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第十章 胸の時刻表

 日暮れ近くの三島駅に桜川咲は到着した。咲は駅前に来ているはずのLeeデビュタントを探した。そして目印の時刻表を目立つように胸に抱えて持った。
 ロータリーの中から青い車がパッシングするのが見えた。咲は車に駆け寄るとガラスを叩いて言った。「あのぅ。鹿島さんですよね。はじめまして。」
「あぁ。貴女が電話を掛けてこられた人ですか。どうぞ。乗って下さい。」

 鹿島哲也と桜川咲は車で少し走ると柿田川の湧水公園に到着した。広い芝生を抜けて細い石段を下ると柿田川の清流を望む展望台へ出た。展望台下の川底から小砂利を巻き上げて湧き水がまるで沸騰しているように沸き出していた。その透明な水は若草色の水草をくゆらせながら深い木々の間を流れていた。
「話しって何かな。」と鹿島が尋ねた。
「由美子と一緒に独立して会社作るつもりだったそうですね。彼女は無理して高いマンションまで借りて準備していたのに裏切るなんてひどいじゃないですか。」
 二人は展望台の手摺りに肘をつき、湧き水を見ながら話した。しかしお互いに目を合わせることもなく互いの言葉だけを聞いた。
「それは誤解している。由美ちゃんと一緒に会社を作りたいと今でも思っているんだ。けれど由美ちゃんが離れて行ってしまったんだよ。」
「それは鹿島さんに藤宮香織という女の人がいたからでしょ。由美子から聞いたわ。違うのかしら。」
 鹿島はスーツのポケットからタバコを取り出して年代物のオイルライターで火をつけた。タバコの先から僅かな紫煙が立ち上ぼった。
「そう。居たけれどね。しかし君だって今までに好きになった人の一人や二人いただろう。それを許さないと言われたら困るじゃないか。そうだろ。」
 咲は鹿島へ顔を向けた。「でも昔の恋人なら仕方ないけれど、鹿島さんは天秤にかけていたのでしょ。」
「いや、天秤かけていたのは私だけじゃないよ。由美ちゃんも早瀬という男といい仲だったじゃないか。」
「だって早瀬君は。」と咲は否定しかけたが、由美子のために奔走した早瀬龍一が互いに心を寄せているのは否定できないと思った。

「君は知らないかもしれないが、私が三島へ転職した時に由美ちゃんにも一緒に来て欲しいと誘ったが来なかった。離れて暮らせば次第に心も遠くなってしまうものだよ。たとえテレビ電話でお互いの顔を映していても所詮は画面の中の平らな映像にすぎない。触れることもできない虚像さ。そんな小道具で心をいつまでも通わせることができやしない。そう思わないか。」
 鹿島が言うとおり、そんな昔から由美子を三島に誘っていたとは知らなかった。三島へ来ない由美子のために鹿島が遠距離恋愛せざるを得なくなったことに同情する気持ちを感じた。
「そうね。映像だけの愛なんて寂しすぎるわね。それなら由美子が三島へついて行かなったのはどうしてだったのですか。」
 鹿島のタバコの先に点る小さな赤い火が夕闇の中で明るく光り、日没を過ぎたことを感じた。彼は由美子が三島で一緒に暮らそうとしなかった経緯を語った。
 由美子は今の仕事に情熱を燃やしていた。鹿島が三島へ移ってからの由美子は更に仕事に打ち込み、会社のトップクラスの営業成績をあげた。鹿島自身も自分が彼女の側にいない方が良いかと思うほどだったと語った。
「由美子は鹿島さんについていかなかった事をバネに頑張ったという事かしらね。」
「そうだろうな。由美ちゃんは男社会の中で良く頑張ったと思うよ。・・・転職してから数年経って私が会社を興そうと考えた時にもう一度由美ちゃんを誘ってみようと思った。だが、彼女が付いて来てくれるかどうかわからなかった。でも私は由美ちゃんとなら仕事も家庭もうまくいくと確信していた。それで思い切って彼女を誘ってみたのさ。」
「仕事に燃えていた由美子はすぐに話に乗ったのかしら。」
 それは意外にも由美子は今度はすぐにOKしたことを鹿島は語った。鹿島と一緒に暮らせて仕事もできるならと由美子も乗り気になっていた。彼女は早速、独立に備えてマンションを借りて準備を始めた。
 しかし独立までの時間が長すぎたことが互いの愛に次第に隙を作ってしまったことを認めた。
「これが由美ちゃんが今のマンションを借りるまでの経緯です。でも由美ちゃんを愛していたのは本当だ。しかし魔が刺したんだ。全ては私の責任だ。」
 鹿島は最後の一服を吸った。深く吸ったあと、言葉を付け加えた。「それから例のマンションの事だけれど。あそこは事務所開くには申し分なかったが由美ちゃんが一人で暮らすには厳しいだろう。近いうちに金を送って解約してもらうつもりだ。ケジメだけはキチッとつけておきたいからね。」
「ありがとう。由美子が聞いたら喜ぶわ。」

