第三章 クラスターな出会い 新横浜の駅前からビル街に向かって歩くとベイシティシステム株式会社という会社の看板のあるビルがあった。ビルの入口に近づいた時、入れ違いに美並由美子が飛び出てきた。早瀬龍一は小走りに走り去って行く由美子を追いかけた。 駅前の大交差点を渡りかける寸前に彼女を呼び止めたが、立ち止まった瞬間、信号は赤に変わり車が行く手を遮った。 龍一はポケットからネックレスを差し出した。が、由美子は何も知らないようだった。それがサイン入りの小袋の中に入っていたことを話すと彼女は驚きの顔に変わった。 信号がようやく変わった。「ごめんなさい。ちょっと急いでいますので、歩きながらお話ししてもよいですか。」と言う由美子の足は新横浜駅に向いていた。 由美子は濃紺のスカートのスーツに同色のヒールを履き、肩には紺のハンドバック、手には黒っぽいモスグリーンのアタッシュケースを提げており仕事で旅行するように思えた。 彼女の走るスピードがだんだん早くなってきた。 「新幹線ですか!」と龍一は走りながら叫ぶように言った。 「はい! そうです!」 「何時の列車!」「七時五十一分!」時計を見ると五十分だ。 「それは大変だ。呼び止めてしまって、すみません!」 「いいの。ネックレス届けてくれてありがとう!」二人は走りながら互いに叫びあった。 新幹線用の改札口に飛び込む時、由美子は一瞬振り返り「ありがとう!」と叫び、小さく手を上げるとプラットフォームへ続く階段を駆け上がって行った。 由美子との再会はあっけなく終わった。 龍一は改札口のそばの柵に寄り掛かり、自販機の缶ジュースで喉の潤いを確かめながら由美子の見えなくなった階段をぼんやり眺めた。 ネックレスを返してしまった今、もはや彼女と結びつけるものは何もなくなった。昨日までの夢見る気持ちはやはり夢でしかなかったようだ。 缶が空になったのを感じると柵から立ち上がった。 すると、プラットフォームに続く階段を他の乗客に混じり由美子が降りてきた。由美子はゆっくりと待合室へ入ろうとした時、一瞬振り返り改札口の方を見渡した。龍一を見つけると階段を急いで降りてきた。 「待っていてくれたのね。ありがとう。せっかく一緒に急いでもらったのにやっぱり発車時刻に間に合いませんでした。」と由美子は改札の柵ごしに龍一に話しかけた。 「そうでしたか。残念でしたね。次の列車の時間を調べてあげます。どこまで行くのですか。」 「三島です。」と由美子は乗車券を手の平にのせて見せた。 龍一は掲示板に貼ってある大きな時刻表を見ながら言った。 「えぇと。次は八時二十分の列車があるよ。三島には八時五十五分に到着だ。あと三十分近くも後だけど、この列車で間に合いますか。」 「ギリギリだけど仕方ないわ。三島駅からタクシーでも乗ることにします。しかし、それよりも貴方も会社へ行かれる所だったのでしょう。大丈夫ですか。」 「これから会社の会議に出る予定だけれど、僕一人くらい会議に出なくても会議はできますから大丈夫です。」 由美子は床に重そうなアタッシュケースを降ろすと溜息混じりに言った。「いいわねぇ。私も行かなくて済むならいいのだけど・・・。」 「気が重そうですが、やはり仕事なんですか。」と龍一が尋ねると由美子はこれから向かう仕事について話し出した。 由美子はベイシティシステム社でコンピュータの営業支援を担当しており、今から向かうのは三島の東海センサス社だった。その会社からミニパコムの講習会を頼まれていたことを話した。 龍一は柵に寄り掛かり言った。「講習会を開くとは、つまり先生役ですね。それもミニパコムを教えるとはかなりの腕ですね。」 由美子は手を振り謙遜して言った。「いいえ、そんな事ありません。実はこれから東海センサス社で二十六台のミニパコムを使ってクラスター接続する方法を教えなければなりません。そのため、つい先程までうちの会社の中でずっと予行練習していたのですが、どうしても接続がうまくいかないのです。それで新幹線の発車時刻に遅れてしまったのです。」 ミニパコムとはミニ並列コンピュータの略であり、マイクロプロセッサが百個以下の並列コンピュータである。