第二十三章 砂のティーカップ ブロブシーガル社の事務所に二人きりで残された咲と清水は気まずそうに顔を見合わせた。テーブルを挟んで長い沈黙が続いた。先程まで聞こえていた音楽が自然に止まり、室内は静かな静寂に包まれた。二人にとって昨年のクリスマス以来、3か月ぶりの再会だが、再会を素直に喜ぶ気持ちをあらわせなかった。 咲はそっと立ち上がるとドアーに向かい帰る素振りを見せた。すると清水は筆談に使っていたノートのページをめくって新しいページを開いて咲に見せた。冬の長い陽差しが伸びて白い紙にスポットライトのように当たっていた。 清水はペンを取るとテーブルの上で書いた。「もう行かないで下さい。」 咲もペンを取った。「貴方に醜い咲を見せてしまいました。咲は貴方にふさわしい女ではありません。」 互いに目の前にいながらも遠く離れた愛しい人へ送る恋文のような切ないやり取りだった。 清水は書いた。「人を愛することは美しさも醜さも愛することです。」 彼は一行書いてノートを咲に差し出すと再びうつむき、咲の返事を待った。 「いいえ。咲は醜いだけです。早瀬君に助けてもらいたいと哀願しながら彼に惹かれる気持ちがあったかもしれません。咲の不純な心がしたことです。」と数行書き留めて差し出すと、咲はペンを持ったまま背を向けるとゆっくりと玄関へ向かった。 清水は追いかけて彼女の手からペンを奪うと再びノートの上を走らせた。「貴女がそうせざるを得なかったのは会社を救うためだったと信じています。たとえ貴女の心に一時の迷いがあったとしても、私はその心さえ受けとめたい・・・」と清水は想いの全てをノートに延々と書き綴った。その想いでノートが一杯になった。 そして清水が新しいページをめくろうとした時、咲は手を清水の手の上に添えた。 咲は声を上ずらせて言った。「新しいページは一緒にめくりましょう。」 清水は咲の手をやさしく握ると、そっとページをめくった。新しいページの上に二人の手が置かれた。 清水が咲の手を堅く握りしめた。さらに彼女を強く抱きしめ、接吻をした。遠く離れた恋人が再会したような熱い想いが二人を包んだ。純白のページには二人のシルエットがくっきりと書き加えられた。 一方、龍一は由美子を連れて龍一の自宅へ向かって車を飛ばした。家に入ると母の幸子が足を引きながら玄関で出迎えた。 龍一が階段を駆け上がろうとすると押しとどめた。「こんな素敵な娘さんを連れてきたのに紹介してくれないの?」 龍一は由美子を紹介すると、由美子は幸子の足の様子を案じて、いたわりの声を掛けた。すると幸子はそれに応えて言った。「心配してもらってありがとうございます。これね。先週、自転車に乗っていたら側を通った車がいきなり曲がったのでハンドル切り損ねて転倒しちゃったのよ。すこし足をくじいたけれどお医者さんに見て貰っているから大丈夫よ。さあ。玄関で立ち話はこれくらいにして、どうぞ上がって頂戴。」 幸子は龍一の袖を引っ張ると言った。「美並さんは何が好きなの。甘い物なんかどうなの。都筑みそ饅があるのよ、どう。後で持っていてあげるわよ。」 「何もいらないよ。構わなくていいよ。足が悪いのだから必要な時は僕が下に取りにいくから。」 幸子は龍一の袖を更に強く引っ張ると耳元で言った。「よその娘さんに変な事したら承知しないからね。いいねっ。」幸子は言い終わると龍一の背中をドンと叩いて押し出した。龍一は逃げるように由美子を連れて階段を上がった 2階に上がると龍一の部屋に入らずに麗子の部屋に入った。テレビにスイッチを入れると麗子宛の電子メールを開いた。やはり咲の言う通り陽炎からのメールはまだ続いていた。 メールの1つを選んで開いてみた。「次の販売先の計画書は来週水曜日までに知らせろ。それから横浜ファインドワークス局への納入見積価格もすぐに知りたい。」 次のメールも続けて開いた。「君は私の指示に遅れた。私の脅しが嘘でない証拠に母親の幸子に罰を与えた。君の母親は運のいい女だ。葬儀屋でなく外科病院で済んでよかったな。今度、報告が遅れたら情況は想像つくだろう。」 「報告がキチンとできれば、何も心配する必要はない。君のお兄さんは元気に働いているようだね。元気に働けるのも君の理解が良いからだよ。陽炎はそういう君が好きだよ。」 画面一杯に映し出されたメールに龍一の顔がこわばった。自分の妹から営業情報が漏れていた事実に強いショックを隠せなかった。 龍一の顔色を察した由美子が言い諭した。「麗子ちゃんが悪いわけではないわ。家族を守ろうとしてしたことよ。脅されて仕方なくしたことだから彼女を責めてはいけないわ。本当に悪いのはこの陽炎という男だわ。」 由美子は部屋を出ていこうとした。龍一が呼び止めた。「どこへ行くんだ?」 「私が貴方に恩返しをする時がきたわ。」由美子は階下へ駆け下りていった。 そのあとを龍一が追いかけていくと階下で由美子と入れ違いに幸子が現れた。「ちょうど、お茶の用意ができたわよ。私、足が不自由なんだから、ほら早く受け取ってよ。」幸子は強引に茶菓子の乗ったお盆を龍一に押しつけた。 龍一はお盆を持ったまま玄関を飛び出した。 由美子を追いかけが彼女との差はどんどん開き、角を曲がるとその姿を見失った。お盆の上の紅茶はひっくり返り、空になった2つのティーカップがそこにあった。 道路でおままごと遊びをしていた女の子が声を掛けた。「ほらほら、もおぉ、こぼしちゃ、だめよ。ハイ!」と言うと砂の入ったおもちゃのカップを龍一に渡した。 そして龍一の顔を覗き込むようにして言った。「恋人に逃げられたの?」 恋人? 返答に困った。由美子は恋人なのだろうか。それともビジネスパートナーなのだろうか。 龍一は砂の入ったティーカップを飲んだフリをしてカップを返した。 「どう、おいしいぃ? じゃ今度はね。私が恋人役になってあげるね。」と女の子は無邪気に言った。が、恋人役という言葉に心が止まった。 ビジネスパートナーである由美子に恋人の役割も演じてもらいたかったのだろうか。男優と女優のように単なる仕事の相手かもしれない。男優と女優が愛し合ってもそれが演技という仕事だったら、その演技がうまければ息の合うビジネスパートナーでしかあり得ない。 由美子とは良い仕事ができたのは確かだ。息の合うビジネスパートナーであることも確かだ。プロミネンスが完成できたのは彼女がいなければあり得ないことだった。彼女がいるからこそ龍一自身も懸命に走って来れた。 だが、それは由美子を愛する気持ちが仕事をさせたのだろうか。それとも自分の夢が彼女と同じだっただけか。 いったい自分の夢とは・・・。それは妹の麗子を助けることが自分の夢なのだろうか。 三千人の消された学生達を助けることだろうか。 それとも桜川咲の復讐を遂げさせることだろうか。 あるいは先生とまで呼ばれたエンジニアとしての力を試してみたかったのだろうか。 やはり由美子そのものを得ることが夢だったのだろうか。 「おじちゃん! おじちゃんてば。ちょっと聞いているの?」女の子の声に龍一はハッとした。女の子は不満そうな顔で言った。「私は恋人なんだから、よそ見していたら誰かに取られちゃうよ。」 |