 先ほどまで木々の回りで緑の葉が揺れていたが、今は夕空を背景にシルエットと化していた。夕闇の中で小さく光っていた明りが消え鹿島がタバコの火を消したことがわかった。
 彼がタバコを投げ捨てようとした時、咲は手の平を差し出して吸い殻を受け取った。そして吸い殻を大事そうに両手で包んだ。「この吸い殻のように一方的に由美子は捨てられたものだと今まで思っていたわ。でも少し違ったようね。鹿島さんも寂しい思いしていたのね。鹿島さんの事を本当にひどい人だと思っていたけど、少し誤解していたようだったわね。ごめんなさいね。」
 男と女は離れて暮らせばいつかは気持ちも離れてしまうのだろう。その二人の隙間に入り込んだ藤宮香織と早瀬龍一。それは咲が未だ経験したことのない次元の出来事だった。
 鹿島が言うことはその当事者になればその寂しさは無理からぬことなのだろう。一方的に彼を責めることだけはできないと思った。二人が互いの愛を仕事のために犠牲にしたことだけは事実であり、由美子もまた犠牲者の一人なのであろう。
 そして二人の間に現れた藤宮香織と早瀬龍一が悪いわけでもない。全ては離れた距離と長い年月が二人の絆を錆させてしまったのだろう。
 咲は由美子との過去を悔いる鹿島の言葉を信じようと思った。

 車に戻ると咲は真っ先に時刻表を開いて帰りの新幹線の時間を調べた。
「そろそろ帰りの新幹線に乗らないといけないから。」
「せっかく、ここまで来たのに夕食ぐらい食べて行かないか。帰りは車で送っていくよ。夜なら横浜まで2時間もあれば行けるだろう。」
 咲も夕食ぐらいならばと思い勧めに応じることにした。



 鹿島は東名高速道路へ車を向けようとした時、ヘッドアップ・ディスプレイ型カーナビゲーションがフロントガラスに半透明のアラームマークを表示した。モニター画面に目を移すと東名高速で事故が起きているのを知った。
 迂回のため国道1号線を箱根越えで横浜へ向かうことにした。鹿島の電気モーターとガソリンエンジンを共に積んだハイブリッド車は三島市街地を抜けて箱根の山麓にさしかかった。モーターとエンジンが共に高速回転を始めて馬力を上げ、先を走るメタノール燃料電池車をさっと追い越した
 箱根の山道はくねくねと右、左に曲り、ライトの先にはガードレールと白線だけが浮かんでいた。その先には真っ暗な闇が延々と続いていた。時々擦れ違う車のライトがこの先も道が続いている事を知らせていた。そして時折、靄の帯が道路を漂っていった。
 助手席を見ると咲がドアーのガラスに頭をもたれて目を閉じている。先ほどの夕餉の酒が利いてしまったのだろう。そして彼女の膝の上には時刻表が置かれていた。
 鹿島はそれまで聞いていた音楽を止めると車の中はかすかなモーター音だけになった。そして窓の外を箱根峠の標識が流れていった。

