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第二十四章 ゴールドディスクに映る春雷

 由美子は一人、新幹線三島駅の改札口を出た。懐かしい景色だった。あの日からまだ1年に満たないはずなのに懐かしさがこみ上げてきた。
 由美子は懐かしさに誘われるように楽寿園をくぐった。早咲きの桜の花が少し開き始め、季節の移り変わりだけを教えてくれた。
 楽寿園を抜けると疎水沿いに歩いた。その思い出の道の彼方にガラス張りのビルが見えてきた。ガラスの壁面には地平線の雲に隠れようとしている夕陽の姿が映っていた。

 その頃、鹿島哲也のデスクの前では総務部長の竹中栄次郎が立ち、仕事のミスを詫びていた。鹿島はマウスから水晶のボールを取り出して磨きながら竹中部長の弁を聞いていた。
「社長、すみませんでした。以後、報告が遅れないようにいたします。」
 竹中部長が頭を下げると明かりにかざした水晶のボールの中に由美子の姿が一瞬見えたような気がした。竹中が頭を上げると彼女の姿が隠された。
 鹿島は幻覚を見たように思えた。「あぁ。もういいんだ。その件は。」と鹿島が許すと竹中部長が礼を言うために改めて頭を下げると、もはや由美子の姿は消えていた。
 竹中は頭を上げると竹中の目の前からは鹿島の姿は消えていた。

 鹿島は玄関を飛び出すと社有林の木陰に白いコートの後ろ姿を認めた。
「由美ちゃん。由美ちゃんなんだろ。」と鹿島は呼びかけた。
 若葉の萌えだした木々の間から吹き抜けるそよ風が時折、コートの裾をなびかせた。が、コートの下から伸びた脚は動こうとはしなかった。

 由美子は鹿島の顔を見るのがなぜか怖かった。鹿島に話したいことは山とあるのに、なぜか話すのが怖かった。
「話があって来たのだろう?」と鹿島が呼びかけた。
 由美子は振り向くと鹿島の目と合った。鹿島は何も変わっていなかった。会社の社長になろうとも由美子の目に映る鹿島哲也は由美子の知っている鹿島哲也のままだった。追い駆けて来てやさしくリードする彼は変わっていなかった。
「去年の夏、テレビ電話で桜川さんと顔を合わせた時、その直後にプロファイラシステムのデータ送信を切ってしまったね。それは俺と桜川さんとの間に起きた出来事を知ってしまったからだろう。違うか。」
 由美子は無言のまま、頷いた。
「やはりそうだったか。君と大瀬崎で別れた後、桜川さんは君のことを心配して俺の所へやって来た。彼女は俺を理解してくれたが、それに甘えて許されぬことをしてしまった。あの時の俺はどうかしていたようだ。」
 鹿島は桜川咲を陵辱した事実を認め、その償いをするために彼女に小切手を送ったことを素直に告白した。
 由美子は厳しい口調で言った。「咲ちゃんはそのお金を受け取ってしまったことをとても悩んでいたわ。マンションの解約金と一緒にして断れないように渡すなんてひどいことをするわね。」
「桜川さんが金で俺を許せるとは到底思えなかった。金で全てが解決できるわけがないのはわかっていた。しかし俺にはその方法しか詫びる方法が見つからなかった。彼女に何とか受け取って貰いたくて考えたことだ。」
 広い社有林の間を埋める絨毯のような黄緑色の下草の上を二人はゆっくりと歩いた。

 由美子は鹿島に詫びる気持ちがあったことを認めても鹿島が今までその事実を隠してきたことが許せなかった。
「私の家の近くの焚き火の前で貴方と再会した時、貴方は咲ちゃんの事を隠していたわ。知らなかったのは私だけだったようね。」
 鹿島は由美子から目を逸らすと木の梢を見上げて言った。「隠したのは確かだ。俺は君と本当にやり直したかった。だが真実を告白したら君との糸は切れてしまうと思った。もし桜川さんが事実を隠していてくれたならば、そのことに甘えたかっただけだ。」
「貴方の望む通り、咲ちゃんは貴方との関わりをずっと隠し通していました。だけどお腹に子供を身籠もってそれも隠し通せなくなったのよ。」
「えっ、彼女に子供が!」と鹿島は叫ぶと由美子の顔を見た。
 鹿島の背広の裾が突然の風に大きくはためいたが、鹿島の身体は硬直したように身動き一つしなかった。