マイクロプロセッサ1個が演算をする頭脳であるから並列コンピュータは多数の頭脳を使って同時並行に演算する方法である。 二十世紀に流行したパソコンのマイクロプロセッサが1個ないしは数個であったのに比べるとミニパコムはマイクロプロセッサの数において数百倍も高速処理が可能である。 並列コンピュータは超高速処理の切り札と言われながらも二十世紀までは多数のマイクロプロセッサをコントロールするソフトウェア技術の利用が難しく、プログラマーにも高度の知識を必要としたため、その利用はごく限られたものであった。 しかし二十一世紀に入ると使いやすいソフトウェア技術が確立して飛躍的に発展し、一般企業に広まってきた。 このミニパコムをさらに何台も連結して1台のコンピュータのように動かすクラスター接続という方法がある。例えばマイクロプロセッサが五十個のミニパコムを二十六台クラスター接続すると千三百個相当の大型並列コンピュータが動いているのと同じ能力に匹敵する。これは実際の大型コンピュータより処理スピードなどがやや劣るものの低価格で大型コンピュータ並みのシステムを構築することができる。 そのため一般企業では大型並列コンピュータが必要な大規模なデータベース分析などを処理する時だけ、社内に分散しているミニパコムを臨時にクラスター接続して使う方法が行われている。 「クラスター接続をメーカーにサポートしてもらったらどうでしょうか。」と龍一は提案した。 「先週、メーカーにお願いしたら、これから連休に入るから対応できないと断られてしまいました。私はソフトウェア開発が専門なもので、どうもハードウェアの方は弱くてよくわからないのです。全国から講習を受ける人達が集まって来ているから必ずできないと困るのですが。」と由美子はそう言ってうつむいた。 「そのミニパコムはどこの製品ですか。」 「REX社の新型ミニパコムのタイプ2です。」 「そうですか・・・。」龍一は答えに窮した。 「あっ、ごめんなさい。こんな愚痴っぽいことまで話して。」と由美子は龍一が答えに困るのを察すると急に話題を変えようとした。 龍一は自社製品で困っている人を目の前にして、いたたまれない気持ちになった。それも彼が自ら開発に関わってきたミニパコムのトラブルだ。日頃、メーカーは売りっ放しでお客の面倒を何も見ていないと批判的に思っていたが、実際に困っているお客が目の前にいる。なのにREX社では連休を理由にサポートできないと断っている。 「三島へ行ってみましょう。自信ないけど少なくとも僕はREX社の人間ですから。いやエンジニアですから。」と龍一は衝動的に言い放った。 「えっ! 本当ですか。」と由美子の顔がさっと明るくなった。 龍一は岩下雪江を思い出した。雪江が電話口で喜びの歓声をあげていたことを思い出した。その雪江の喜ぶ姿を目の前にいる由美子に重ねていた。 そして龍一は自ら言ったエンジニアという言葉に何か快感のようなものを感じた。エンジニアと自己紹介して誇りのようなものを感じたのは入社して以来、初めてだった。 「でも貴方は今、会社へ出るところでしょう。それはいけないわ。」 「会社には風邪で休むことにします。」と龍一は言うと携帯電話を手にして由美子に背を向け、離れた。 「まっ待ってください! そんなことしてはダメです。それは私がやるべきことですから!」由美子は改札の内側から出られず龍一の背中に向かって叫ぶだけだった。 発車時刻が来るまでプラットフォームのベンチに腰掛けて待つことにした。 案内アナウンスが通過車両側のプラットフォームの安全柵に近づかないようにしつこく注意を始めた。 突然、プラットフォームの空気が歪み、耳にドーンと圧迫を受けた。カモノハシの嘴のように平べったく尖った先端をした最新鋭の新幹線が時速四百キロを超す猛スピードで地響きを立てて通り過ぎていった。待合室のガラスがビリビリ震え、ベンチが揺れた。まるで地面をジェット旅客機が飛んで行くようだった。 列車が過ぎ去っても龍一の心の中は不安な気持ちで揺れ続けた。わざわざ新幹線で出かけて行って直せなかったら、これほど間抜けなエンジニアはいないだろう。いや、REX社のエンジニアとして恥さらしになるかもしれない。不安な気持ちに揺れるうちに列車が入って来た。 