 フロントガラスに地図上の道路を外れていることを示すアラームが表示された。そしてモニター画面には車の位置が国道から次第に離れつつあることを示していた。
 鹿島はカーナビゲーションのスイッチを切ると車を静かに止めた。ヘッドライトを消すと辺りは闇の中だった。天空の月は靄にかすみ、ホゥホゥと鳥の寂しいこだまが聞こえてきた。彼は窓ガラスを閉めると咲のかすかな寝息だけになった。
 時刻表の上に置かれていた桜貝のネイルアートを施した爪先が滑り落ちた。先ほど酒を飲んでいた時に桜川の名前にちなんで描いてもらった桜貝だと言っていた。それは美しかった。
 咲のチューブシャツのクリスタルの止め具が青い月の光をかすかに反射し、ベビーフェイスの頬に小さく美しい虹を映していた。鹿島は咲の美しい寝顔をずっと見つめた。時折、月にかかる薄雲が頬にかかる虹を遮ると彼は早く虹が戻ってきてほしいと願った。
 咲は葵純代の雰囲気にそっくりの女だった。同じ流行のチューブシャツといい、身体つきといい良く似ていた。たぶん後姿ならば見間違えるだろう。葵の美を手に入れたい衝動が咲に向けられた。それは今までに得たことのない美の獲物が目の前に横たわっていた。
 触れてみたい衝動にかられた。鹿島の指先が頬に蘇った虹に触れようと伸びた。
 だが、鹿島はふと思った。咲は美並由美子へつながる最後の糸でもある。この咲を自分のものにしたら由美子との糸は切れて二度と戻らないだろう。
 いや、もうすでに戻れない所に来てしまっているかもしれない。藤宮香織のことが明るみになった以上は難しいだろう。
 しかし理解を示した咲を通して再び元の鞘に戻せる可能性も失われてはいないかもしれない。そう思うと鹿島の指先は宙で止まった。

 鹿島は運転席に座り直すと自分自身の気持ちを整理し直した。もし由美子が鹿島を許したとしても鹿島自身は由美子と早瀬龍一との関係を疑う気持ちが晴れるだろうか。きっと由美子は龍一との関係を最後まで否定し続けるだろう。
 由美子と早瀬龍一との関係は鹿島に対する裏切りなのだろうか。あるいは鹿島自身の思い過ごしなのだろうか。もし思い違いならば鹿島にとってビジネスの最有力の協力者を失う大誤算となる。答えの出ない自問が繰り返され自暴自棄に陥った。

 再び咲の寝顔を見入った。月光に輝く天女の美しさだけは確かな答えだった。そして咲だけは鹿島の悩める気持ちを唯一理解してくれた女だ。由美子さえ知らない鹿島の心の苦しみを知っている女だ。そして彼女の優しさ、無垢の美しさが今の荒れた鹿島の心を癒やしてくれると思えた。そう思うと説明しがたいものが胸にこみ上げてきた。
 たとえ由美子との糸が切れても今ここにいる咲との糸をつなぎ止めて置きたい衝動に駆られた。その衝動は咲の唇に向けられた。
 鹿島は咲の唇にそっと指を触れた。咲は溜め息ともつかない呻きをつくと時刻表が膝から滑り落ちた。彼女はまだ気付いていないようだった。鹿島は時刻表をそっと取り上げると後部座席へ置いた。
 咲の胸の豊かな膨らみがチューブシャツの下に深い陰影を落としていた。あの葵純代を思い起こすようだ。そして潤いを含んだ唇が何の妨げもなく、そこに息づいていた。
 唇の上に鹿島の影がそっと重なると甘美な香りがタブーの扉を解き放った。鹿島の唇が彼女の首筋へ這っていった。柔らかな肌に脈が規則正しく打ち、まだ変化を感じていないことを教えていた。
 鹿島は胸の双丘にそっと手を一瞬触れてみた。チューブシャツの触感を通して柔らかな暖かみを感じた。すると咲は無意識に胸に手を置いた。
 彼はパールピンクの桜貝の手に触れようとしたが、ためらった。しかしその手の下の白い肌に鹿島の欲が抑えを抗じ切れなくなっていた。
 彼女の手首をそっと脇へどけた時、桜貝が月明りにかすかに光った。シャツのファスナーの留め金になっているクリスタルを少し下ろすとそこにキスをした。素肌から微かに香り立つコロンの甘く淫靡な匂いが鹿島の脳裏の奥深くに閉じこめられた本能の鍵を解き放った。次々と破られるタブーが更に肉欲のタブーを求めた。
 また少し下ろすとキスをした。胸の深い谷が鹿島の両頬にしっとりと触れた。すぐそこに白いブラで隠された秘密を解き放ちたくなった。

