第七章 遠州丸への道 それは一日前に遡る。 夕刻、美並由美子は早瀬龍一を見送った後、フォレストビューホテルへ向かった。チェックインすると部屋のデスクに一人座りバインドコンピュータに電源を入れた。衛星通信を使ってベイシティシステム社のコンピュータに記録されている講習用テキストを呼び出して校正を始めた。 六時過ぎにテキストが完成すると室内テレビのプリンターサービスを使って印刷した。 続いて電話番号サービスの職業別案内から遠州丸という店を探して画面に地図を呼び出した。ホテルから少し離れた場所のようだった。地図のプリントサービスを選択したが印刷途中で異音とともに停止してしまった。フロント係に連絡する間も惜しむように時間が押し迫っていた。途中までプリントされた地図を引きちぎるとそのままスイッチを切った。 富士山をすっぽり包んだ雲は金色から朱に変わり、夜の始まりを告げていた。由美子は地図を頼りに遠州丸へ向かった。 待ち合わせの七時を過ぎると店の前に青みがかった光を放つフォッグランプを点けたLeeデビュタントが入ってきた。運転席から薄茶色のブレザーを着た男が降りると店へ入った。 「やぁ由美ちゃん、待たせたね。この店はすぐわかったかい。」と男は由美子のテーブルに座った。男は東海センサス社電算部係長の鹿島哲也だった。 「地図を見てきたからすぐわかったわ。ねぇ。それより鹿島さん。今日2度目の挨拶だけど1か月ぶりね。ずいぶん待ったような気がするわ。」 「そうだったね。今朝、会社で会った時はあまり話が出来なかったからね。なにしろ、うちの会社のお局様達の追及が厳しくてね。あの時は逃げるのに精一杯だったょ。」 「あのことね。鹿島さん。いや鹿島係長に何も相談もせずに勝手に会社中のミニパコムをいじくり回して、ごめんなさい。」 「いいんだょ。俺も毎日忙しくてお局様達の面倒をみれなかったから助かったょ。早瀬君だったかな、彼もよくやってくれたし感謝している。とてもいい感じの男じゃないか。」 鹿島は料理のメニューをサッと品定めすると手短に注文した。 「早瀬さんはいい人よ。まだ知り合ったばかりの人なの。REX社のエンジニアだそうよ。私が困っているのを話したら会社休んでここまでわざわざ来てくれたの。それも会議があったのに。とっても親切な人なの。最初のきっかけは・・・」と由美子は首からネックレスを外して見せると早瀬龍一との出会いの経緯を語った。 前菜に名物の桜エビの造りが運ばれてくると由美子の話が中断した。 「由美ちゃんはいい人に出会ったね。」と鹿島のこの一言で、由美子は早瀬龍一のことに触れるのはやめた。少し早瀬龍一のことばかり話し過ぎたことに気がついて話題を変えた。 店は漁師小屋を模した構えで天井からはイカ釣り船のランプが吊され、厚い一枚板のテーブルには黒い墨で遠州丸とうっすらと書かれて舟板の雰囲気を出していた。 恰幅のいい男が厨房から皿を持ってやってくると威勢よく言った。「磯の姉弟盛りお待ちどぉ。」 「カツオのたたきだよ。三島は沼津港に近いからね。三島に来た時くらいは旨い魚を食べてほしいね。」 「最近、エルニーニョが頻発するせいか、カツオも獲れなくなったわね。スーパーでもめったにお目にかからなくなったわ。久しぶりだわ。とてもおいしそう。ねぇ。これってどうして磯の姉弟盛りというの?」 「答えは簡単さ。そのカツオの下に敷いてあるワカメがカツオの妹で、隣のサザエが姉さんだよ。駄洒落だってこの前、板前から教えてもらったんだ。」 「なるほどね。それでどこのワカメちゃんとここに来てたの?」 「あぁ。可愛いワカメちゃんだったらよかったけれどね。うちの会社の波平さんに連れてきてもらったんだ。」 「もしかして大村専務のことかしら。でも波平さんは可哀相よ。まだそこまで髪の毛行っていないもの。」 「それは大村専務が聞いたら喜ぶよ。あっははっ。」 由美子は鹿島が思ったより機嫌がいいのでホッとした。そして1か月ぶりの再会に言葉が弾んだ。 「ここは魚がおいしいわね。この近くは魚が豊富なのでしょうね。」 「最近、うちの会社でスキューバダイビングが流行っていてね。この前、誘われて初めて海に潜ったよ。砂の中からハゼとエビが仲良く顔を出していたり、見たこともない魚があちこちにいたな。そういえば子供のマンボウがプカプカ泳いでいるのを見つけたら大騒ぎになってね。ガイドの人がめったに見られないから運がいいって言われたよ。」 「子供のマンボウなんて可愛いわね。私も見てみたいわ。」 「そうだ今度。一緒にやらないか。場所もここからさほど遠くはないよ。」 「面白そうね。私にも出来るかしら。」 二人が店を出ると夜風が心地よかった。