「その事、藤宮香織さんに聞いていなかったの?」と由美子は風になびく長い髪を抑えながら言った。
「いや、藤宮さんは君との関係だけを問い正して来た。君との関係が事実と知ると藤宮さんはすぐに俺から離れて行った。彼女は桜川さんの妊娠のことは一言も触れなかったが、本当は知っていたのか。」
 由美子はゆっくり鹿島の周りを回りながら言った。「知っていても、きっと藤宮さんは咲ちゃんとの一時の過ちより私との関係の方が許せなかったかもしれないわね。」
 鹿島は鋭いまなざしで由美子の姿を追った。
「妊娠を知らなかったのは俺だけだったのか。で、その子供は今どうしている?」
「残念だけど流産してしまったわ。」
 流産の言葉に鹿島はすぐに声が出なかった。「うっっ。取り返しのつかないことをしてしまった。彼女にどうやって詫びたらいいのだろうか。」
「今、咲ちゃんに詫びることが必要かどうかはわからないわ。彼女は彼女なりに鹿島さんとの事を自分で精算して来ました。」
「自分で精算って何?」鹿島は由美子から次々と突きつけられる事実に困惑顔だった。
 鹿島は由美子の後を追ってゆっくりと歩いた。彼の前を若葉の梢が行く手を遮った。

 由美子は木立の中を進みながら言った。「あれから咲ちゃんは鹿島さんに対抗できる就職用のソフトウェアを作ることに情熱を傾けてきたわ。咲ちゃんのお爺ちゃんが作ってくれたブロブシーガル社に私達は集められました。早瀬さんも来てくれたわ。みんな咲ちゃんの熱意に動かされたから。」
「桜川さんは俺にビジネスで復讐しようとしようとしているのか。」
 由美子は木の幹を回り込むと再び鹿島の正面に回った。
 そして由美子は鹿島の目を見つめて言った。「そうかもしれないわね。でも咲ちゃんはブロブシーガル社を応援することでようやく今、鹿島さんとの事を忘れ始めたように思えるわ。だからもう、そっとして置いてあげて欲しいの。ブロブ社にもうこれ以上、手を出すのは止めて欲しいの。お願いよ。」
「手を出すって何のことだ。」と鹿島は問いただした。
 鹿島は由美子の身体を掴まえようと手を伸ばしたが彼女の身体がすっと翻り、鹿島の頬に木の梢が鞭のように当たった。
「お願い。ブロブ社に興味を持つのは止めてください。」
「しかし同業他社の動きに興味を持つのはごく普通のことだと思うが。」
「でも、興味を満たすために罪のない人を脅すのは止めてほしいの。」
 鹿島は忌々しそうに行く手の梢を折り由美子に近づいて言った。「脅すとは一体何のことだ。何かの誤解だ。いったい何があったのか話してくれ。」
 何者かに早瀬麗子が脅されてブロブディンナジオ社の販売情報を漏洩し、鹿島ブレインリサーチ社へ流れているらしいと由美子は語った。

「犯人はうちの会社の人間だと言うのだね。」と鹿島は念を押した。
「憶測とは言え、そう言わざるを得ないわ。」と由美子は言い切った。
 鹿島は胸の名札カードを外すとカードを社屋に向けてリモコンのようにカード裏のスイッチを入れ、カードに向かって内線電話のように誰かを呼んだ。
 しばらくすると竹中総務部長の声が聞こえてきた。竹中は夕暮れの薄靄さす木立の中で鹿島を探しながらやってきた。
「竹中さん。貴方が今まで報告してくれたブロブディンナジオ社の情報だが、それはどうやって手に入れていたのかね?」
 竹中部長は鹿島と由美子の顔色を窺ったまま口を閉ざした。
 鹿島は竹中を問いつめた。「早瀬麗子さんを知っていますか。」
「社長。どうしてその名前を。」と竹中は驚きのあまり目を見開いた。
 由美子も同時に目を見張った。竹中はバレンタインコンサートで写真に写った男とまったく違う人間だった。
「知っていることを全て話しなさい。これは私の命令だ。」
 夕空を背景にして鹿島の顔は暗い陰に隠され、竹中の顔だけが恐れを抱いた表情を薄明かりの中に浮かび上がらせていた。
 竹中部長はいとも簡単にあっさりと罪を認め、早瀬麗子を知った経緯を白状した。
 竹中は来年度に採用する良い学生を探すために、学生達が作った自己紹介用のホームページを閲覧していた事が麗子を知るきっかけだった。
 ある日、早瀬麗子のホームページを見つけた時、家族欄に記載された早瀬龍一がライバルのブロブシーガル社に勤務していることを発見した。その頃、竹中の耳にはブロブシーガル社の名は島本真知子の口から、すでにもたらされていた。

