6位みなとみらい、8位横浜、27位たまプラーザ。

グリーンライン川和町駅。閑散とした駅前だったが、そこに待望の大型商業施設フォルテ横浜川和町が8月に完成。スーパーマーケット ベルクがオープンした。
COVID-19の感染力は依然強いものの弱毒化。3年目にしてようやく普通の生活に少しずつ戻り始めた。
しかしこの年、最も大きなワーストニュースはロシアによるウクライナ侵攻。これにより世界的な人道、エネルギー、食糧、物価の危機に見舞われた。

2023年 令和5年 巨大物流センター現れる
港北インターチェンジ近くの川向町南耕地地区に巨大物流センター DPL新横浜 全3棟が完成した。
横浜北線、横浜北西線の開通による交通インフラの充実。ネット販売の増加に伴う物流の増大に伴い3年前から農地から物流倉庫へ再開発が始まっていた。

COVID-19は5月から感染症分類5類に変更となり、ようやく行動制限もなくなった。
ところが円安が加速し、10月に150円/米ドルを突破。物価上昇するも賃金が上がらない日本経済。気が付けばいつの間にか貧しい国になっていた。

   
2024年(令和6年) 街の大きなニュースは特にありませんでした。



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