由美子がアルコールで紅潮した頬に手を当てながら言った。「気持ちいいわね。ホテルに戻るよりしばらくこうして夜風に当っていたいわ。」 「それならダイビングした海まで下見を兼ねてドライブに行かないか。」 二人は車で夜の海へ向かった。三島から136号線を南下し、伊豆中央道を飛ばして西伊豆の付け根にあたる三津浜の海へ出た。湾には客船を利用したスカンジナビアホテルのイルミネーションがひときわ輝き、車窓から吹き込む風が紅潮した頬に気持ち良かった。 車はさらに曲がりくねった細い道を奥へ進み、いつしか駿河湾に突き出た大瀬崎に到着した。 大瀬崎の入り江へ向かって下って行くと車道が行き止まりになった。二人は車を降りるとダイバー向けの店や宿が軒を連ねる浜辺の小道に沿って歩いた。 道を行き交う人も途絶え、ダイバーショップのほとんどは一日の仕事を終えて眠りにつこうとしていた。最後まで明かりが点いていた店の蛍光灯が目の前で消えるとTシャツ姿の店員が店の奥へ消えていった。夜の静けさが深まる中で浜辺に山積にされた無数のダイバー用タンクと軒に干されたウェットスーツの列が昼間の賑わいを伝えていた。 店の軒先が途切れると代わりに樹木が道沿いにつながっていた。駿河湾の内海に面した入り江には小さな玉砂利を敷き詰めた浜辺が続き、渚に寄せる波は穏やかに同じフレーズを繰り返していた。そして海の彼方には沼津港の明りが水平線に一本の光の筋を引き、その光は消え入りそうなローソクのようにゆらゆらと揺れていた。 「風が気持ちいいわ。ここは星が良く見えるわね。あの点のようにつながった星は何かしら。」と由美子は北の空を見上げると無数に煌めく星の中でひときわ明るい星の列を見つけた。 「あの星は北斗七星だろう。ほら、理科で習ったあれだ。7つの星が柄杓の形に見えるだろう。今は柄杓を使わないからスプーンかな。」 「ほんと。北斗七星ってスプーンをひっくり返した形にみえるのね。知らなかったわ。」 鹿島は星を指さして言った。「昔。星はすべて北斗七星のスプーンの中に入ってたけれど、大きな流れ星がぶつかってスプーンをひっくり返してしまったんだ。それで空全体に星が散らばってしまったんだ。そして最後にスプーンから流れ落ちた星が北極星さ。」 北斗七星のスプーンの先から少し離れた低い空にポツンと北極星が輝いていた。 「ほんとね。だからひっくり返っているのね。知らなかったわ。鹿島さんって星のことも詳しいのね。」 「ごめん。今、思いついた作り話なんだ。」と鹿島は由美子にすまなそうに言った。 「話がもっともらしいわ。本当に信じちゃったわ。」 「でも、これだけは本当さ。」と鹿島は由美子の唇を重ねた。彼女は瞼を閉じると鹿島と離れていた時の空白の時間が煌めく星屑で埋め尽くされるようだった。 二人の影が重なり、再び影が離れると由美子がささやいた。「これも作り話なら嫌よ。」 「これはずっと昔から変わらぬ由美ちゃんとの本当の物語だよ。」と鹿島はブレザーの前を開き、由美子の身体を包むと抱擁した。 二人は入り江を岬へ向かって語り合いながら行くといつの間にか鳥居の下を抜けた。道を進むと急に樹影が濃くなり人家が見えなくなった。 「ここは寂しくて怖いわ。戻りましょうよ。」と由美子は鹿島の腕を引いた。その道は神社の神域らしく道の両側を大木が並び、闇が辺りを覆っていた。 二人が道を戻ろうとした時、鹿島がつぶやいた。「何かが動いているようだ。」 「えっ、どこに。」 二人は今来た道を目を凝らして見た。 「何だろう。暗くてわからない。」 「ほんとよ。道の向こうで何か動いているわ。」 その動く影はしだいに姿を見せた。はじめ1つに見えた影は2つに分かれて速いスピードで接近してきた。 「野犬よっ!」と由美子が先に叫んだ。2頭の大型犬が飛ぶように走ってくると目の前で急に吠え始めた。犬の大きな背中は黒くぬらりと光り、激しく動く犬歯の間から地の底から響くような呻きが吐き出された。由美子は狼狽して鹿島の腕にしがみついた。 犬はショートヘアーのジャーマンポインターだった。黒いポインターは長く強靱な足を踏み締めて跳躍するような構えをみせた。 「危ない! 逃げろ!」と鹿島は叫ぶと由美子の手を引いた。 二人は後ずさりすると反転して駆け出した。鹿島と由美子は闇の中を岬へ向かって走った。 樹木の切れ目から光りが一瞬強く光った。とっさに光が来た方向へ走った。が、その瞬間、二人は崩れるように転倒し、悲鳴が闇を切り裂いた。 そこは大小の石に覆われた海岸だった。由美子はヒールを岩の裂け目にとられるとヒールを打ち捨てて逃げた。その後を犬の影が追いすがり由美子の影との区別がつかなくなった。 