 島本真知子は失意のあまり美並由美子に憎しみを抱いた。先に退職した由美子が龍一と一緒になりたいばかりに彼をブロブシーガル社へ引きずり込んだと思いこみ、由美子さえいなければ龍一はREX社を辞める必要もなかったと真知子は信じ込んだ。
 真知子は龍一を不憫に思った。かつて東海センサスの廊下を由美子の後ろをノコノコついていく龍一の姿をタブらせた。きっと今も由美子の言いなりなのだろう。あの純な瞳で見つめ合った龍一が今や真知子の視線を避けるのは由美子が龍一の心を汚しているのだろうと思った。
 その憂う気持ちを親友の藤宮香織に訴えた。香織はすっかり肩を落とした真知子に同情した。またしても現れた美並由美子が今度は親友の恋心をも邪魔しようとしていた。
 もはや今となっては龍一の身を自由にするには彼と美並由美子を結びつけているブロブシーガル社が無くなれば良いと考えた。香織はブロブシーガル社の芽が小さいうちならば東海センサス社の力をもってすれば葬り去ることができると思った。
 真知子は香織に付き添われて竹中部長のデスクに出向くと、真知子は龍一から聞いた情報を洗いざらい竹中に報告した。そして真知子と香織はブロブシーガル社を潰してほしいと懇願した。

 竹中は直ちに鹿島社長に報告した。鹿島達はブロブシーガル社が極秘にプロファイラを上回るシステムを開発していることに危機感を強めた。
 そんな折り、偶然見つけた早瀬麗子のホームページは竹中に格好の標的を与えた。竹中は麗子を通じてブロブシーガル社に接触させ、ブロブディンナジオ社の情報を手に入れることを思いついた。
 竹中は早速、東海センサス社のクロスセンシングシステムを使って情報検索を開始した。初めに麗子の名前で検索するといとも簡単に横浜市の住所を割り出せた。
 次に麗子の動きを知ろうとした。麗子がFFカードを使って店で支払いをする度に、その支払情報を集めることから開始した。麗子のホームページの履歴書からテニスや英会話をやっていることをヒントに、横浜市内の関係しそうな店舗などの支払データを収集した。

 最初の網にかかったのはテニススクールへの会費の支払情報だった。そこからスクールの所在地と連絡先を突き止め、スクールに問い合わせて麗子の受講日を聞き出した。
 そして竹中は盗品の携帯端末を闇販売しているブローカーから1台手に入れると、その携帯端末を使って竹中は陽炎と名乗るサイバーストーカーを演じた。それはあたかも麗子を偶然、見かけて一目惚れしたようなメールを送ったのが始まりであった。
 続いて情報入手したラッフルズ英会話学校も年会費の支払情報を得て知った。
 そのうちに麗子がFFカードを期限更新して顔写真も入れ替えたため、撮影日の入った写真データがクロスセンシングシステムへ送られてきた。その写真には黄色いセーターの麗子の姿が映っていた。
 竹中は情報収集の範囲をさらに拡げるために新しく更新したFFカードから集まる全ての情報を集めた。その網にかかった下着専門店からの購入情報は麗子を恐怖の淵に追いつめる格好の材料を与えてくれた。
 黄色いセーターを着た日、下着を試着した日まで言い当てられ、麗子は家の中まで監視されていると思い込んだ。そして偶然重なった電車での痴漢被害が麗子を極度のノイローゼ状態へ追い込んだ。

