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第八章 夜光の賭け 連休が明け、人々はけだるい気持ちを連れて通勤電車から吐き出された。美並由美子もその人々の群に混じっていつもの電車から降りた。 ベイシティシステム社へ出社すると上司の峰岸課長に東海センサス社の件で呼ばれた。 「連休中もご苦労様だったね。どうだったね。講習会の方は。」 「それは・・・。」由美子は即答できなかった。 「まさか、出来なかったとでも言うつもりかね?」「いいえ。済みました。」 「変な奴だな。出来たならば出来たと素直に言えばいいじゃないか。」 由美子は思いきって切り出した。「一つお願いがあります。その東海センサス社の担当から外していただけないでしょうか。」 「おいおい。いきなり外してくれとは一体どうしたと言うのかね。あの会社は君が面倒みてきた大事な取引先じゃないか。あそこの電算部の鹿島係長はうちの会社の技術を高く評価していただいている。女の君でも業績を伸ばすことができたのも、あのような良い顧客が付いているからじゃないのかね。その担当を外れたらどうなるか、わかっているのかね。」 「苦労するのは覚悟しております。他の会社を新規開拓して頑張りますから、どうかお願いします。」 「新規開拓は今だって頑張ってもらわなければ困るんだよ。そんな事より担当を外してくれとはどういう理由なんだ。」 「それは。私の都合ですが。」 峰岸課長に理由を問われたが由美子は説明することが出来ず、ただ頭を下げるばかりだった。 「簡単に担当を替えてくれと言ったってね。課員が余っている訳じゃないんだよ! 訳のわからん都合で君の代わりに交替させられる者の身にもなってみろ。毎日、自分の顧客のために骨身を削っている課員逹に急に交替などと、どうして言えるんだね。」 「交替していただける方には私が引継ぎをキチンと行い、業務に支障がないようにします。わがままなお願いですが。」 「引継ぎが出来れば良いと言うものではない。ダメ! ダメだよ。理由もわからずに交替など示しがつかん。そんな女のわがままなど、上にも報告できないぞ。」 「どうかお願いです。」由美子はなおも深く頭を下げた。 「くどいっ! そんなものは女の甘ったれた考えだ。さっさと仕事に戻りたまえ!」 由美子は峰岸課長の気迫に押されて引き下がった。野島洋平のようにはうまく事が進まなかった。このまま東海センサス社の担当なら再び数ヶ月後には再び講師に行かなければならない。それは出口のない迷路に閉じ込められたようだった。 週末の夜、早瀬龍一は桜川咲を車に乗せると港北ニュータウンの広い6車線を飛ばした。緑地の間に広がる北米風住宅、高層マンションと郊外型レストランが交互に左右に流れて行く。そして車は美並由美子のマンションに到着した。 由美子は龍一と咲のために手作りのご馳走を用意して待っていた。 「この部屋は広いですね。」と龍一は初めて由美子の部屋に入ると開口一番に言った。部屋の真ん中に食卓のテーブルがあり、あとは黒っぽい書棚やテレビなどがいくつか置かれていたが、まだ白い壁の空間が目立つ部屋だった。ただコンピュータの端末機材だけが立派なのが目立った。 由美子は二人を食事の支度をしたテーブルに案内すると言った。「今年の1月に引っ越してきたばかりです。まだ生活道具を入れただけという感じだから殺風景でしょう。」 龍一は手土産に持ってきた赤と青のワインボトルをテーブルに置いた。最初に赤のティッツィアーノ・スパーリングワインを開けると真っ赤に透き通ったワインにピンクの泡が立った。その赤い色はまさに真っ赤なルビーの色そのものだった。 由美子はグラスを手にすると龍一と咲に三島まで来て迷惑をかけたことに改めて礼を述べた。そして3人の再会を祝し乾杯した。 咲が最初にグラスを飲み干すと言った。「でも鹿島君とうまく行かなくなってしまったのは残念ね。でも由美子。元気だしてね。また新しい人見つければ良いじゃん。今度は近場の男にしなよ。交通費かかるから。」 「みんな、ありがとう。