発車してしばらくすると三角形の山頂を頂いた丹沢の山々が小さな車窓いっぱいに広がり、山の表側から裏側までをあっと言う間に通り過ぎていった。小田原を過ぎると列車は箱根の山の下へ入った。 長いトンネルを走る列車の窓に由美子の横顔が写る。ガラスに写った由美子の顔は黒い背景の中で白く輝いていた。昨日のシアターで垣間見た横顔がそこにあった。まだ昨日のことなのに龍一の胸には何年もの思い出をめくるような想いだった。 ふと由美子の白い首筋に何も装飾品がないのに気が付くと龍一は彼女に返したネックレスを思い出した。龍一がネックレスの美しさを誉めると由美子はバックからネックレスを取り出し、リクエストに応えるように首に付けてみせた。ゴールドチェーンのトップには豆粒のようなビーンズゴールドが光っていた。 列車がトンネルを抜けると車窓から陽光が差し込みゴールドが輝いた。その光りの中で由美子が言った。「これ、友達から頂いたものなのです。」 「それはもしか、咲っていう人かな。袋のシールに名前らしきものが書いてありましたね。」 「そうなんです。桜川咲という友達のネームシールでね。彼女は何にでも貼るのが好きみたいで、プレゼントの袋にもよく貼ってくれるのです。」 由美子と桜川咲は互いに今年のお誕生日にはジュエリーをプレゼントし合うことを約束し、楽しみにしていた。しかし由美子の誕生プレゼントに貰った袋の中から出てきたのはジェリービーンズだった。 「咲ちゃんはジュエリービーンズだよって駄洒落を言うだけでしょ。私ちょっとがっかりしていました。」と由美子はその時の思いを語った。 「なのに袋の底から本物のジュエリービーンズが出てきたというわけですか。」 「今日、本当にびっくりしたわ。こんな素敵なビーンズゴールドのネックレスが入っていたなんて知りませんでした。本当に嬉しいわ。今日は何か良い日になりそう。」由美子は初めて身につけたビーンズゴールドをさも嬉しそうに何度も首に手をやった。 「なるほど、その豆粒のようなゴールドがジュエリービーンズか。咲ちゃんという女性は面白い人なんだね。」 「そう。楽しい子よ。いつか会う機会があればいいわね。」 新幹線は富士山が見えると急にスピードを落とし三島駅に滑り込んだ。また再び二人でダッシュが始まった。新幹線の扉が開くのももどかしくプラットフォームを駆け抜け、タクシー乗り場を目指して人をかき分けて走った。 龍一は由美子のアタッシュケースを小脇に抱え、走ってくるタクシーの前に立ちふさがった。そしてタクシーに乗っても心臓の鼓動は鳴り止まなかった。 タクシーは東海センサス株式会社の看板がかかった会社の正門口に到着した。時計を見ると八時五十九分だ。約束の1分前だ。 龍一が玄関に向かって走り始めた時、いきなり手首を引っ張られた。「ごめんなさい! いきなり引っ張って痛かったでしょう。お客さんの前で走ったら、まるで遅刻したみたいでしょう。」 二人は急にゆっくり歩いて入ると、由美子は受付に来訪を告げた。「ベイシティシステム社の美並由美子です。総務部の島本様と九時にお約束を・・・。」と言いかけた所で、当人の島本真知子が奥から顔を出して呼びかけた。「ハァイ! ジャストタイムよ。いつもながら正確無比ね。私の方も準備OKよ。」 真知子は社内教育の担当者で今日の仕事の依頼人だった。 「島本さん。ミニパコムのサポートに今日は強い味方に来てもらいました。こちらがREX社の早瀬龍一さんです。」と由美子が龍一を紹介すると、龍一は由美子の後ろでボソッと挨拶した。真知子の目と合うと龍一は目を伏せた。 「あらっ、あの有名なREX社の人なのね。美並さんはこんな強い味方を今まで隠していたのね。」 「そうなの。でも島本さんに会わせて、こちらへ転職したいって言われたら困るのが心配なんだけれど。」 軽快な愛想話をしながら廊下を早足で歩く由美子と真知子の後ろを、龍一ははぐれまいと二人の背中を追い駆けた。通りがかりに社内を見渡すと連休にも関わらずあちこちに社員が休日出勤しているのを見かけた。そして彼らは一様にコンピュータの端末に向き合っているばかりで一体何をやっている会社なのか見当がつかなかった。 真知子は会議室の前に来ると、由美子に全てを任せて職場に戻って行った。 