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序章(蜜蜂の選択)

 春。花々は蜜蜂の訪れを誘うため、花の色を競い、甘い香りを広げる。そして選ばれた花だけが将来の繁栄を約束される。就職をめざす学生達にとっても春は「選択」と「選択される」時期を迎える。
 就職の現場は学生と企業の知恵比べの場である。新しい知恵を出した者が勝者となる世界でもある。学生はあらゆる情報を求めて企業を選び、企業もまた一生モノの財産を買う目で学生を選ぼうと毎年、新しい知恵を絞る。
 そういう知恵比べを繰り返しながら200X年の春を迎えた。ある一つの企業が新しい技術を駆使して「新たな選別」を始めようとしていた。それは人間選別の道具として考え出されたものであった。その新たな選別の道具とは新世代のマーケティング戦略の副産物として生み出されたものであった。

 それは高度なコンピュータ技術から生み出された究極のマーケティングであり、人間選別の悪夢の到来であった。
 だが、コンピュータを操る若きエンジニア達は自らが開発した技術が悪夢の道具として生まれ変わってしまうなどとは、まだ予想すらしていなかった。
 しかしその導火線は彼らの知らぬ所ですでに火が点けられていた。この物語はやがて社会に燃え広がる人間選別の未来を描いたものである。

第一章 ジェリービーンズを貴方に

「やったぁ!」と叫ぶと早瀬麗子は階段をジャンプして駆け降りて来た。
 居間にはテレビを点けたまま、うたた寝している兄の龍一がいた。その身体の上を飛び越え、母の幸子を探して浴室へすっ飛んで行った。
「母さん! 大変なの!」と麗子は浴室の扉をいきなり開けると叫んだ。
「ウッ。寒いから早く閉めてよ。用があるなら出てからにするか、麗子も入って話してよ。」
「わかったわよ。」と麗子は言うなり、パッと服を脱ぎ捨てると浴室に飛び込んだ。

 麗子は湯船の縁に両手を組んで乗せて話し出した。「今、封切りしている映画で、ロストボリアリスって知ってる?」
「確か、その映画。2,3日前に麗子が見に行ったものでしょ。」と幸子は身体をスポンジで洗いながら言った。
「そうよ。主役はフェスチュンマクレガーなの。」
「知ってるわよ。かっこいい男よね。今朝、テレビのおはよう突撃ゴシップで見たわよ。」
「そうそう。その人が映画のPRで日本に来ているんだけど、今度の連休に私が会えることになったの。」
「へぇっ! どうして、おまえなんかと会ってくれるのよ。何かスターの弱みでも握ったのかい? それとも文通でもしていたのかい?」
「違うわ。私のマイレージサービスが貯まって抽選に当たったの。」
「マイレージって飛行機にたくさん乗るとタダ券くれるという、あれかい?」幸子は身体をシャワーで勢い良く流し終わると、麗子に湯船の交代を促した。
「飛行機じゃないのよ。私が通っているラッフルズ英会話学校は1回授業を出るとね。1ポイントずつ通学マイレージポイントが貯まるの。二百ポイント以上貯まると抽選で十一人だけハリウッドスターを囲んだパーティにお呼ばれされるの。
これはね。英語の実践を兼ねたプレゼントよ。まだすぐには当たらないと思っていたのに幸運だわ。私の先輩だってまだ当選したことないのよ。」
「ふぅん。集団見合いのくじ引きみたいだね。口説かれたらどうすんの。あの色男、手が早そうだよ。」
 麗子はバスマットの上に立ち上がるといきなり声を張り上げた。「いいじゃないの。最高じゃないの。そしたら私達は太平洋を越えた愛の絆で結ばれるのよ。私は海のビーナスよ。いや、二十一世紀のシンデレラね。アイ・ラブ・レイコ。素敵な響きだわ。あぁ、この魔法が解けないでほしいわ。」麗子は洗面器を帽子のように頭にかざして裸のままターンをして踊った。
「バァカ。じゃあ、うまくいくようにガラスの靴でも買ってカボチャの馬車に乗って行きな。母さんは先に出るよ。」
 幸子が風呂を出ると浴室から麗子の大声が聞こえた。「母さん。シンデレラになるには魔法より軍資金の方が効くと思うわ。ガラスの靴のお金、頼んだわよ。ララッラぁぁぁ。」