早くあの人のことは忘れるわ。さあ。みんな一杯食べてね。」 メインディッシュに舌鼓を打つと龍一が言った。「これはドネルケバブでしょ。すごくおいしいよ。」 ドネルケバブは子牛を一頭ごと回しながら焼き、焼けたところからスライスして食べるトルコ料理の代表な伝統料理である。 「喜んでくれてうれしいわ。最近の穀物不足の影響で牛肉の質がすごく落ちたでしょ。食べてもらうまで心配だったわ。」と由美子が言った。 慢性化した異常気象とアジア地域の食肉需要の増え過ぎで、今年も世界的な穀物不足が深刻になった。その影響によって食肉価格の高騰と品質低下が進んでいた。 龍一が新聞で知った話を言った。「そう言えば、最近は飼料効率のいいブロイラーの生産の方が増えてきているそうだ。そして鶏よりもっと飼料効率の良いダチョウが人気らしいね。」 すると咲が食べた経験があるらしく感想を言った。「そうそう、ダチョウって脂身のない牛肉って感じで柔らかったわ。結構いけるのよ。今度新しくエミューとか言う鳥もメニューに加わったみたいなのよ。今度、みんなでエミューを食べにいかない?」 「エミューって黒いダチョウって感じの鳥よね。サファリパークで見たことがあるわ。エサをあげたら手を突っつかれたわ。あれを今度は私達が箸で突っつくの?」と由美子が言った。 「動物園にいる鳥かぁ。本当に旨かったら食べに行くという事でどうかな。だから咲ちゃんが先に偵察に行って来てからってことで。」と龍一が牽制した。 「一人で偵察に行くのは嫌よ。みんな友だちでしょう。みんなで食べに行けば一人くらいは口に合う人がいるものじゃない。そうでしょ。ねえ早瀬君。」と咲は龍一に強引に同意を求めた。 「う、うん。じゃ今度、みんなで偵察に行こうか。由美子さんも一緒に行くよね。」 「あの鳥よね。そうねぇ。みんなで行くならいいわよ。」 「OK! 決まったわ。3人で偵察に行こうね。それじゃ、もう一度乾杯ぁぃ。」と咲は得意顔で言うと自分のグラスをみんなのグラスに順にぶつけて杯をあおった。 咲は飲み干したグラスをテーブルに置くと話を切り出した。「ねえ。もう一つ偵察したいものがあるんだけど。」 「鳥の次はシーラカンスかしら。」と由美子が言った。 「残念でした。違うの。食べ物じゃないの。ねぇ言ってもいい。」 「言ってもいいわよ。」 「みんな、何言っても怒らないって約束してくれる?」と咲が念を押した。 「約束するわ。」「僕もOKだ。早く言いなよ。」と由美子と龍一が話をせかした。 「じゃあ言うわ。みんな。鹿島君がどうしているか気にならない? 由美子と別れてメソメソ泣いているのかしら。見に行ってみたくない?」 「咲ちゃん。思い出させないで。」 「ほら、怒らないでって言ったじゃないの。」と咲が不服を言ったものの、逆に由美子に非難されて咲は詫びた。「由美子、ごめんね。」 「私ね。もう鹿島さんの事は全て忘れようと思っているの。でも仕事でまた再会したらズルズル引きずってしまうでしょ。上司に担当替えをお願いしたの。でも・・・」と由美子は上司に担当替えを申し出たが、女のわがままと一蹴されてしまったことを話した。 「だって、東海センサス社を開拓したのは由美子のおかげでしょ。少しぐらいのわがまま聞いてくれたっていいと思うの。まったく。」咲はグラスを一気にあおった。 すると龍一は由美子にきいた。「東海センサス社を開拓したのは由美子さんだったのですか。」 咲は飲みながら代弁した。「ベイシティシステム社は由美子がいるからやっていけるようなものよね。確か由美子と鹿島君って昔からの知り合いだったはずよね?」 由美子は鹿島との知り合った経緯を話した。 かつて鹿島は由美子と同じベイシティシステム社でシステムエンジニアというコンピュータの技術者をしており、その頃、由美子と知り合った。 その後、鹿島は腕を見込まれて2年前に東海センサス社に引き抜かれた。彼は東海センサス社に移っても由美子を通してベイシティシステム社との取引を続けた。 「由美子と鹿島さんの縁故関係で取引が続いていたなら、由美子がもし会社を辞めるって言ったら鹿島君の会社からの仕事の注文もなくなるかもしれないでしょ。