会場となる会議室の前には黒い背広姿の受講者達がタバコを吹かして時間待ちしていた。受講者達は普段は営業マンだろうか、押しの利きそうな顔つきをしていた。彼らの隙間から部屋に入ろうとすると受講者が龍一達に向かって直立不動で一斉に大声で挨拶した。ある者はあわててタバコを灰皿でもみ消して深々と挨拶し、またある者は龍一達のためにドアーを開けた。龍一はこんなにまとまって人に挨拶されるのは初めてだった。 龍一の心臓の鼓動は高鳴り不安は頂点に達した。それは全力疾走で走った時より息苦しさを感じた。それに比べ由美子は全く気後れせずに龍一の前を進んだ。そして龍一の背後には二十五人の受講者達の列が続き、もはや後戻りを許さなかった。 新型ミニパコムが整然と並ぶ広い部屋の教壇に由美子は立ち、アタッシュケースから携帯コンピュータを取り出してプラグに接続すると壁のスクリーンに由美子の作った説明資料が映し出された。由美子は先ほどまでの穏やかな声とは違う、凛として部屋中に響きわたる声で講習を始めた。彼女の堂々とした姿に龍一自身にはないようなエネルギーを感じた。 一方、龍一は受講者達のミニパコムから伸びた通信ケーブルをマスターコントロール用のミニパコムに接続してみた。クラスター接続は一見正しいようだったが、ミニパコム同士が連動せずにバラバラに動いてしまった。これでは接続実習が不可能だ。龍一は頭の中が白くなった。やはり新型ミニパコムは今までのものと違うのだろうか。 由美子の講習は順調に進んでいる。彼女は龍一の腕を信じ切っているようだ。あと三、四十分もすれば接続実習を始めざるを得ないだろう。龍一には原因が皆目わからなかった。まったく手を動かすことのできない事態が続いた。 教壇の由美子の目が時折、龍一の動きを追っているのを感じると、こめかみから汗が滲み出た。龍一はいたたまれない気持ちに追いつめられて会議室を衝動的に飛び出した。 誰もいない通路を一人あてもなく歩いた。玄関口まで来ると外の陽差しが穏やかに差し込んでいた。そのまま逃げ出してしまいたくなった。 その時、背後から声を掛けられた。島本真知子だった。「お仕事、お疲れさまでした。よろしかったら、あちらで休憩されてはいかがでしょうか。」 龍一は言われるままに応接室に案内されると一人、部屋に残された。龍一はこの部屋で新型ミニパコムの解決方法をじっくり考えてみることにした。応接室の窓には社有林が広がり若葉の鮮やかな緑が陽を受けて輝いていた。その緑を写しとったようなライトグリーンのゆったりとしたソファーに龍一は身を沈めた。そして座ると何処からとなく鳥の声が聞こえ、気持ちのいい森の香りが漂ってきた。あの林から運ばれて来るのだろうか。ソファーに身を委ねてミニパコムの解決策に全神経を集中させた。 しかし気持ちを集中させればさせるほど気持ちが大きくなり、悩んでいることが取るに足らないことのように思えた。そして、羽根のように身体を包む心地よいソファーはふっと意識をなくさせるような眠りを誘った。もう面倒な事は誰かに投げてしまいたくなった。 突然、ドアーが開き、真知子が紅茶のティーポットを持ってきた。龍一ハッとして意識を取り戻した。 真知子に礼を言うついでにソファーを誉めた。「とっても気持ちのいいソファーですね。何か気持ちが大きくなって細かい事が何かどうでも良くなるような。」 「ウフッ。早瀬さんもこのソファーの虜になってしまったのね。こんな感じかしら。細かい事はどうでも良くなって誰かに全部お任せしたくなったのでしょう?」 「その通りです。どうしてわかるのですか。」と龍一は目を丸くして言った。 真知子は龍一のティーカップに紅茶を注ぎながら龍一の驚く様子を楽しんでいるようだった。 「ふぅん。まだ数日前に購入したばかりだけれど、やはり効果があるようね。REX社の方ならご存じだと思うから内緒で教えてあげましょうか。」 「何か仕掛けでもあるのですか。」 真知子はこの応接室が商談用に特別に作られていることを教えた。ソファー、音響、香り、照明など部屋の全てのコンディションがREX社の面談サポートシステムによってコントロールされ、客の精神状態に応じてリラックスさせたり、覚醒させたり意のままにできるようになっていた。 