 幸子はバスタオルを巻いたまま居間を通ると電気を入れ放しのテレビに気がついた。幸子は器用に足の指先でスイッチを消すと隣の部屋へ去っていった。
 テレビの音が消えると早瀬龍一が寝ぼけた顔を上げて呻いた。「誰なんだよ。見ていたんだから消すなよ。あぁ、リモコンは何処。何処なんだよ。」
 龍一はヤモリのように床を這いずりながらリモコンを探し当てると再びテレビを点けた。見ていたはずの宇宙科学番組はとっくに終わり、代わりに麗子宛の電子メールが十八通も届いていることを示すアイコンが点灯していた。
 テレビはインタラクティブCATVと呼ばれる双方向通信のケーブルテレビ、パソコン機能、テレビ電話などが一体化されたセットトップボックスタイプのものだ。今やテレビで電子メールを受け取ることもごく普通の時代となっていた。
 龍一はフラフラと起きあがり風呂に入ろうとして浴室の前に来ると、浴室のドアノブにくたびれかけた白いブラジャーが引っかかっていた。
「なんだ。母さんが入っているのか。こういうものはちゃんと片付けてから入ってくれよな。」と龍一はつまんで曇りガラスの前にヒラヒラとかざした。
「どっエッチぃ! 触るなバカっ!」と麗子の叫び声がして曇りガラスめがけて桶が投げつけられた。カーンと小気味良い音が響くと龍一の眠気が一気に吹き飛んだ。龍一は手にしたブラジャーに表示されたサイズが麗子のものだと気が付いてハッとした。
「入っているのは麗子か。生活のマナーというものを教えてやっただけだぞ。ところで麗子に電子メールがたくさん届いているぞ。」
「どうせ、ジャンクメールだろうから、お兄ちゃん用件聞いておいて。パスワードはね。PASSWORDよ!」と麗子が浴室の中から叫んだ。
 龍一はリモコンでパスワードを入れるとテレビ画面の右半分が消えてメール文が表示された。画面右にサリーと言われるアニメーションの女の子が現れてメールを可愛い声で読み上げ始めた。「早瀬麗子様。ご当選おめでとうございます。パーティにはレンタルブティック、ミズリィのドレスはいかかでしょうか。貴女にぴったりの9号サイズを豊富に・・・。」
「ミズリィのドレスにはモントスカーナの靴がベストチョイス。貴女のサイズにぴったりの24.5を中心に2.5ミリ刻みのサイズをご用意できます。」
「ハリウッドスター、フェスチュンマクレガーさんの秘密を貴女だけにお教えします。彼の好みはルファルガ。当店ではルファルガのコレクションとして今年発表の香水、バック・・・。」
 どれもこれも麗子の言うとおりジャンクメールだった。それらは麗子の当選を聞きつけた売り込み用のダイレクトメールだったが、龍一は麗子が何に当選したのか、わからないままメールを聞いた。
 ただわかることはメールの向こう側では麗子の身体のサイズまで知り尽くしていることだった。それは家族でさえ知らない裸の麗子の姿を彼らはすでに知っているかのようだった。

 西暦200X年4月。高度に発達したコンピュータ社会は個人情報が徹底してマーケティングに利用される時代を迎えた。もはや個人情報なしでは販売活動は成り立たたず、消費者もまた自分のプライバシーが販売活動に使われることにマヒし始めていた。