小さな無人灯台の明かりが再び照らした時、鹿島は真っ暗な波打ち際に由美子がうずくまっているのを見つけた。鹿島は由美子の所へ行こうとした時、横からサッと黒い人影が割って入ると犬達を制止した。犬達は急に動きを止めると飼主と思われる中年の男の両側に急に大人しく座った。 岬の反対側にあたる外海に出たようだった。外海に広がる夜空は雲が広がり黒一色の闇だった。時折、灯台の明かりが男の顔を照らした。 「すみません。怪我ありませんか。」男があわてた様子で謝罪した。 由美子は犬には噛まれてはいなかったようだが、転倒して膝と腕に打ち傷を負い、追い詰められた恐怖に膝を崩して泣き出した。 「もう安心して下さい。うちの犬は人には噛みつきませんから。体は大丈夫でしょうか。」と男は言うと由美子を助け起こそうとした。 すると鹿島が駆け寄り飼い主を押しのけて怒鳴った。「いい加減にしろっ! 何で犬を放していたんだ!」 「つい、うっかり放してしまいました。夜遅いのでまさか人がいるとは思っていなかったのですが。」 灯台の明かりが由美子を照らすと濃紺のスカートには犬の前足の土跡が残り、靴のヒールは岩場の裂け目に突き刺さり折れていた。由美子は鹿島の差しのべた腕に顔を埋め、何かを言おうとしても涙で言葉にならない様子だった。 鹿島は由美子の涙に逆上すると、いきなり飼い主の顔面めがけて拳を食らわせた。不意をつかれて飼い主は呻き声をあげ、なぐられた顔を両手で覆った。隙のできた腹部に次の拳が繰り出されると男は犬のそばに倒れこんだ 「やめてっ!」と由美子は声をふり絞り鹿島の右腕にしがみついた。 一瞬、鹿島の身体の自由が奪われた隙に1頭が飼い主の危機に反応して鹿島に飛び掛かった。鹿島の左腕に食らい付くと、まるで鰐のように左右に顎を振りちぎり狼の本性そのままに牙をむいた。彼は必死に振り払おうとするが虎挟みのような強靭な顎がそれを許さなかった。 由美子はとっさに飼い主の男を抱き起こすと助けを求めた。男の顔は苦痛にゆがみ鼻から血が滴っていた。しかし、男の目が開いたとたん驚きの顔に変わり、男は犬に身体ごと投げ出して鹿島と犬を引き離した。 鹿島は腕から犬が離れると、すかさず男に向かって罵倒した。「ふざけやがって! その汚いねぇ犬ごと始末してやる!」 飼い主は興奮する犬の首を抱え必死に動きを封じようとしていた。そこへ鹿島の拳が振り降ろされた。咄嗟に由美子が男の前に飛び出し、「やめてっ!」と叫んだ瞬間、鹿島の拳が由美子の左肩をかすめて外れた。 男はとっさに犬の首を引き、犬を呼び寄せると闇の中へ逃げた。 「この野郎、待てぇっ!」鹿島が前へ飛び出そうとしたが由美子の細い手で辛うじて押しとどめられた。 犬の吠える声が闇の彼方へ吸い込まれていった。灯台の明かりが時々暗い海に砕ける白い波を映していた。2人は放心したまま、そこに立ちすくんだ。 「畜生めっ! 何で邪魔するんだ! 腕を噛まれた上にブレザーまでビリビリに引きちぎられてしまったんだぞ! 噛まない犬だなんて大ウソつきめ! 奴のへらず口を叩きのめしてやったのに。」鹿島は噛まれた腕を押さえて痛みを堪えた。 「鹿島さん、もう止めて。あの人を殴ったのがいけないのよ。」 「何でいけないんだ! おまえも怪我した上に靴まで壊され、ひどい目にあったじゃないか。」 なおも男の行方を求めて行こうとする鹿島を由美子は必死に押しとどめて言った。「犬に怒っても仕方ないわ。あの人も初めに謝っていたじゃない。」 「許せるものか! 奴が犬を放していたのが悪いんだ。この服も何も奴のせいだ。畜生!奴の家を探し出して引きずり出してやる!」 「やめて、お願い。喧嘩するのはやめて! 我慢すれば済むことでしょ。」 「うるさい! いちいち俺の言う事にケチをつけるな! この服もおまえの靴も奴に弁償させなければ気が済まないんだょ!」 「お願いだから、私のことは構わないから、もう止めて。」由美子は鹿島の行く手を遮った。 鹿島は由美子の手を振り切ろうとした時、彼女は石に足を取られてよろめき、二人の間が離れた。その間を灯台の明かりがサッと分けていった。 「俺に指図するな! 俺のやることにケチつける人間が大嫌いなんだよ。大体、今日おまえが会社へ連れてきた男は何だ。俺が頼みもしないことやって腹が立つんだよ。」 「早瀬さんは悪気があってした訳ではないわ。それに貴方はさっきの食事の時、早瀬さんには感謝していると言ってたじゃない。あれは嘘なの?」 「嘘を言っているのはどっちだ。おまえもあの早瀬という男とは本当はどういう関係なんだ。おまえの会社の取引先でもないREX社の人間が何で一緒に付いて来るんだ。何を隠しているんだ。」 「関係も何もないわ。信じてくれないの?」 