「麗子さんはある日、自ら私の要求に従うことを申し出てきました。それまでは私から逃げていたのに。」と竹中は回想した。
「それはいつですか。」と由美子はきいた。
「確かバレンタインデーでデパートが賑わっていた日のあとだったね。何があったのか知らないが初めて私に対する態度が変わりました。何故か急に従順になり、初めて私にメールの返事を送って来ましたよ。」
「バレンタインコンサートのことは?」と由美子が尋ねると竹中はまったく何も知らない様子だった。今まで陽炎と思い込んで追いかけていたのはまったくの別人だった
 麗子は陽炎の顔をカメラに納めたと思ったのにもかかわらず陽炎からの攻撃は続いていた。彼女はその写真がすぐに別人をあることを悟り、もはや陽炎からの攻撃を避ける術をなくし、絶望のあまり陽炎の軍門に下ることになったのだろう。
 自宅の通信回線の傍聴や尾行の防止に手を尽くしていた麗子にとってFFカードから行動が漏れているとは知る由もなかったのだろう。

 竹中が語るところによれば、家族にも危害が加わることを恐れた麗子は陽炎の指示に盲目的に従うようになった。坂堂社長の秘書役を積極的に勤めるよう指示され、坂堂宛に送られてくる電子メールの管理を任されるまで信頼を得ることに成功した。そして麗子はメールの販売情報を全てコピーして竹中へ送ることが仕事となった。
 定期的なレポートを守れば家族の身も守れるという陽炎の言葉を麗子は信じたのだろう。販売情報を差し出すとしばらくは陽炎からの監視の目が許された。きっと麗子に明るい表情が戻ったと思ったのは情報提供と引き替えに得た一時の安らぎに過ぎなかったのだろう。
 竹中は言った。「これはライバル会社の情報を得ようとして私が犯した罪です。社長の顔に泥を塗った償いはしなければなりません。どうか私を即刻クビにしてください。」
「そうだな。何らかの償いは必要だろうな。貴方のことは後でゆっくり考えるから仕事に戻りなさい。」と鹿島は静かに言った。
 鹿島の黒い影に向かって竹中は顔をこわばらせて哀願した。「いや、この場で処分してください。後でじわじわ絞め殺されるような処分は耐えられません。どうかこの場でクビにしてください。」
「いや、今はダメです。戻りなさい。」
「社長。お願いです。どうか、今命じて下さい。」
「うるさい! 仕事に戻れと言っているんだ! 社長の命令が聞けぬのかっ!」
 鹿島が急に怒鳴ると竹中は逃げるように社屋に向かって帰って行った。


 竹中が消えると鹿島は顔を由美子に向けた。いつしか点された水銀灯の青い光に横顔が浮かび上がった。鹿島の顔から苦悩の色が読みとれた。
「由美ちゃん。誤解しないでくれ。竹中部長を処分しないために帰したわけじゃない。これは彼一人を責めるわけにはいかないんだ。俺にも責任があるからだ。」
「貴方の責任って?」
「ブロブシーガル社の詳しい報告を受けていたのは本当だ。しかしその詳しい情報を何処で手に入れていたのか尋ねもしなかった。これは俺の落ち度だ。すまなかった。もっと早く気が付いていれば麗子さんを苦しめずにいられたのに。」
 由美子は消沈した鹿島の肩を見つめた。
 鹿島は詫びの気持ちを切々と述べた。「麗子さんのこと。桜川さんのこと。俺は由美ちゃんだけでなく、君の周りの人にも次々と迷惑をかけてしまった。この償いはどう埋めればいいのかわからない。」
「貴方と離れていても貴方と私の間には次々と何かが起こるのね。今、こうして貴方と逢うのも運命なのかしら。」と由美子は言うとすっかり赤みの消えた夜空を見上げた。
 空は濃いブルーから漆黒へ塗り変わりつつあった。梢の黒い影の間をまだわずかな白さを残した雲が通り過ぎた。
 鹿島も一緒に見上げて言った。「かもしれないな。俺は社長という地位を得たが代わりに心の支えを失ってしまった。由美ちゃんを失ってから俺の孤独が始まった。やはり君なしでは安らぐこともない。・・・こうして互いが出逢うのが運命ならば、もう行かないでくれ。」
「たとえ運命だとしても私が貴方のところへ戻れば咲ちゃんが許してくれないわ。」
「桜川さんにはどんな償いでもする。俺は彼女が子供を身籠もったことまで知らなかったのだ。」
 鹿島の言葉に由美子の心が揺れた。揺れる心に言葉をなくした。彼は由美子の肩に手を掛けると囁いた。「俺達の夢は君と一緒に会社を作ることだった。今ある俺は一緒に苦労した由美ちゃんがいたからこそだ。なのに君の会社と競争するなんて、どこかで歯車が狂ってしまった。なぜ君と競争しなければならないんだ。」
「それは貴方に見捨てられた3千人の学生を救うためよ。貴方は不完全なデータのままプロファイラシステムを動かしているわ。麗子さんもその3千人の犠牲者のうちの一人よ。私達は見捨てられた人達を救うために会社を作りました。それが結果的に貴方と競争することになってしまったわ。」
 鹿島はしばらく考えると切り出した。「俺にその3千人のデータを譲ってくれないか。そうすれば由美ちゃんと競争する意味を失うことができる。」
「貴方と競争する意味を失う・・・。」と由美子は鹿島の言葉を反芻した。揺れる心にわだかまっていた靄が晴れていくようだった。
「そうだ。俺達はもうライバルじゃない。君を愛している。」
「まだ愛しているの。それは。信じてもいいの?」

