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第十一章 方位石の示す遙か彼方

 早瀬龍一はテニスコートの駐車場に車を止めた。まだ仲間の車は来ていないようだった。日差しが朝から強く、夏がまもなくやってくることを予感させる陽気だった。
 龍一は運転席のカーナビゲーションのモニター画面を他車検知モードに切り替えた。テニス仲間の電話番号を次々と選択すると仲間の現在位置が地図画面に点々と表示された。テニスコートへ向かっている車もあれば、まだ自宅から出ていない車もあった。
 龍一は少し早く来すぎたことを知るとドアーを開放し、シートを倒して仰向けに横になった。車の窓から木漏れ陽がさして顔に当たった。樹木の梢の若葉が重なっては離れ光のグラデーションを見せていた。

 するとモニター画面が独りでに何か動いたような気配を感じた。起きあがってみると電子メールの到着を知らせるアイコンが点灯していた。
 メールを画面の中のサリーに読み上げさせるように設定すると、再びシートに横になって聞いた。「咲より早瀬君へ。お願い。由美子が独立するのを一緒に助けてあげて。お願い。鹿島君に頼らずに、私逹の会社を由美子のマンションに作りましょうよ。お願い。由美子の夢をかなえてあげて。咲もお手伝いするから。お願い。咲は決めたの。お願い。」
 梢の若葉の動きが止まり木漏れ陽が一瞬暗くなったような気がした。龍一はすっと起きあがると桜川咲からのメールを見つめた。何回も繰り返し書き込まれている「お願い」の文字が気に掛かった。咲の思い詰めたような言葉の裏にある意味を読み取ろうと考えあぐねた。

 龍一は美並由美子へ電話をかけて、テニスへ誘った。
 由美子の声がカーステレオのスピーカーを通して車内に響いた。「テニスは学生の頃、やっていたことがあるくらいね。」
「そうなら今から一緒にやらないか。これから始めるところだ。すぐ来ない?」
「最近、すっかりご無沙汰していたから、みんなの足を引っ張るかもしれないわ。」
「大丈夫さ。心配いらないよ。それにちょっと話もしたいし。」

 由美子は部屋のテレビで電話番号サービスを選択し、龍一から聞いたテニスコートの電話番号を入力すると地図が画面に映った。場所はあざみ野。ここから少し距離がありそうだ。
 地下駐輪場から電動アシストサイクルと呼ばれる電動自転車を外に引き出して出かけた。アスファルトの歩道を軽快に走り始めると、そよ風が頬に心地よかった。
 車道を走る車が一台すれ違ったあと由美子の背中の方向で急ブレーキ音が大きく響いた。交通事故かと思って振り返った途端、ガッティーナがタイヤを軋ませて五十メートルくらい後方から全速力で逆進してきた。
 後続のトラックがガッティーナを避けようとして大きく蛇行した。トラックの幌が街路樹の枝を大きく薙ぎ払うと幌布がザックリ裂けて荷台の紅白の花輪が見えた。そしてトラックは車道を斜めに塞ぐように停車した。
 トラックの窓から男が顔を出して怒鳴り始めた。ガッティーナはトラックを無視してなおも逆進を続けると由美子の前で急停車した。窓から桜川咲が顔を出した。「お金を預かったわ。これは由美子のお金よ。」咲は由美子の手に鹿島哲也の名が書かれた封筒を押しつけた。
 トラックのドアーが開いて一人の大男が降りると何か怒鳴りながらこちらへ向かって歩いてきた。咲はハンドルに手を掛けて発車しようとした。
 走りだそうとする車の窓ガラスを由美子は掴むと窓越しに言った。「えっ、お金って何のこと?」
「これは由美子のマンションの費用よ。」
「どうして鹿島さんから咲ちゃんの所にお金を送ってきたの?」
 咲は由美子の質問を無視して叫ぶように言った。「このお金があればマンション解約しなくても済むわよね。由美子の夢をかなえて、お願い。ねっ。お願い。お願いよ。」
 男の怒鳴り声がはっきり聞こえる距離まで近づいてきた。
「お願い。お願いよっ!」咲は最後にそう叫ぶと、急にガッティーナを発進させるとバックからスピンターンをすると工事用の虎マークの柵を薙ぎ倒してトラックとは逆方向へ逃走した。
 男はあわててトラックに戻ると全速力で逆進させると由美子の前でスピンターンをした。ターンした瞬間、荷台の花輪が幌を突き抜けて宙を舞うと車道に落下した。トラックは花輪を残したままエンジン音をがなり立てると排気管から黒い排気ガスの塊を吹き上げて追跡していった。
 あっと言う間に2台は道路の彼方へ消えていった。メタノール燃料電池車のガッティーナが心配だった。ガソリン車のトラックに捕まらないようにと祈った。