 5月連休初日のみどりの日。突然、二人の訪問者が玄関先にやって来た。
「すいません。誠にすみませんでした。これは私どもの手違いでして、何とお詫びして良いのか。この通りでございます。」と中年の背広姿の男は深々と頭を下げた。すると隣の若い女もつられるように頭を下げた。
 応対する早瀬麗子は口を尖らせ不満げに訴えた。「でもそんなこと一方的に言われても困ります。私だって楽しみにしていたし、パーティ用ドレスだって借りちゃったし。ほんとに困るんですっ!」
 麗子の荒げた声を聞きつけて母の幸子が顔を出した。すると麗子は幸子にも不満を訴えた。「だって例のフェスチュンマクレガーとのパーティのこと。当選は間違いだと言うのよ。ひどいわ。母さんだって、ひどいと思うでしょ。」
 男は幸子の顔を見るとすかさず挨拶をした。「お母様でございますか。私はベイシティシステム株式会社営業部課長の峰岸勝重と申します。」
 幸子は麗子の前に出ると峰岸課長に詰め寄って言った。「麗子、母さんに任せなさい。峰岸さん。これはどういうことなのですか。」
「お母様。実はラッフルズ英会話学校の生徒さんの情報は全て私どもが管理しておるのですが・・・」と峰岸課長は事情を説明し始めた。
 峰岸の話によると、今年の抽選対象は1999年までに入校した生徒のはずだった。ところが翌年の西暦2000年1月に入校した麗子がなぜか1999年までの扱いに紛れ込んでいたことがわかった。原因は電算機のデータを1999年から2000年へ切り替える際にトラブルが生じたと思われた。
 このトラブルはコンピュータ業界では通称「西暦2000年問題」と呼ばれているケースで、西暦の下2桁だけで年を管理していると99年の次の年は00年となってしまい、年代順に並べると00年に入校した麗子が最も古い先輩になってしまうミスである。
 コンピュータは在籍期間が長いほど当選確率が高くなるようプログラムされていたため麗子の在籍期間は99年間と見なされ当選確率はほぼ百パーセントだった。

「このミスは学校側から強く訂正を求められましてね。この通りキャンセルをお願いに参った次第でございます。」と峰岸はまた深々と頭を下げると隣の女も頭を下げた。
「そんな事は黙っていれば、わからない事じゃないかしら。そうでしょ。峰岸さん。」
「ところがそうはいかなくなったのです。学校側はすぐに別の生徒さんに追加の当選通知を出してしまいましてね。仕方なくフェスチュンマクレガーさんの事務所にパーティ参加者を十二人でお願いしてみたのです。ところが事務所側から十一人で約束したはずだとクレームを付けらてしまったのです。」
「一人位なんとか、ならないの?」と幸子は腕組みをして怒りを露わにした。
 その怒りに比例するように峰岸の頭が繰り返し下げられた。「お母様。ご存じのようにあちらの国の人は契約にうるさくてね。おまけにフェスチュンマクレガーさんを入れるとパーティは十三人になるのでキリストの最後の晩餐と同じになってしまうんです。
これでは縁起が悪いと文句をつけられ、パーティは中止だって脅されちゃって弱ってるんですよ。
お嬢様の残念なお気持ちは、よぉく、ご理解できます。次回の抽選には無条件で当選ということで、ここはどうか一つ、これでご勘弁をお願いいたします。」と峰岸は言うと隣の女に目で指図した。
 女は手提げ袋から菓子折らしきものを差し出し、その上に白い角封筒を置いた。

「だって次回のパーティにフェスチュンマクレガーが来るとは限らないじゃない。そんなの嫌っ。絶対に嫌よ。」と麗子は幸子と峰岸のやりとりに割り込んだ。
「まぁまぁ麗子。こんなにお詫びの品をいただいたのだから許してあげなさいよ。」と幸子は急に柔和になると麗子をたしなめた。
 幸子は菓子折を受け取ると峰岸に向かって笑みを返して言った。「本当にご丁寧にありがとうございました。まぁ、人には間違いはありますものねぇ。」
 幸子に許しを得ると峰岸は機を得たとばかり、麗子の不満そうな顔を無視してさっと逃げるように引き上げてしまった。


「麗子。早く封筒開けてみなよ。1万かね。それとも3万かね。千円札ってことはないよね。商品券でもありがたいねぇ。何をモタモタしているんだよ。」と幸子は客の出ていったドアーを閉めながら言った。
「だって糊付けされているんだもの。ちょっと待ってよ。」
 麗子は白封筒を手で引きちぎると中から茶色のチケットを2枚取り出した。それは麗子が数日前にとっくに見てしまったロストボリアリスの映画招待券だった。みるみるうちに怒りで爆発しそうな麗子の様子に、幸子はサッと菓子折だけ奪い奥へ逃げて行った。