「貴女を愛しているのは僕だ。」突然、背後の暗闇から早瀬龍一が現れた。
「あっ。」と由美子と言ったきり絶句した。
 龍一は小さなケースを差し出して鹿島の胸元に押しつけて言った。「鹿島さん。貴方に3千人のデータを渡す。しかし由美子さんは渡さない。鹿島さんにとって彼女はビジネスパートナーでしかない。貴方は本当に彼女を愛しているわけじゃない。」
 鹿島は叱りつけた。「デタラメを言うなっ! 君だって彼女のビジネスパートナーじゃないか。違うか。」
「確かに貴方にとっても僕にとっても彼女はビジネスパートナーかもしれない。僕はビジネスパートナーとしての彼女を愛しているのか、彼女を一人の人間として愛しているのかわからなかった。今ようやくその答えに気が付きました。」
「一人の人間って?」と由美子が小さな声できいた。
 龍一は由美子に顔を向けると静かに告げた。「僕は彼女の心の傷をも受け止めていける自信が付きました。生身の人間なら傷つき、悩み苦しみ、歓びを繰り返して生きていく。そういう一人の人間である彼女を支えてあげたいと思うようになりました。」
「それは私にとっても同じだ。君が由美子のことをどれだけ知っていると言うのだ。彼女と苦労を共にしてきた年月を君は知りはしないだろう。彼女を支えてゆけるのはこの私だけだ。」と鹿島が怒鳴るように言い放った。

 長い沈黙が続いた。夜空の雲だけが流れて行くのを感じた。
 由美子は両手を胸に当ててゆっくりと歩いた。木立の開けた所へ立つと夜空を見上げた。雲の切れ間を横切る夜行便の明かりが見えた。いつかベランダで見上げたその明かりをふっと何気なく思い出した。そして遠ざかっていく明かりを見ながら祈った。
 機影が消えた時、由美子は歩いた。彼女の暖かい手が龍一の胸に置かれた。龍一は由美子の両手を包むと抱きしめた。
 二人の影は一つになるとゆっくりと遠ざかって行った。水銀灯の明かりに照らされた木立の中を。