「ということはカメラで監視されているのですか。」と龍一が尋ねると、真知子が壁のミラーを指さして言った。「そう。やはり良く知っていらっしゃるわね。ミラーの裏側にあるカメラで自動チェックしているわ。失礼とは思いましたが早瀬さんをモニターでチェックしたら、かなり緊張されているようでした。」 真知子は壁のスイッチを押すとモニター画面がすっと現れて測定データが表示された。龍一の瞼のまだたきは毎分七十八回を記録し、かなりの緊張状態にあったことを示していた。 「これは何か悩んでいるのかしらと思ってリラックスレベルをアップさせましたが、はたしてリラックスできたかしら。もっとレベルを上げましょうか。」 「いや、もう充分ゆっくりさせてもらいました。ところで、もし一緒に商談している御社の人もリラックスし過ぎてしまう時はどうするのですか。」 「そうね。それがこのシステムの欠点のようね。経験したうちの営業マンの話では自分も暗示にかかりそうになったらソファーから離れて、そこの電話で意味もなく天気予報を聞くそうよ。でも、天気予報相手に何を話をするのかしらね。バカみたい。ほっほほ。」 真知子が部屋を退出すると、すぐに龍一は電話の所へ立ち上がった。自分の会社の機械に暗示を掛けられるとは、まさかの不覚だった。人事の桐田志郎がテレビカメラの前で隠そうとしていたシステムと似たものに違いないだろう。 龍一は天気予報を聞こうとしたが、指を止めた。どうせ聞くならこの面談サポートシステムのチェックから逃れる方法でも調べた方がマシだと思った。 同僚の佐藤友康を電話に呼び出した。開口一番に佐藤の語尾を延ばしたカマっぽい声が聞こえた。「どうしたのよぅ。早瀬ちゃん。風邪ひいて休むって聞いたから心配してたのよぅ。今日の会議ね。早瀬ちゃんがいないと寂しいって、私、係長に言ってやったのよぉ。そしたら明日に変更になったの。どう、お手柄でしょ。」 「ありがとう。風邪は大したことないから。明日は出られると思うよ。」龍一は喉元を手で押さえてガラガラ声で答えた。 「本当なの? だいぶひどいみたいねぇ。無理しないでねぇ。」 いつものように小指を立てて電話を受けている佐藤の様子が龍一の脳裏に浮かんだ。 「ちょっと頼みがあるのだけど。」 「何、何よ。何でも言って。看病しに行ってあげようか。こう見えてもお料理作るのうまいのよ。何を食べたいの? でも遺伝子組み替え食品はダメよ。」 「いや、うちの面談サポートシステムに詳しい人間を教えてほしいんだ。新製品らしいんだ。」 「えっ、食べ物とは関係ないじゃないのぅ。そんなもの明日会社へ来て聞けばいいじゃないの。病気の時ぐらい仕事のことなんて忘れなさいよぅ。」 「今すぐに調べたいことがあるんだ。在宅勤務だと思ってくれ。」 「嘘っ。在宅勤務のパスが出ていないわよ。ねぇねぇ。一体今、どこにいるの? テレビ電話のカメラにスイッチ入れて顔を見せてよ。」 「いや今、パジャマのままだからね。困るんだ。」龍一はカメラのスイッチを入れていなくてホッとした。 「男同士だからいいじゃないの。水くさいわね。私のこと女だと思っているのねぇ。時と場合によっては使い分けできるのよ。・・・わかったわ。信じてあげるわ。調べてあげるけど、私には嘘つかないでね。いいこと。約束してよぅ。」 「あぁ。約束する。だから頼む。」と言い終わると龍一はふっとため息をつき、電話を耳から外して佐藤の回答を待った。 1分も経たないうちに佐藤友康の声が聞こえた。「面談サポートシステムは電算設計部が開発したものらしいわ。」 「電算設計部と言えばミニパコムを設計している所と同じじゃないか。」 「その通りよ。電算設計部にいる友達の奈津実に頼んでミニパコムのデータベースリストを手に入れたわ。どのデータベースがお望みかしら。ついでにパスワードリストも内緒で手に入れておいたわよ。リストが長いから電子メールかFAXで送ってあげるわ。どっちがいいの?」 「急いでいるんだ。口で言って欲しいんだ。」 「ねぇ。ほんとに何処にいるの? 嫌よ。変な女に掴まっているんじゃないのぅ。もう。・・・じゃあ。言うから控えてね。」 