 幸子と入れ違いに玄関先にやってきた兄の早瀬龍一は「ちょっとパチンコに行って来るよ。」と言って靴を履こうとした。
「畜生。こんなの、あげるわ!」と麗子はチケットを龍一に押しつけた。
「2枚もいらないよ。」と龍一は言うと、1枚だけ受け取ろうとした。
「女の一人ぐらい何とかしろってんだよっ! クソっ!」
 麗子の険しい顔に恐れをなして龍一はあわてて2枚とも受け取ると飛び出して行った。

 麗子は龍一が出ていった後も一人でわめき散らした。
「女の一人ぐらい何とかしろ! 馬鹿野郎っ! 何で女が1人ぐらい増えちゃいけないんだ。何で十三人じゃいけないだよ。クソっ。ここは日本だぞ。日本で縁起悪いのは昔から4と9に決まっているんだ。勝手に合計するな。畜生! ちくしょょょぅ!」


 一方、妹に女でも探して来いとハッパをかけられた龍一は2枚のチケットを手にしたまま門の前で思案にくれていると先程の峰岸達の乗った車が家の前まで戻ってきた。
 峰岸が窓から顔を出して龍一に声を掛けた。「お宅、早瀬さんの家の人ですかねぇ。いやぁ。近道しようと思って進んだら元の所へ戻ってしまってね。駅にはどうやって行けば良いですかねぇ。」
「ここのニュータウンは住宅地に通り抜けの車が入り込まないように作ってあるのです。よかったら僕も駅に行きますから案内しましょうか。」と龍一は道案内をかって出た。
 港北ニュータウンは横浜市北部の丘陵地帯に広がる2千5百ヘクタールの日本最大規模を誇る計画都市であり、多くの緑地、都市施設、広い車道が整備されている。
 そして1997年には早くもインタラクティブCATVと呼ばれる双方向通信を使った地域ぐるみの都市情報システムの実験が行われるなど情報先進都市でもある。

「麗子さんのお兄さんなら、わかっていただけそうだから話しますけれど。実はね。ミスしたのは私どもではないのですよ。」交差点で信号待ちで停車すると峰岸は後部座席に座った龍一に向かって愚痴をこぼし始めた。
「本当に操作ミスしたのは静岡県の三島にある、うちのお得意様の東海センサス社という会社でね。この会社がラッフルズ英会話学校のデータ処理をしているんですわ。我々は東海センサスさんの下請けをやっているソフト開発会社に過ぎないのですよ。」
 龍一には関心のない話だったが、熱っぽく語る峰岸に少し気を使って1つだけ質問してみた。「どうしてミスをしていないのに詫びに来られたのですか。」
「やはり、おかしいと思うでしょ。普通なら変ですよねぇ。東海センサスさんからお宅へお詫びに行くにはちょっと遠いから、代わりに私らに行ってくれって頼まれたのですよ。
あそこの電算部門はうちの大きな得意先だから私ら文句も言えませんでしょ。あの強引さには嫌になりますよ。わかってくれますよねぇ。お兄さん。」と峰岸は憤懣やるかたない様子でまくし立てた。
 龍一はあまり事情もわからないまま峰岸の無念そうな気持ちに同情して頷いた。
 峰岸は龍一の意を得たとばかりますます舌に熱が入った。「ったく。私が謝る筋合いじゃないですよ。私らには何の落ち度もないんですからね。本当の被害者は我々の方ですわ。久しぶりの連休だと言うのに他人のミスの尻拭いにこんな所まで駆り出されるなんてね。ついてませんや。これから家に帰ってヤケ酒でもあおりますよ。なあ。美並。そうだろ。」
 その呼ばれた女は美並由美子という名だった。光沢のある白いカットソーに髪を上げて清楚な印象だった。女は峰岸に言われるままに頷いた。