 鹿島は闇の中で立ち尽くした。
 すると水銀灯の明かりが揺らめいた。「いいドラマだったわね。」と女の声がした。
「誰だ。」と鹿島は水銀灯を背にした人影に向かって言った。
「私よ。香織よ。」
 藤宮香織の突然の出現に鹿島は狼狽した。「どうして、ここがわかったんだ。」
「竹中部長から知らせを受けたわ。あの人も大した男ね。全部、自分の罪として被ろうとしたそうじゃない。それを貴方がそうさせなったから竹中部長が心配して私に相談して来たわ。」
 鹿島は言葉を失って沈黙を守った。
 香織は言った。「貴方の胸元には彼女の手は置かれなかったけれど、3千人のデータは置かれたようね。これで貴方はこの業界人としてのモラルを守れそうね。データに欠落があるなんて知られたら信用問題だものね。よかったじゃないの。これで鹿島ブレインリサーチ社の業界トップの座は安泰ね。お祝い申し上げるわ。」
 香織は社服の上に羽織った長いカーディガンに両手を突っ込み鹿島の前を歩いた。
「それにあの美並由美子とかいう女の心に綺麗な貴方を残してサヨナラなんて、憎い演出だわ。お見事ね。」
「演出なんかじゃない。」と鹿島は厳しい口調で答えた。
「貴方らしくないわ。貴方はハンターでしょ。良い獲物を狙うためなら良い猟犬を求めて歩くハンターよ。あの女はちょうど良い猟犬だったわね。」
「俺の猟犬?」
「そう。猟犬よ。貴方を信じて飼い慣らされた犬よ。でも貴方の情熱は飼い犬にではなく、いつも獲物の方を向いていたわ。」
「獲物って?」
「ビジネスに決まっているじゃないの。それも社長の椅子でしょ。そうとは知らずにあの女は飼い主のために一生懸命走り続けたわ。裏切られても飼い主をいつまでも信じているのよ。可哀想だけど仕方ないわね。貴方はハンターだからね。」
 鹿島の手からケースが滑り落ちた。黒い蓋が開いて金色のディスクが水銀灯の明かりを反射して煌めいた。
 香織の目が鹿島に向かって見開いた。「でも私は貴方の猟犬には決してならないわ。私は貴方の獲物になるわ。追い駆けても追い駆けても、すぐ飛び立つ水鳥のように。そう簡単には捕まらないわ。ほっほほ。」
 香織は羽織っていたカーディガンを脱ぎ、鹿島に向かって放り投げると突然走り去った。

 金色のディスクの上に春雷が反射した。遅れて聞こえる雷鳴が鹿島哲也の耳に届いた。それは猟銃のように辺りにこだました。

終    章

 年月を遡ること1999年。就職協定が廃止され学生達は桜の便りとともに活発な就職活動に動き始めた。
 早瀬龍一が早くもREX社から最初の内々定の連絡を受けた。母親の幸子は大喜びで赤飯を炊き、麗子は兄の初任給におねだりする物を真剣に考えた。

 同じ頃、ベイシティシステム社では美並由美子が就職面接の順番を待っていた。由美子の並ぶ列の前を鹿島哲也は書類を小脇に抱えて通り過ぎた。鹿島はめぼしい女の顔を一瞥するとコンピュータルームへ消えた。
 由美子は通りがかりに一瞬、目の合った鹿島の目が気になった。その野性的な目が印象的だった。

 島本真知子、藤宮香織は東海センサス社の一室に通された。沢山の学生に混じって机に座ると適性検査用のテスト用紙が係員から配られた。真知子が鉛筆を持つと隣に偶然座った香織もつられて鉛筆を握った。すると総務課の竹中栄次郎が二人に注意した。「合図するまでまだ鉛筆は持たないでくださいよ。」
 この時、真知子と香織はあわてて鉛筆を置くと顔を見合わせ、初めて互いを意識した。

 ブロブディンナジオ社でも多くの学生に混じって清水春樹が会社訪問に詰めかけていた。清水の並ぶ列の後ろで係員に呼ばれて先に案内される桜川咲の姿があった。清水は前を通り過ぎて行く女の後ろ姿を羨望のまなざしで見つめた。

 彼らは数年後に訪れる出会いをまだ知らない。
 彼らは数年後に訪れるテクノロジーをまだ知らない。ただその兆候はすでに現れていた。
 佐藤友康は自宅のパソコンでREX社の会社案内のホームページを見ようとしていたが、ノロノロと遅い回線に苛立っていた。
 やっと画面に現れたホームページの片隅にREX社の最新技術を紹介するメニューがあった。なにげなくクリックするとコンピュータの新製品が紹介されていた。
「これからの顧客管理の決め手はお客様一人一人の情報をいかに有効に使えるかにかかってくると言えるでしょう。REX社はそのニーズにお応えするために新開発の超並列コンピュータをご提案し、万全のサポート体制をもってユーザー様の未来を切り開くお手伝いをいたします。」
 テクノロジーがやがて人々を管理してゆく時代を切り開いてゆく。

終わり


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