担当替えのことも聞き入れてくれないかしら。」 「無理だと思うわ。私の上司は部下にグチュグチュ注文つけられるのは嫌いなのよ。嫌なら辞めろって言われるわ。」 咲はグラスを由美子のグラスにぶつけて乾杯の真似をして威勢をつけて言った。「よぅし! 辞めてやろうじゃないの。ねぇ、ねぇ。龍一君も賛成だよね。賛成なら次のボトルも開けようよ。」 龍一が青いボトルを持って躊躇していると咲が龍一の腕を揺さぶって催促した。青いボトルから透き通った白ワインが3つのグラスに注がれた。 「それで会社を辞めたら、その後どうするのですか。」と龍一が由美子にきいた。 「実はもうすぐ鹿島さんと一緒に会社を作るつもりだったの。だけど彼と別れちゃったから、もうダメね。」 咲と龍一はグラスを止めた。 「会社を作るって何なの? 初めて聞いたわ。」と咲が尋ねた。 「咲ちゃん。ごめんね。別に隠すつもりじゃなかったけれど、つい言いそびれていたみたいね。」 「それで由美子は鹿島君について行くつもりだったの。」と咲は由美子の肩にすり寄ってきいた。 由美子は鹿島と一緒に会社を経営することを誘われ、ベイシティシステム社をいずれ辞めるつもりでいた。そして仕事場兼用にするつもりで広い部屋を借りていたことを打ち明けた。 咲と龍一は改めて部屋を見渡すと女一人で暮らすには広過ぎるのを感じた。 「だって、こんな広いマンションって家賃高いんじゃないの?」 「その通りよ。彼に相談する間もなく契約してしまって失敗したわ。」 由美子は事務所にもできる大きめの部屋を不動産屋に頼んでおいた。それから数日後には良い物件が出たからすぐに押さえないとダメだと釘刺され、予定よりも早く契約してしまった。 「つまり、煽られちゃったのね。こんな風にね。」と咲は手の平で上気した頬を扇いだ。 「確かに眺めも悪くないし良い部屋であることに嘘ではなかったけれど、今じゃ持て余してるの。私の給料で持ち堪えられるのも時間の問題だわ。その事を考えると憂鬱だわ。」 「体が熱くて堪らないわ。風に当たってきてもいい。」咲は一人グラスを片手にベランダに出た。 ベランダからは周りに広がる黒々とした樹木の間と所々に家の明りが見えた。そして6車線道路のオレンジ色のナトリウム灯の列が飛行場の誘導灯のように丘の向こうの夜空へ続いていた。 「ねぇ、見て見て! あれ何。」と咲が叫んだ。 「どうしたの?」と龍一もベランダに駆け寄り声を掛けた。 「あの光って、UFOじゃないかしら。ほらほら、あそこよ。光が空で止まっているわ。」と咲が夜空を指差して言った。 龍一も夜空を見上げてそれに答えた。「あぁ、本当だ。でもただの星じゃないのか。」 「だって光が少し動いたわ。星なんかじゃないわよ。」 「うむ。それにしても明る過ぎるな。あれは飛行機かな。」 「絶対にUFOよ。賭ける?」 「ああいいよ。咲ちゃんは何を賭ける?」 「それじゃ、鹿島君を賭けましょ。もし咲が当たったら彼の様子を早瀬君が偵察してきてよ。どう?」 「僕が当たったら?」 「もちろん咲が見に行ってくるわ。」 暗い空に中空に高く止まった光の点が次第に大きくなってきた。 「わぁ、ほんとにUFOよ。カメラ! カメラ持ってきて!」という咲の叫ぶ声に、由美子はあわてて部屋の中を探した。 光の点がさらに大きくなると光源から伸びる光の帯が見えてきた。 「白い光の隣に青い光も見えるわ。」 光の帯が真っ直ぐ、上空に近付くと轟音とともに旅客機が飛び去った。 「あぁ残念。早瀬君の勝ちね。仕方ないわね。咲が偵察に行かなきゃね。ただしみんなにも手伝って貰うわよ。咲は鹿島君の顔を知らないから、コイツだよって教えてよね。頼むわよ。」 由美子と龍一は顔を見合わせたまま言葉が出なかった。咲はテーブルからグラスを二つ持ってくると由美子と龍一に手渡した。咲は二人のグラスに残りのワインを注ぐと言った。「咲は本気で言ってるのよ。」 咲は由美子の手からデジタルカメラを取ると呆然としている二人に向かってシャッターを切った。 |