 車はセンター南駅の広いターミナルに到着すると早瀬龍一と美並由美子を降して峰岸の車は走り去って行った。先進的なデザインで構成された広大な駅前ターミナルを中心に周囲には大型デパート、区庁舎と広い総合公園施設が取り巻いている。
 駅は横浜中心部と港北ニュータウンを結ぶ横浜市営地下鉄3号線の駅である。駅舎の内部には地上1階から3階の改札口まで一直線に伸びる長いエスカレーターがある。そのエスカレーターは天国へ続く階段のようにそびえ立っていた。
 エスカレーターがゆっくりと二人を乗せて傾斜面を昇っていった。由美子は龍一の乗る踏み板に一緒に並ぶとようやく口を開いた。「今の話、麗子さんが聞いたら憤慨するかもしれませんね。」
「僕は黙っているから大丈夫です。」
「ありがとうございます。内緒にしておいてくださいね。お願いします。」と由美子は狭い踏み板の上で身をかがめて頭を下げた。
「もちろんです。」と龍一も狭い踏み板の上で窮屈そうに頭を下げた。
「それに内輪の愚痴まで聞かされて聞き苦しい思いをさせてすみませんでした。これは私からの気持ちです。1枚しかありませんけれど受け取って下さい。」と由美子はバックからロストボリアリスのチケットを差し出した。
「あっ、僕も持っています。ほらっ。」と龍一は2枚のチケットを見せた。
「あっ。それは、もしや先程の。」
「そう。貴女達から貰ったチケットが回って来ました。よろしかったら1枚差し上げます。どなたかと一緒に見に行って来てください。」
「いけないわ。だってそれは私が差し上げたものですから。」
「僕は1枚あれば足ります。」
「私も1枚あれば十分です。」
 龍一と由美子は顔を見合わせて初めて笑った。
 エスカレーターが頂上に到着した時、二人は改札口とは違う方向へ向かった。それは龍一にとってまさに天国へ向かうように感じた。


 二人は広い陸橋を渡り、駅前にそびえる巨大なショッピングセンターのシアターに入った。ロビーは次の上映を待つ人で満員電車のような賑わいだった。入れ替え時刻が来ると広い客席があっと言う間に埋まってゆく。龍一達はスクリーン最前列に近い通路側にようやく席を確保した。
 隣には小学生らしき男の子3人組が座った。3人組は座るやいなや持っていたビニール袋の中からポテトチップの特大の袋を取り出すとすぐに食べ始めた。彼らは短い休憩時間を惜しむようにひたすら黙々と食べ続けた。まるで食事代わりのように口に放ばり手にした缶ジュースで喉へ流し込んだ。そのポテトチップの香ばしい香りが龍一達の席にも漂って来た。
「何だかお腹が空いてきそうな良い匂いですね。」と龍一が隣の由美子に囁いた。
「ジェリービーンズでよかったら、どうですか。」と由美子はバックから白い小袋を取り出して手の上で軽く振ると、赤や黄色のジェリービーンズが転げ出た。
 龍一はまるで恋人気分だった。由美子の手の平からジェリービーンズを摘む時、指先に感じるしっとりと柔らかな感触が唇に触れた時のようなときめきを感じた。もう一度、ジェリービーンズを摘む時、由美子の横顔をもう一度盗み見た。ただそれだけなのに心が躍り、シアターのライトがまぶしく輝いて見えた。