「俺と1か月逢わないうちに何処で遊んでいたんだ。」 「遊んでいるなんて言い方ひどいわ。貴方だって藤宮さんと何か関係があるみたいだったわ。会社の人達がほのめかしていたわよ。」と由美子は言った瞬間、後悔した。その場の感情に流されて言ってはいけないことを口にしてしまったと直感したが、それしか鹿島の追及をかわす方法が思いつかなかった。 灯台の明かりが二人の間を割ったまま幾度も通り過ぎていった。 「藤宮とは関係なんかない。会社の連中が勝手に思い込んで言いふらしているだけだ。」 「もしそうなら信じるわ。だから私の事も信じてくれるわよね。早瀬さんとは何か関係があるわけじゃありません。」 「何かと早瀬、早瀬って、あいつが出てくるが、俺の事を信じるから自分の方も信じろとは何だ。こういうことは交換条件で取引するようなものなのか。」 「そんなつもりじゃないわ。ごめんなさい。疑ってごめんなさい。」由美子は鹿島に近づいて哀願しようとした。しかし岩場の足下がそれを許さなかった。 「とにかく帰る。」と鹿島は言うなり、灯台の光りを背に先に歩いて行った。 由美子は膝がガクガクと震えた。気は取り直していても身体の方は恐怖を未だに引きずっていた。ヒールの折れた靴を履くと歩くのがやっとだった。 頬にしっとりと感じるものがあった。いつの間にか霧雨が降り始めていた。 鹿島の後を追うように灯台の明かりの方へ向かったが見失ってしまった。次第に霧雨が厚いベールとなり、辺りはさらに闇が濃くなっていた。 暗い林の中で道を間違えてしまったようだった。ヒールの折れた靴でゴツゴツした道を歩くのは難しく、ついに靴を脱いで歩いた。柔らかな砂の感触に混ざって貝殻の破片がストッキングを通して当たり、苦痛に顔をゆがめた。 暗い地面を探る足の裏の神経は極度に研ぎ澄まされた。そして柔らかな皮膚を容赦なく石や貝殻が刺してゆく、由美子は木の幹にもたれかかりじっと痛みに耐えた。しかし先に行ってしまった鹿島にはしだいに堪え難いものを感じてきていた。 林を抜けると霧雨は少しずつ雨に変わり由美子を覆いつくした。ようやく彼女は浜辺を抜けて鹿島の車にたどり着いた。車のボディに手を突いてもたれかかり、よろけそうな脚をかばった。由美子が車の窓を叩くと窓ガラスが開いた。 「私が藤宮さんだったら、やはりこうするの?」と由美子は窓に向かって言い放った。彼女は髪の毛から水滴が滴り落ちるまま鹿島の返事を待った。一瞬の沈黙の中を雨だけが静かに時の経過を告げていた。 「何でそんな事を聞くんだ。早く車に乗れよ。」 「教えて。藤宮さんとの仲って何なの?」 鹿島は何も答えようとしなかった。 「答えて。本当のこと話して。私はいつも貴方のそばに居ることができないし、何もしてあげられないから。貴方が他の人を望むなら私はあきらめるわ。」 再び沈黙が続いた。そして何かをためらうように鹿島がつぶやいた。 「すまない。」 「鹿島さん。どうして謝るの。違うと言って!」 鹿島には嘘でも良いから最後まで藤宮のことは否定して欲しかった。しかしその淡い期待は崩れた。由美子には今の言葉より熱く抱きしめられた時の言葉をどうしても信じたかった。 「お願い。違うと言って!」 再び長い沈黙があった。由美子は目を閉じて鹿島の言葉を待った。彼女の髪を伝わる水滴が開いた車の窓の中へ注がれた。 「由美子。俺にはおまえの力が必要だったんだ。それはわかっているのに気の迷いがあったんだ。一時の迷いなんだ。」 「私の力って、私を仕事の道具にしか見ていなかったの? 単なるビジネスパートナーだったの?」 「違うんだ。由美子とすべてを共にするつもりだったんだ。だけど・・・。」 「だけど、どうしたの。何があったの?」 「由美子のことも愛していた。けれど毎日、俺はマシン相手に孤独だったんだ。だから。」 由美子は車のボディに寄りかかると暗い空を見上げた。闇から降り落ちる雨粒が由美子の頬を濡らした。その流れる水滴を感じながら鹿島の言葉をきいた。 鹿島の脳裏にその日の出来事が思い浮かんだ。 それは彼が一人でコンピュータルームに閉じこもって残業している時だった。昼と夜の区別のない部屋の中で延々と続く無機質な時間が流れていた。鹿島はコンピュータの画面に映る数字とアルファベットに我慢できなくなって発作的にモニターを切った。その時、明りの消えたガラスの画面に写ったのが藤宮香織だった。 香織の手がやさしく鹿島の肩に触れた時、彼は頭の中が一瞬白くなり衝動的に香織の身体を引き寄せた。それが香織とのはじまりだった。 「由美子が悪い訳でも、藤宮が悪い訳でもないんだ。俺があの時に・・・。」鹿島の最後の言葉を聞く前に由美子の想いが涙となって水滴に混ざり溢れてきた。 