さすがリストマニアの佐藤だけあって情報の入手は早い。もしデータベースのパスワード取得を正規の手続きで申請したら早くても丸々1日は待たされただろう。パスワードは何でも有りの役員のものを選び、そのパスワードを尋ねた。 「パスワードね。・・・あっ、ごめん。係長のご指名だわ。ちょっと相手してくるわ。また後でね。」とそこまでで電話は佐藤から一方的に途絶えた。 龍一は応接室を飛び出すと講習会場へ急いだ。会場では講習が続いていた。そして会場の後ろで島本真知子も講習の様子を眺めていた。 龍一は止まったままのミニパコムに向かうとデータベースの中からテクニカルサービス用データベースを選び、アドレスを入力した。だがデータベースが開く途中で、やはりパスワードを要求してきた。 教壇から由美子の声が聞こえた。「それでは今からクラスター接続の実習をしてみましょう。」由美子は信頼しきった様子で龍一の顔を見た。すると受講生達の目も由美子に習って一斉に後ろを振り向き龍一に注がれた。 しかし龍一の手は止まったままだった。パスワードがわからない。自分のパスワードを打ち込んでみてもビクとも反応しない。思いつくままに打ち込もうとしても何もヒントが浮かんでこない。彼らの目はキーボードに置かれた龍一の手の動きに集まった。何かキーを打ち込まなければと思えば思うほど額から首筋へ大粒の油汗が流れていった。 ふと妹の麗子のパスワードを思い出した。佐藤が最後に言った「パスワードね。」は「PASSWORDね。」の意味だろうか。龍一は英字スペルを入力した。 するとモニター画面が動いた。テクニカルサービスの検索が可能になった。ミニパコムタイプ2のクラスター接続方法について問い合わせると、その説明が画面一杯に表示された。画面に「接続されている貴方のミニパコムを全てクラスター接続に設定しますか。」と表示が出た。イエスと入力した。 突然、会場の全てのミニパコムが次々と動き始め、二十六台のマシンが1つのマシンになった。マスターコントロール用のミニパコムの画面に「マイクロプロセッサ トータル1300セット スタンバイOK。」と表示された。由美子が教壇の上からさりげなくVサインを出した。 龍一も思わずVサインを送った。今までの緊張が一気にほぐれ、首筋まで流れていた汗はいつのまにか止まった。 龍一は実習が終わるまで応接室で一人、時間待ちしていると島本真知子が女性社員を1人連れてやってきた。「お願いがあるのですが、彼女のコンピュータの具合が悪いので見てくれませんでしょうか。」 どうやら真知子はあちこちに龍一のことを宣伝してきたようだった。時間待ちしのぎに修理に応じることにした。頼みに来た藤宮香織という女はハーフのように彫りの深い顔立ちが印象的な美人で白いジャケットが良く似合っていた。 藤宮香織のデスクにあるコンピュータの端末に案内されてみると端末の周囲はデコレーションの限りを尽くしていた。テディベアや北海道土産らしいラベンダーのポプリで埋まり、キーボードのキーの一つ一つの上には爪の先ほどの小さな雛人形が段飾りのようにたくさん並んでいた。画面のガラス面は黒板代わりに仕事のメモが貼られ、マウスはミッキーマウスのぬいぐるみを着せられて全く役に立たない状態だった。そこにコンピュータがあるのがわからないほどだった。 「普段はこの端末を使わないのですか。」と龍一は藤宮香織に尋ねた。 「電算部の方に前から修理をお願いしているのですが、なかなか修理に来ていただけなくて。今日は隣の人の端末を借りるために休日出勤しているのです。」 龍一は飾り物をどかせて調べたところ、プログラムの内容が壊れていることがわかった。手直しするとすぐに動くようになった。 端末が使えるようになったので飾り物を片付けることになったが、むしろこの方がプログラムの復旧より大変だった。キーボードの上の雛人形を一体ずつ小箱にしまう作業はまるで雛祭りの後の片付けのようだった。 「香織ちゃん。お雛様いつまでも飾っておくとお嫁に行けなくなっちゃうわよ。」と島本真知子は人形を仕舞いながら言った。 するとそれを聞いた若い男子社員がチャチャを入れた。「香織ちゃんにはそんな心配はぜんぜーんいらないさ。