 由美子は車道に散乱した花輪を歩道へ引きずり上げた。本日開店パーラー二十二世紀と書かれた小振りだが賑やかな花輪だった。花輪を道路脇の朽ち果てた廃車に立てかけた。忘れ去られた車がまるでもう一度息を吹き返してきそうに思えた。
 手にした封筒を開けてみた。中から五十万円と刻印された小切手が6枚出てきた。
 花輪から抜けた赤と金の毒々しい一輪の造花が一陣の風に吹き寄せられて由美子のテニスシューズに絡みついた。その毒のある色素が生き物のように足を伝わって這い上がってくるようだった。足を振い飛びのいた。
 しかし手にした小切手からも何か得体の知れないものが手を伝わって這いずり上がってくるようなものを感じた。小切手の文様がそれに触れる者に毒を放つように感じられた。
 由美子は早くその場を立ち去りたくなった。電動自転車を加速するとテニスコートへ向かって急いだ。



 緑色の人工芝と白い砂を混ぜたオムニコートと呼ばれるテニスコートが幾面も続き、白いウェアのプレイヤーで賑わっていた。由美子と龍一の会社の同僚仲間6人は1面を借りて交代でプレイを始めた。テニスボールがラケットのスィートスポットにヒットするたびに小気味良い音が響き歓声があがった。
 龍一と由美子は他のメンバーに交代してベンチに戻ると二人は吹き出る汗を拭い、冷えたドリンクで喉を潤した。そしてプレイを観戦しながら龍一は桜川咲から受け取った電子メールのことを語った。
 咲が電子メールを送ってきたことに由美子はその意外なことに驚いた。咲は普段から電子メールはキーを打つのが面倒くさいからと全て電話で済ますことが多く、敢えて電子メールで送ってきた理由を由美子も計りかねた。
「メールで咲ちゃんがみんなで会社を作ろうと言っていたけれど一体どんな仕事を始めるつもりだったの?」と龍一が尋ねた。
「咲ちゃんにはどんな仕事か話したないのに彼女がなぜ会社を作りたがっているか不思議だわ。私達だけで独立してもきっとやっていけないと思います。」
「どんな仕事? 難しい事?」
 龍一の矢継ぎ早の質問に由美子は次第に答えることをためらい始めた。仕事の内容に触れれば鹿島哲也との関係にも触れざるを得なかった。別れた恋人との関係を晒け出すのは耐え難かった。龍一の疑問に答えてやりたい気持ちと鹿島との関係に触れたくない気持ちが由美子の心の中で錯綜した。
 しかし由美子の気持ちに構わず龍一は質問し続けた。「それにお願いという言葉が必要以上に繰り返されていてとても気に掛かるんだ。どうしたのだろうか。」
 由美子も咲がガッティーナの中から別れ際に連呼した「お願い」という言葉を思い出した。小切手を受け取った時のあの異様な感覚は何だろうか。咲と鹿島哲也の間にどんなことがあったのだろうか。
 その時、コートから由美子の足下に真新しい黄色のボールが転がってくると思わず脚を飛び退いた。由美子はあの毒々しい花輪の感触を思い出すと、小切手の一件を呑み込んだまま口をつぐんだ。しかし彼女の心の中にはあの異様な感覚が次第に大きく鎌首を持ち上げ始めた。

「ねぇねぇ。ボール。そのニューボール。早く戻してぇ。いったい深刻な顔して一体どうしたの? 次はダブルスの試合をするわよ。ペアを決めるから来て。」と佐藤友康がハァハァ息を弾ませながら呼びに来た。
 ジャンケンで由美子は佐藤とペアを組み、龍一は他の女性メンバーとペアを組んだ。
 佐藤がラケットをクルクルと回すとすかさず龍一が「表っ!」とコールした。ラケットがコートに倒れると由美子が拾い上げた。彼女はラケットをじっと見つめたまま答えようとはしなかった。
「どうしたんだい。」と龍一に催促されて由美子は我に返ると言った。「早瀬さんの当たりよ。表だわ。」
 龍一がサーブ権を採ると4人のプレイヤー達はコートの四方に散らばって行った。
 由美子と佐藤のペアが配置についた。が、由美子は意を決したようにネット際に駆け寄ると龍一に言った。「この試合に貴方が勝ったら全て話すわ。」