由美子の手が車のボディからゆっくりと離れると彼女は今来た闇の中の道を戻って行った。 暗闇を走った。振り返ると涙の中に車の青白いヘッドライトがにじんだ。光の中から鹿島の呼ぶ声が聞こえてきた。が、戻ることはもう出来なかった。 行く手に広がる闇はもう怖くはなかった。しかし鹿島の言葉を聞くのが怖かった。涙が脚の痛みを忘れさせた。ヒールを手に提げながら由美子は岬の先に向かって行った。そして再び黒い林が目の前に広がった。 岬の林へ迷い込むと急に雨が強くなった。大粒の雨が背中を叩き付けるように降ってきた。 小道を曲がると目の前に鳥居と登り階段があった。神社で雨宿りをしようと思い、急な階段に足を掛けた。ぬるぬるとした石段に足を取られながら登った。木々に覆われて暗く何も見えない階段を手探りで登るとその先に樹木がわずかに開けた場所に出た。その先の闇の中に神殿がぼんやりと見えた。雨を避けて神殿の軒下に身を寄せた。 降り落ちる雨が激しさを増した。神殿の周りは樋を溢れた雨が滝のように地面を打ち、火花のように弾ける音を立てていた。 由美子は水幕から逃れた安堵感を感じたが、すぐに心細さに切り替わってしまった。闇が轟音を立てて目の前に迫ってくる恐怖と不安に襲われた。 豪雨の咆哮に混ざって鹿島が呼ぶような声がした。由美子は身を硬くして階段を包む闇に目を凝らした。雨に打たれた樹木の枝が揺れて鹿島が登ってくるような気がした。今、現れたら全てを許してしまいたかった。由美子はそう思うと再び涙が溢れてきた。 暫くして、急に呪縛から解けたように廂から降り落ちる雨が落ち着いてきた。しかし枝は同じ周期で揺れるだけだった。由美子は急にフッと思った。このままここにいたら鹿島とはぐれてしまう。鹿島が探しているかもしれないと。 立ち上がると階段を下り、彼の車へ向かって戻って行った。林を抜けると雨も止み、浜辺を覆っていた煙霧が切れて、行く手を開けた。 だが駐車場にたどり着くと車はなかった。舗装の上に車の跡が少し乾いて残っていた。残されたものはそれだけだった。鹿島にはやはり待っていて欲しかった。しかしそれは一人よがりの思いだった。そして今、本当に独りぼっちになったことを知らされた。 道端に置かれたダイバー用のタンクが微かに月の光を反射していた。由美子は月が雲間から顔を出したのに気がついた。 雨上がりの黒く濡れた小道をヒールを片手にぶら下げてあてもなく歩いた。しかし冷えきった体には辛くなってきた。夜風を避けて扉の閉まったダイビングショップの軒下へ身を寄せた。 軒下に入ると店の裏手の薄暗い庭で光る目が動いているのに気がついた。直感的にさっきの犬達だと感じた。犬逹は由美子を見つけると二、三度吠えたが、すぐに金網越しに彼女に尻尾を振りはじめた。 しばし犬達を眺めて思った。この犬逹がいなかったら今も鹿島の事を何も知らずにいたのだろう。そして何も疑わずに横浜へ帰り、離れてゆく鹿島をひたすら待ち続けただろう。ただひたすら実ることのない愛を、来ることのない未来を夢見ていただろう。 先ほどの騒ぎなど忘れたかのように犬達は愛嬌を振りまいて由美子を歓迎してくれた。もう犬達が怖くはなかった。あの飼い主の言葉が信じられるような気がした。由美子は檻の前にうずくまり金網に手を持たれかけると一匹の犬が舌で彼女の指を舐め始めた。暖かい温もりが冷えきった指に優しく伝わってきた。何の疑いを持たずにひたすら尽くす犬逹に由美子は再び目頭に熱く流れるものを感じた。 突然、強いライトがいきなり浴びせられ、呼び咎められた。 誰何したのは先程の飼い主の男だった。男は由美子を認めると奥のバルコニーへ案内した。 「裏庭でうちの犬逹が騒ぐので様子を見に行ったら、貴女が暗闇に一人でいたのでびっくりしました。まぁ、とにかくお上がりください。私は野崎洋平です。あれはうちの家内の和子です。」と男がバルコニーから部屋の方へ声を掛けると野崎洋平と同い年ぐらいの奥さんが顔を出した。 由美子は鹿島に代わって乱暴を働いたことを詫びた。すると野崎夫婦は鹿島を責めるどころか、犬達の不手際を謝った。そして和子は由美子が裸足のまま壊れた靴を手に下げている姿に着替えをするよう勧めた。 由美子は野崎夫婦の好意に甘えることにした。風呂を借りると冷え切った身体に暖かな湯がしみいった。 着替えて部屋に戻ると野崎夫妻は大きなダイニングテーブルにお茶の準備をして由美子を待っていた。壁には純白のウェットスーツが掛けられ、フローリングの床にはレギュレータやエアタンクなどのダイビング用具が置かれていた。棚には水中カメラのニコノスや水中ストロボ機材が所狭しと並んでいた。そして窓から駿河湾を往く船の明りが見えた。 