 ファスナーを一気に引き下げ、彼女の両襟を大きく開いた時、ついに咲と鹿島の目が合った。鹿島はとっさに彼女の腕を押さえるとむき出しになった胸の双丘にむしゃぶりついた。
 咲は弛緩した身体を動かそうとするが男の力に押えられ叫ぶのがやっとだった。
 咲は助手席をのけぞるとブラジャーがずり上げられ、宙に突き出た乳房が男の獣欲を煽り立てた。鹿島は彼女のスカートをたくし上げ下腹部を襲った。引き裂けるストッキングの音が響き、咲の悲鳴が響いた。
 咲は全身の力を込めて鹿島のネクタイを一気に引き絞った。男は首を押さえて呻いた。その一瞬の隙をついてドアーに手を掛けた。が、鹿島の平手打ちがすばやく女の顔に飛んだ。切れた唇から飛んだ鮮血が女の白いシャツに飛び散った。
 唇を濡らす鮮血が真紅のルージュのように艶めかしく光り、男の情欲をさらに煽り立てた。助手席と一緒に咲を押し倒し、今度は鹿島の手が彼女の首を締めた。咲はむせるような苦しさに手足をもがき、胸を上下に動転し、叫びは音にならなかった。
 意識が切れる寸前に鹿島の手が離れた。咲は胸を上下に弾ませたまま動かなくなった。すると男の前に屈した女の肢体をゆっくりと弄び始めた。まるで野獣が獲物にとどめを刺す前に玩具にして愉悦の時を楽しむように。もはや咲は下腹に男を埋めても抵抗する力を失っていた。

 鹿島は満足すると一旦、肢体から離れて自分の首に食い込んだネクタイをほどき始めた。咲は朦朧とした目を薄く開けると鹿島が堅く結ばれたネクタイに難渋していた。
 咲は両足に満身の力をこめて鹿島を跳ね飛ばすと、不意を食らって鹿島は頭を窓枠に叩き付けられた。頭を抱え呻き声を上げた。その隙をついて咲は車の外へ脱出した。


 咲はどれだけ走ったかわからなかった。いや走っていたのか、歩いていたのかもわからなかった。アルコールが下半身の五感を麻痺させていた。林の向こうを車のヘッドライトが照らしていた。きっと探しているのだろうと思った。
 造成中の別荘地のようだった。明りのついた人家はなく、舗装した小道が無秩序に延びているようだった。彼女にわかる事はただひたすら山道を下っている感覚だけだった。
 暗い林の中の分かれ道を幾つも過ぎ、ただ遠くへという気持ちがおもむくままに山を下った。
 ポツンと街灯のある道に出たところに建築中のログハウスを見つけた。丸太が幾本も組まれ真新しい木肌が月明りに白く浮かび上がって見えた。床には深い年輪の刻まれた板材が張られていたが、屋根の半分はまだ夜空が見えていた。
 丸太の壁に寄り掛かると木の香りが辺りに漂っているのを感じた。それは木の精が夜の邪気から守ってくれるような気がした。丸太の陰に一人身を潜めて落ち着くと陵辱された屈辱が蘇り、身体の芯から波動のような震えが押し寄せた。そして唇の乾いた血糊がこれが夢でないことを知らせていた。