 試合は互角のまま進み、マッチポイントを迎えた。
 ボールが青い空めがけて高く上がったロブが放物線を描いて佐藤、由美子ペアの頭上に落下してきた。佐藤はしっかりとポジションを決め、上体をグイッと反らすと「いただきっ!」と叫ぶなり、弓が弾けるように身体全体を反動させてスマッショを決めた。
 ボールは龍一の前方、ネット際めがけてスピードをつけて飛びこんできた。龍一の右足が大きく飛び、伸びきった腕の先にラケットを突き出した。ラケットの先端にかろうじてヒットするとボールは佐藤、由美子ペアのコートへ返った。
 そこをすかさず佐藤の後ろに構えた由美子がすくい上げるようにラケットを振り切ると龍一の後方めがけて打ち返した。
 龍一はすでにネット際に接近し過ぎていた。ボールは遙か後方のエンドラインへ向かって飛んでいった。
 佐藤はそれを見た瞬間、「ナイスショット!」と叫び、勝ちを確信するとラケットを振りかざして勝利のポーズを決めた。
 しかし龍一はネット際から全速でバックするとエンドラインぎりぎりで後ろ手に打ち返した。ボールは両手を挙げて歓喜した佐藤の足元にポトッと落ちた。
「ゲームセット!」呆然とする佐藤に向かって審判の声が試合終了を告げた。

 2組のペアはネット越しにそれぞれ順番に握手を交わした。佐藤は龍一と握手すると言った。「今日はやけに張り切るじゃないのさ。いつもの早瀬ちゃんじゃないみたいよ。やっぱり彼女がいるとパワーが違うわね。」
 由美子は龍一と握手すると微笑みながら言った。「貴方の勝ちね。」



 電動自転車を二つに折り畳むと龍一は車のトランクに押し込んだ。
「早瀬さん。このまま行って欲しいところがあるの。」と由美子は言った。
 トランクの蓋にカタカタと当たる自転車の音を聞きながら龍一は由美子の言うままに車を走らせた。

 車を道脇に停めると白いテニスウェア姿の二人は「夕映えの道」と呼ばれる緑道を歩んだ。緑道は港北ニュータウン全域に散らばる六十五か所の公園と公園を環状につなぐ総延長約十五キロにおよぶ長大な散歩道である。
 その緑道は急に松林に変わり目の前に富士山を型どった小山が出現した。富士山を模した小山の隣には愛鷹山を模した更に小さな築山が並び、2つの山の前には駿河湾をイメージする芝生のグラウンドが広がっていた。そして二人が立っている松林はちょうど三保の松原にあたるところだ。
 その小山は川和富士と呼ばれ、浅間信仰により江戸時代に富士山を拝むために築かれたものだ。川和富士の周りには螺旋状に取り巻く階段が続いていた。由美子は龍一を促すると頂上へ向かって登った。
 頂上からは家並みやビルを見下ろして三百六十度周囲を遮るものは何もない。東南方向には地平線から天に向かって飛び出したランドマークタワーがその名の通り横浜のランドマークとして目印となった。ランドマークタワーの反対の方角には遙か彼方に丹沢の山々が壁のように連なり、その奥に一段と高い富士山が傾きかけた陽をバックにうっすらと山陰を見せていた。
「ここは昔の人達が幸せを願った場所なの。あの遠くの山々に向かって悩める心を開いたのでしょうね。だから私もここで本当のことを貴方に話すわ。」
 頂上の方位石に腰掛けると天空を流れる雲を感じた。

 由美子は静かに口を開いた。「独立しようとした仕事というのはね。東海センサス社が開発してきたクロスセンシングシステムというソフトウェアと関係があるの。」
 クロスセンシングシステムは開発の中心人物であった鹿島哲也から由美子を通じてベイシティシステム社にも開発支援の要請があった。
 龍一にとってクロスセンシングシステムとは初めて聞く言葉だった。それは個人情報の巨大データベースが脳の記憶細胞ならば、データベースを自由に操るクロスセンシングシステムは目であり口である。いわば東海センサス社の頭脳中枢と言える重要なシステムであった。
 鹿島はクロスセンシングシステムから得られる個人情報を駆使してパーソナルCMに応用するように色々な応用システムを次々と考え出した。それらの応用システムがヒットすると業界の評判となり、次々と東海センサス社へ注文が舞い込むようになった。それが効を奏して彼はまだ係長ながら社内では一目置かれる存在となり年内には昇進の噂も流れていた。
「でも、彼はそれくらいの事で満足する人ではなかったの。彼は多様な応用システムの可能性を考えていた時、クロスセンシングシステムがマーケティングの世界以外にも利用できることを考えついたの。実はそれが会社を作ろうとしたキッカケだったのです。」
 由美子はその当時の経緯をアルバムを紐解くように話し始めた。


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