「このようなご好意を受けられる資格などないのに、ご主人には何とお詫びしたらいいのか。ご主人のお怪我はいかがなのでしょうか。」と由美子は洋平の具合を尋ねた。 「あれはだいぶ利きましたな。あっははっ! なんのこれ位のこと。海に潜ればもっと怖い目にあっておりますからね。うっははっは。 でもね。もし貴方がかばってくれなかったらパンチをまともに受けてもっとひどい怪我をしていたかもね。こちらこそ貴方に助けてもらった礼を言わなくてはなりません。」と洋平が日焼けした手で顔をさすりながら言った。由美子はここまで寛大になれる洋平の心の広さに感服した。 洋平は遠慮がちに由美子が一人でいたことを尋ねると由美子はきっぱりと言った。「彼とは先ほど別れました。もう逢うことはないと思います。」 「えっ。うちの犬が原因なんでしょうか。」 「いいえ。いずれはこうなる事でした。犬逹が彼の本当の心を教えてくれるキッカケを作ってくれました。もう彼の事はもう忘れます。あの犬達に罪はありません。」 和子が紅茶を勧めた。ティーポットからアールグレイの香りが広がった。 洋平は言った。「あれは猟犬でね。体が大きくて怖ったでしょ。でも本当は人なつっこい犬なんですよ」 「猟犬なのですか。ご主人はハンティングをされるのですか。」 「私は殺生なんか嫌いさ。あの犬は山で捨てられている所を連れて帰ったのです。猟犬として使えなくなったのでしょうね。前足に猟銃の弾が撃ち込まれていたのです。」 「えっ誰が銃で?」 「きっと前の飼い主が戻って来ないように足を狙ったのだろうと思います。可哀想に。信じていた飼い主に銃で撃たれるのだから惨めなものだ。ハンターなんて奴らはゲームで動物の命を弄ぶ連中だからね。」と洋平が吐き捨てるように語った。 和子が静かに話し出した。「あれは3年前だったわね。車で山菜採りに行った時に林道の脇にうずくまっていたわ。前足が血で黒くなって。 初めは車に轢かれて死んでいるのかと思ったけど近寄ったら少し顔を上げたの。あの時の顔は忘れられないわ。そう、犬がじっと泣いていたのよ。瞳が涙に濡れていたの。すぐに連れて帰ることにしたの。」 洋平が記憶を手繰るように続けた。「そうだったな。儂らが抱きかかえても暴れもしなかった。時々私らの顔を見ていたが静かなものだった。 すぐに獣医に見せたらひどい傷だった。足から銃の散弾が5発も出てきた時はビックリした。猟犬だと知ったのはその時だった。猟犬なんて飼ったことないから困ったが再びハンターに預けて同じ様な目に合ったら可哀いそうでね。うちに連れてきたのさ。その時に付けた名前がミオさ。」 「ミオちゃんはもう狩りに出されなくて幸せね。」と由美子はつぶやいた。 愛されていたはずの人に捨てられた犬逹の境遇に由美子は自分を重ねて、その哀しみを感じた。 「それでもう一頭の方は。」と由美子がきくと洋平が答えた。 「ミオはその後に恩返ししてくれた。可愛い子犬を生んでくれてね。その一頭が今のレオです。」 「ミオは猟犬として躾られていたので飼い主の命令を良くきくのですが、レオは甘やかしていたせいか、サッパリでね。さっきも夜の散歩に檻から出した途端に飛び出して行ったのはレオの方さ。犬って奴は群れて走るのが好きでしょ。ミオも一緒になって後を追っ駆けてしまったのです。」 「そこへ私達が通りかかったのね。襲われると思って、あわてて逃げて転倒したけれど、あの時はレオもミオも私には噛み付かなかったわ。」 「まぁ、人を噛まないようには躾たつもりだったが、どうしたことか、ミオは貴女のお連れの方に噛み付いてしまった。」 「ミオはご主人を助けようと思ったからじゃないかしら。」 人間に裏切られて血を流し、再び人間に助けられ、その人間を守ろうとした犬逹。裏切られても、なおも信じて人間を守ろうとする犬達をどうして責められようかと由美子は思った。 夜も更け、野崎夫妻の勧めで由美子は家に泊めさせてもらうことになった。2階に寝室を用意してくれたが、なかなか寝つけない夜だった。 明日、東海センサス社へ出向く事に思い悩んだ。行けば鹿島に会わずには済まない。仕事とはいえ彼と会って平静で居られる訳がない。仕事と割り切ってドライになれる自信がなかった。それに藤宮香織とも会わないという保証もない。 しかし講習会までキャンセルしたら各地から集まった受講者達に迷惑がかかる上に企画した島本真知子の立場がなくなる。それにベイシティシステム社の信用も失うかもしれない。だが、鹿島と会うのはもっと怖かった。 目を閉じても迷いが次々と脳裏に浮かび寝つけないまま夜が過ぎた。そして明け方近く、いつしか意識が眠りの底についていた。 