 美並由美子の恋人だったからと信じ過ぎたのが油断だった。しかし後からそう悔やんでもそれは思いもよらない出来事だった。そんな鹿島に咲は同情の念すら抱いていたのだ。
 由美子は卑劣な鹿島を見抜いたからこそ、きっと離れたのだろう。鹿島のことは由美子に任せておくべきだった。なのに由美子に伺いもせずに出しゃばって鹿島に会い、暴行された事態を由美子が知ったら同情すらされないだろう。
 咲は由美子に軽率のそしりを受ける自分を思い、鹿島に対する憤りと憎しみに震えた。
 膝を抱えて屋根の間から見える青い月を見上げた。月にかかる霞みが途切れると顔に光を当たるのを感じた。そして光はしだいに涙に変わっていくのを感じていた。
 咲はしずかに泣いた。彼女にはもう泣くことしかできなかった。泣くことで夜を忘れさせてくれた。膝を抱えていた手の平から白く柔らかい木屑がこぼれ落ちた時、爪を飾っていたはずの桜貝が一つ消えていることに気がついた。




 鹿島哲也は藤宮香織との約束を3日遅れで果たした。密会場所のホテルを車で出ると夜の市街地を走った。香織は運転席の鹿島の肩にもたれかかって余韻の続きを楽しんだ。
 コンビニの前を通りかかると急に駐車場へ折れて止まった。
「ちょっとタバコを切らしたようだ。買ってくるから待っててくれ。」
 鹿島が店の中へ入っていくのを確認すると香織は室内灯を点灯させ、ルームミラーを使って化粧の乱れをチェックした。首筋についた愛欲の跡に気がついてミラーを幾度も傾けて調べていると、後部座席に置かれた時刻表がミラーに映った。
 いつも車でしか移動することのない鹿島が珍しく時刻表を持っていることに興味がわいた。どこへ旅行するのか聞いてみたくなった。時刻表を手にするとパラパラとめくってみた。
 ページの角が折れている所を開くと新幹線の上りページだった。三島発と新横浜着の時刻にそれぞれアンダーラインが長く引かれていた。東京近くまでならいつも車で行くはずなのに不思議に思った。
 時刻表を閉じると裏表紙に小さな桜の花に咲と書かれた小さなネームシールが貼られているのに気がついた。咲という聞き覚えのない名に一瞬手が止まった。が、鹿島がコンビニの入り口から白いビニール袋を下げて出てくるのが見えるとすぐに元の場所に戻した。

 鹿島が買ってきた缶コーヒーを香織は飲みながらずっと咲の字が気になった。
 車窓の夜景が見慣れた景色に変わってきた。香織の家に近づいていることがわかった。香織は家に到着する前に聞いておきたくなった。「ねぇ。どこか旅行に行ってみたいわね。どこかへ行く予定はないの?」
「いや。特に予定はないけれど。たまには何処か一緒に行ってみるかい?」
「いいわねぇ。連れて行ってくれるの。どこに行く?」
「海外なんかどうだ。お手軽にハワイとか、オーストラリアでもどう?」
「素敵ね。でも忙しくてそんなに長くお休みとれないでしょう。ハワイまで行ってトンボ返りじゃ嫌よ。そうね。もっと近い所でいいの。横浜の夜景を見たいわ。」
 車は香織の自宅の前で停車した。
「横浜なら今からだって見に行かれるよ。」鹿島はギアをバックに入れようとしたが、香織が彼の手を押しとどめた。
「車じゃなくて新幹線で行きたいわ。渋滞の心配をしないでゆっくり楽しみたいわ。貴方とは列車の旅をしたことがないから一度してみたいの。」
 新幹線にこだわる香織に鹿島は直感的に後部座席に置かれた時刻表に気がついた。
「そうだ。3日前に横浜から来たラレンツァ自動車の葵純代さんを覚えているだろう。彼女が忘れていった時刻表があるんだ。」鹿島は後部座席の時刻表を指さした。
 香織は葵が置いていったことに納得した様子を装った。だが本当に葵が忘れていったものだろうか。香織の脳裏には三島駅前で鹿島の車に乗った女の影がよぎった。あの女は咲という名前なのだろうか。
「これちょっと借してくれないかしら。一緒に横浜へ行くプランを立ててみたいから。」と香織は言うと時刻表をすぐにバックに仕舞い込み、車を降りた。


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