 突然、上映時刻のブザーが鳴ると子供達は最後の一掴みを奪い合って口に押し込むとまるで頬袋を膨らましたリスのような顔になった。
 スクリーンに主演のフェスチュンマクレガーの顔が大きく投影された。その映像は立体映像によりスクリーンの奥の空間に浮いてるように見えた。その俳優の姿が次第に小さくなり等身大の大きさになった。その映像が一瞬、スクリーンから消えた。
 再び映像が現れた時、彼の姿は2人になっていた。彼が双子の俳優かと思った瞬間、スクリーンの映像がまた消えた。すると舞台に本物のフェスチュンマクレガーが立っていた。彼はスポットライトを浴びて龍一達から数メートルの所に立っていた。
 途端に女性達の歓声があがり館内は騒然となった。最前列の女性達は一斉に総立ちとなると子供達も視界を塞がれて立ち上がり、フェスチュンマクレガーを一目見ようと背伸びした。
 彼の言葉は日本語に翻訳されてスピーカーを通して館内へ流れているが、マイクに英語で話しているのが龍一達の席まで聞こえてきた。彼は新作映画のキャンペーンで首都圏の主なシアターを回っているようだった。
「チェッ。見えねえじゃん。」と子供の一人が文句を言った瞬間、口に放張ったポテトチップがもう一人の子供の顔に向かって飛び出した。
「誠っ! 汚ねぇじゃんか。このバカっ!」とベトベトのホテトチップを浴びた子供が誠と呼んだ相手の頭を小突き飛ばした。勢いついて龍一の胸に頭ごと食らった。
 2人の子供達は飛び上がって並んで直立すると、急に龍一に向かって礼儀正しく声を揃えて「ごめんなさぁい!」と合唱するように謝罪した。 しかし子供達は元に向き直るとまた喧嘩が続行した。
「孝治っ。おまえが頭をぶったからだぞ。おまえのせいだ。」と重田誠は反町孝治の肩を突いた。
「違うぞ。誠が汚いマネをしたのがいけないんだ。そうだろ。武雄。」
 重田誠と反町孝治の喧嘩をよそに、缶ジュースの最後の一滴を飲み干すのに忙しかった大和武雄は不意に同意を求められ、言われるままに頷いた。
「ほらっ。見ろ! 武雄だってそうだって言ってるぞ!」と孝治は誠の胸ぐらを掴んでわめいた。
「武雄は何も言っていないじゃんか!」
「うるせえっ!」と孝治が拳で殴りつけようとすると、咄嗟に誠は顔を守ろうとして持っていたビニール袋に入った箱を頭にかざした。
 その瞬間、その箱をすっと受け取る手があった。突然、強いスポットライトに誠が浮かび、同じライトの中心にフェスチュンマクレガーが現れた。マクレガーはビニール袋から箱を取り出すとサインペンでサッとサインをした。
「この箱は何かね?」とマクレガーの声が翻訳されて館内に流された。
 するともう一本のマイクが誠に向けられた。「ブロブスっていうソフトなんです。」と誠の声も館内に拡声されて流れた。マクレガーは胸ポケットに入れた同時翻訳機で通訳されてイヤフォンで聞いているようだ。
 マイクを向けた司会の女性がフォローするように言った。「それって確か。学校の教材になっているソフトウェアだったわよね。」
「ほう。勉強の道具を買ってきたようだね。感心な子供達だ。」とマクレガーは言うと子供達を気に入ったらしく自ら握手を求めた。誠はベトベトになった手をスボンでゴシゴシと拭き取ると笑顔で握手に応えた。そして誠は最後に一言付け加えた。「本当はね。これはブロブスと言っても、スクールブロブスと連結して使うモーションブロブスの方なんです。」
 マクレガーも司会の女性もそれが何のことかわからず首をかしげた。
 マクレガーは子供達の言うことに興味を失うと隣の美並由美子に目が移った。彼は由美子の手の平のジェリービーンズを見つけると摘んで口に入れ、親指を立てた。「おぉグットね。懐かしい味ね。この西瓜味がグットね。」と大げさなジェスチャーで喜んだ。
 そしてサインペンを取ると何か書くものを求めた。咄嗟に由美子は手にしたジェリービーンズの小袋を差し出すとマクレガーはさっとサインをして返してくれた。
 フェスチュンマクレガーの客席サービスがあっと言う間に終わった。サインをもらい損ねた観客が名残欲しそうに色紙やハンカチを振るのを尻目にサッと舞台に上がって去って行った。

 一方、サインを貰って得意気な誠とは裏腹に孝治は文句を言った。「おい。誠。何で本当の事を言ってしまったんだ?」
「だって、嘘を言っちゃいけないだろ。」と誠は反論した。
「モーションブロブスが学校で禁止になっているのを誠も知っているはずだ。もしこの中に学校の先生がいて、聞いていたらどうするんだよ。あとで没収されるかもしれないじゃんか。」と孝治が責め立てた。
 すると誠も必死に防戦した。「孝治君。そんなこと言ったって嘘なんかつきたくなかったんだよ。」
 楯突く誠に孝治の苛立ちは頂点に達した。孝治は誠の胸ぐらを掴んで怒りをぶつけた。「誠。あのソフトは安くはないんだぞ。取り上げられたら、せっかく貯めたお小遣いがパァーになるじゃんか!」
 誠は胸ぐらを掴まれてもひるまず、なおも反論した。「孝治君。お金なんか、ママからまた貰えばいいじゃないか。」
「この間抜けっ! モーションブロブスを買うのを親が許すわけないだろう。畜生! 手に入らなくなったら、おまえのせいだぞ!」と孝治は誠の胸ぐらを掴んだまま椅子から立ち上がった。そしてまさに殴りかかろうとした時、場内が真っ暗になり二人の姿が映写光に浮かび上がった。唖然とした孝治と誠の顔にSFアドベンチャー超大作、ロストボリアリスのプロローグが映し出された。