朝の弱い光がカーテンを通して出迎えた。枕元に置いた腕時計を見ると五時半だった。窓の外を見ると入り江が見え、朝靄を通して陽光が白く光っていた。 朝になってもまだ気持ちの整理はついていなかった。何も知らずに島本真知子や受講者達が今日のために、この朝日の中を動き出すと思うとあせる気持ちが起こった。やはりドライにビジネスと割り切って会社へ出るべきだろうか。まだ早朝のバスなら三島まで間に合うかもしれない。 身支度を済まして居間へ顔を出すと野崎和子がミオとレオを太綱で引きながら散歩へ出て行くのが見えた。追いかけて行くとミオとレオが尻尾を振って迎えてくれた。 「昨日は泊めていただいてありがとうございました。早朝のバスで三島へ帰ろうかと思います。」と由美子は深く頭を下げた。 「ここのバスはこんな早朝から走っていないわよ。ここは都会ではないから。バスは一日に朝と夕方の2便しかないのよ。たしか朝は八時十六分発の沼津行きがあるだけね。沼津には十時前には着くかしらね。」 「その時間では三島の会社には間に合わないわ。」 「でも、たとえ間に合ったとしても、そんな突っ掛けサンダル履きじゃ会社にも出られないでしょ。靴屋さんが店を開く時間までゆっくりしていたらどうかしら。それにしても今朝はいい気持ちね。こんな天気のいい日にここでゆっくりくつろいで貰えないなんて残念ね。」 由美子はもうすでに手遅れになっていることに初めて気が付いた。入り江を包んでいた朝靄が切れて朝日に輝く富士山が見えてきた。 和子が犬達に太綱を引っ張られながら言った。「そんなに大事なお仕事なのかしら。命でも係わるような一大事なら仕方ないけれど。ここに住んでいる人は1分1秒を争って生活していないのよ。だからここに来る人もみんな都会の忙しさから逃れてくるのよ。ねえ郷に入ったら郷に従えでしょう。」 由美子がなおも悩んでいる様子に和子は諭すように続けて言った。「どんなお仕事か知らないけれど、ここは仕事を忘れる場所なの。この海が疲れた心を癒やしてくれるのよ。ねぇ。この綱を持ってみる? この子達って力が強いわよ。」 由美子は和子から渡された綱を受け取った。和子の誘いが由美子の気持ちにふんぎりをつけさせてくれるキッカケとなった。もはや会社には間に合わない。島本真知子には恨まれるかもしれない。いや、それよりも自分の上司の信頼を一気に失い営業から外されるかもしれない。 営業から外されたら今の会社には居られないような気がした。しかし仕事のために自分の気持ちを偽ることはもっと耐え難かった。 由美子の迷いを断ち切るように犬達はぐいぐいと岬の先端へ向かって彼女を引っ張って行った。犬に任せて進むと杉の木肌と松の形をミックスしたようなビャクシンの大木に囲まれた小径に入って行った。鬱蒼とした林を抜けると丸い神池のほとりに出た。 その池の周りをさらに過ぎると岬の突端に昨夜見た小さな灯台が現れた。灯台の先は海が左右に開けていた。 昨夜、漆黒の闇に包まれていた太平洋側の外海は今、朝日に輝き丸石を敷き詰めた渚に静かに波が打ち寄せていた。二人が浜に腰掛けると時おり海風が吹いた。 由美子は野崎和子に自分の迷いを打ち明けた。仕事より鹿島と決別することが本当によい選択かどうか、和子に聞いてもらわずにはいられなかった。 話を聞き終わると和子が言った。「私、娘時代に戻ったみたいだわ。よく友達と恋の悩みを相談したもの。」 「こんな愚痴みたいなこと言ってごめんなさい。」と由美子は恐る恐る和子の顔を見た。 すると和子は若い由美子から相談を受けたことを嬉しそうに顔に出した。「由美子さんはドライになれる人ではないと思うわ。ドライになれる人ならそのような悩みを私に話してはくれなかったと思うのよ。無理してドライな真似をして彼にまた会えば辛い思いをするでしょうね。」 由美子は和子の言葉に黙ってうなづいた。 「たとえこれがキッカケで営業の仕事から外されても由美子さんは若いからチャンスはあると思うわ。それが我慢できないなら会社を辞めても仕方ないけれど、人生や仕事は色々と世の中にあるのよ。」 「はい。」由美子の返事には素直な気持ちが込められていた。和子が親身に聞いてくれたことが嬉しかった。 和子も自らの過去を自然に話し出した。 二十年前、野崎洋平は大瀬崎にダイビングショップを開く前は都内の印刷会社で働いていた。その当時、洋平は婚約していた和子に一緒にダイビングショップを開く夢を熱心に語った。しかしその夢は二人同時に東京での仕事を失うことを意味し、和子にとって将来の不安が隠せなかった。 その当時の気持ちを語った。「バスもろくに来ないこんな田舎にお客さんが来てくれるか不安でね。とても一緒に独立する自信なんかなくて、むしろ別れようかと思っていたわ。」 「ご主人はそこまでしてもダイビングの仕事がやりたかったのね。」 「そう、主人は結婚もしたいし、ダイビングの仕事もしたい。それでいて何とかヤリクリして一緒にやろうって言うのよ。虫がいいというか、楽天的というか。」 「きっと頼りにされていたのね。」 「そうね。労働力として頼りにされていたのかもね。」 海岸でじゃれ合う犬達を二人でぼんやりと眺めながら和子は話を続けた。「主人からその話を打ち明けられた時、初めは私が苦労を全部背負うような気がしていたけれど、そのうちに主人がもっと別の悩みを抱えていたのがわかったの。」 洋平は長く営業の仕事をしていたため取引先の馴染みが多く、洋平の信用で任せてくれるお客さんが多かった。しかし洋平の後輩達は経験の少ない若い社員ばかりで会社に迷惑かけることは目に見えていた。 「それでは円満退職できないじゃないのかしら。」と由美子が疑問を投げかけると和子は洋平が会社のためにしたことを話した。洋平は会社から帰宅すると毎晩、八十社近くもある取引先のデータを細かく書いたリストを作った。それは取引先の担当者の性格まで書かれた営業のノウハウと言うべき内容だった。その甲斐あって会社も洋平の熱意を理解して気持ち良く会社を送り出してくれた。 「ここでお店を出してしばらくしたらね。主人の昔の上司の方が会社の若い人達を連れてここへ来てくれたことがあったわ。主人はとても嬉しかったらしく、その日は他のお客さんを全部キャンセルしてまで歓迎したのよ。その時の主人を見ていたらね。一緒にやってきてよかったなと心から思ったわ。」と和子は昔を懐かしむように語った。 由美子は結婚と独立の夢を共にかなえた野崎夫妻が羨ましかった。それは互いに信じていたから出来たことなのだろう。 和子は思い立ったように話を切り上げた。「さあ、そろそろ戻りましょうか。お腹空いたでしょう。朝御飯にしましょうね。由美子さん。新しい彼氏が出来たらここへまた、いらっしゃい。うちの主人はダイビングのインストラクターやっているのよ。ぜひ一緒にやりましょうよ。」 由美子は和子の後ろを歩きながらしっかりとした口調で「はい。」と答えた。 美並由美子は野崎夫婦に見送られて大瀬崎始発のバスに乗ると沼津へ向かった。沼津に到着すると真っ先に靴を買い求め、そのまま近くの喫茶店へ入った。 腕時計を見ると十時二十一分だった。まもなく東海センサス社で講習が始まる時間だった。無意識に椅子から腰が浮き上がった時、ウェイトレスが前に立ちはだかった。 「ご注文をどうぞ。」「えぇ。・・・コーヒーを。」 鹿島の会社に行かないと決めて喫茶店に入ったものの落ち着かなかった。コーヒーがくるまでは待とうと心に言い聞かせた。それでも落ち着かないため、テーブルの上に便箋を広げると野崎夫妻への礼状を書き始めた。肉筆で手紙を書くのは何年ぶりだろうか。いつもワープロに頼っていた手が一心に字を思い起こして動いた。そして由美子にとってそれが時間を忘れさせる唯一の方法だった。 隣のテーブルのお客が2回入れ替わった頃、手紙を書き終わった。封筒に入れて再び腕時計を見ると講習会の時間も過ぎ去っていた。 由美子は冷え切ったコーヒーに口をつけた。喫茶店の窓ガラスに映った自分の顔を見た時、首のネックレスがいつの間にか無いことに気がついた。どこで失ったか、なかなか思い起こせなかった。昨夜の海岸で落としたのだろうか。 由美子は喫茶店を出るとホテルの荷物を引き取るために三島に戻った。 水路沿いの白滝観音堂の前で立ち止まると、昨日早瀬龍一と歩いた光景を思い出した。龍一の姿は次第に鹿島哲也の姿に重なった。この水路沿いの道は鹿島と歩いた思い出の道でもあった。仕事の帰りに共に歩いた頃が懐かしかった。 雪の降る日に二人で子供のようにはしゃぎながら歩いた道。 夏の日には二人で一つの団扇を持ち川風を求めて歩いた道。 四季折々の記憶が次々と思い起こされた。しかし、そういう日々はもう来ることがないと思うと胸が熱くこみあげてきた。 振り返るとフォレストビューホテルの白い建物が見えた。昨日、鹿島に会いたい一心でホテルから遠州丸をめざして、この道を歩いていた自分を思い出した。まだ昨日のことなのにまるで1年前の出来事のように思えた。 その時、ハッとした。遠州丸で鹿島にネックレスを見せた時、首から外したはずだ。由美子はすぐに足を遠州丸へ向けた。 「由美子。由美子でしょ。」由美子は店に入るなり名前を呼ばれた。そこには桜川咲。そして早瀬龍一も待っていた。その彼の手には店に届けられたネックレスがあった。ゴールドのジュエリービーンズが再び由美子と龍一を結びつけた。 |