 龍一は子供達の言葉に興味を惹かれた。学校の教材になっているのに学校で禁止されているという不可解なソフトウェアが気になった。いったいブロブスとは、どういうソフトウェアなのだろうか。



 その夜、龍一は自宅に戻ると麗子の部屋に寄ってジェリービーンズの入った小袋を渡した。
「麗子にサインを貰って来たんだ。誰のサインかわかるかい?」
「これ。花咲じじいのサイン?。」
 麗子の言うとおり白い袋の表に桜の花の絵に「咲」と一字書かれたネームシールが貼られていた。
「それは違うよ。裏をみろよ。」
「崩れた英語のサインみたいけど。誰なの?」
「フェスチュンマクレガー。本物さ。目の前で書いてくれたから確かだ。」
 その瞬間から家中に響きわたる麗子の声が轟き、それはまるで悲鳴に近い声であった。

 麗子の興奮がしばらくして、ようやく落ち着き始めた。麗子の目は虚ろに宙を彷徨いながらも手にはしっかりと小袋が握りしめられていた。「これ。くれるよね。ねっ、ねっ。いいよね。タダでくれるよね。いいよね。」
「みんなあげるよ。中に入っている西瓜味のジェリービーンズはマクレガーも喜んで食べたよ。」
「ひぇぇぇ。知らなかったわ。これがマクレガーの好物なのね。西瓜ってどれなの? 彼の食べたのはどれなのよ。」と麗子は小袋を逆さまにすると七色のジェリービーンズがコロコロと転がり出た。そして最後に金色の細いネックレスが落ちてきた。そのネックレスのチェーントップには玉粒のような形のゴールドが飾られていた。
「えっ、これもくれるのぅ!」と麗子の瞳孔が開き切った。
「そんな馬鹿な。それは違うよ。」龍一も目を疑った。小袋の奥にネックレスが入っていたとは気が付かなかった。
「じゃぁ。これ誰のよ。どこの女にあげるのよ。もしかして彼女ができたのぅ。へええ。お兄ちゃんにもやっと思春期が来たんだぁ。ほっほほ。」
「違うよ。これは。何かの手違いだよ。」
「ウッフフッフ。どうやらタダで仕入れたチケットでしっかりお釣りを貰って来たようだね。さぁ、どこでお釣りを貰って来たのか白状しなっ!」と麗子はネックレスを龍一の目の先でブラブラと振りながら迫った。
「麗子もちょっと知っているかもしれない人だけど。今はちょっと勘弁してほしいかな。なんてね。エヘヘッ。」と作り笑いを浮かべながら隙をついてネックレスを奪い取ろうとした。
 麗子はサッとかわすと更に迫った。「嘘っ! 私の知り合いに咲という名前なんかいないわよ。誰なのよ。白状できないなら、このネックレスは落とし物として預かるよ。ほら、ほらっ。早く言いなさいってばぁ。この咲っていうのは誰なのよ。」
 龍一は再びネックレスを奪い取ろうとすると麗子が一喝した。「コラッ! 花咲じじいのネックレスを、放さんかじじい!」
「サインあげたじゃないか。」
「どっちが優勢なのか、理解していないようだねぇ。」と麗子は腕組みして言うと突然、大声で叫び、部屋を出ようとした。
「お母さぁん! お兄ちゃんはね。エッチぃんだよぉ。どっかの知らない女にねぇ・・・。」
 龍一は急いで自分の部屋に戻り、小さな紙切れを握って戻って来た。
「わかった。これも付けるから。勘弁してくれ。そのネックレスを返してくれ。頼むっ!」と龍一は手にした古い紙片を差し出した。それは龍一が小学生の頃に作った肩もみ券だった。
 たどたどしい字で1回3分と書かれた紙片を見せられた麗子はあきれた様子で言った。「私だってお兄ちゃんと一緒に作った肩もみ券。まだ使っていないのを持っているのよ。ほらっ。」
 麗子も負けずに机の引き出しから麗子の字で書かれた紙片を見せた。


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