もうご予約がバッチリ入っているからね。他人の心配より真知子ちゃんの方こそ、家のお雛様は片付けてあるのかい。もう5月だぜ。」 「はいはい。とっくに片付けましたよ。だけど何で縁がないのかしら。私に問題はないはずなのに。誰か私と一緒にお雛様を引き受けてくれる殿方はいないのかしら。」 「おいおい、小姑付きのお雛様かよ。それって結構ホラーっぽいぜ。まぁ、お雛様だけなら引き取ってもいいぜ。」 「フン! 小姑で悪かったね。何もあげないよ。」と真知子は肘鉄を食らわした。 その後も龍一がREX社のエンジニアだと聞きつけてコンピュータを調べてほしいと頼みにくる人、操作について質問に来る人が続いた。 会社のあちこちへ呼ばれて忙しくなったが直ると皆、嬉しそうな顔を見せてくれるのが龍一を嬉しい気分にさせた。そして依頼者が絶えることなく続き、最後の何人かは島本真知子が断るほど盛況だった。龍一はこの会社の電算部の普段の社内サービスが相当悪いように思えた。 修理が終わり応接室に戻ると美並由美子が講習を終えて先に待っていた。応接室には他に島本真知子、電算部係長の鹿島哲也と、修理を依頼した藤宮香織ら数人の社員が座っていた。彼らは由美子と龍一に講習と修理の礼を述べ、労をねぎらった。 電算部の実質的な責任者である鹿島係長も龍一に礼を述べた。「早瀬さん。社内のコンピュータまで修理していただいたそうで恐縮です。いや、電算部は今ですね、新しい基幹システムの導入にかかりっきりで職場のコンピュータのメンテナンスに手が回らなくって。じつは今度、当社では主力のマーケティング業務の・・・」鹿島は電算部がいかに忙しくて職場のコンピュータの面倒まで手が回らないかと延々と説明した。 「鹿島係長、そんな立派なシステム作ったって、私達の端末がダウンしていたら何処につなぐつもりでいたんですか。ねぇ、そうでしょ。」とボス格の女性社員が言うとそれを合図に他の女性社員達も口々に不満を訴えた。 「私の所なんか端末が連休前からダウンしちゃって、電算部に修理頼んでいるけれど全然来てくれないのよね。今、隣の部の端末を借りて、しのいでいるけれど全然仕事にならないのよ。今日だって端末を借りるために休日出勤しているのよ。」 「私だってそうなのよ。ダウンしているから仕事が溜っちゃって。連休中にどこかへ遊びに行こうと思っていたのにフィになったわ。」 鹿島は女性軍の攻勢に反論した。「いやいや、今の開発のメドがつき次第、皆さんのコンピュータを真っ先にメンテナンスしたいと、かねがね心に留めていたのですよ。そうだったよね、藤宮さん。」と鹿島はソファーの隅に座っていた藤宮香織に向かって同意を求めた。 しかし藤宮香織が返事を躊躇していると中央に座ったボス格の女が言った。「あら、鹿島係長は私たちのことは放っといて、お熱い藤宮さんとだけ約束していたのねぇ。」 「いや、そんな意味ではないですよ。誤解ですよ。」と鹿島は否定した。 「でもね。藤宮さんもこれを機会に鹿島係長よりもっと親切な早瀬さんの方へ鞍替えした方が良くってよ。おほほっほ。」とボスの女がかん高い笑い声を放つと女性社員達も一様に冷笑したが、当の藤宮香織は一言も言わずに下を向いた。 ボスに従う女性社員達の皮肉はとどまることを知らずに続いた。「早瀬さんはさすがREX社の方よね。ほんの数時間で私たちのコンピュータを全部直してしまうのだから。うちの会社にもこんな頼もしいエンジニアはいないのかしら。・・・いるわけないわよね。ねえ鹿島係長。」と女性社員達の当て付けに鹿島の表情は次第に険しくなって口をつぐんでしまった。 「社外の人の前ですから内輪の話はそれ位にしてくださいね。」と島本真知子が皆を制したが鹿島はぶ然と腕組みをしたまま口を閉ざしていた。 龍一はふと、由美子の方を向くと彼女も忍し黙ったまま下を向いていた。講習を依頼されているだけなのに龍一が会社中のコンピュータ修理をやってしまったのは失敗だった。まったく余計なお世話をしてしまい、電算部の鹿島係長の面目を潰してしまったようだった。龍一は大切な取引先に恥をかかせて由美子に迷惑をかけてしまったことを後悔した。 島本真知子が面談サポートシステムを操作したらしく急に部屋が蒸し暑く不快になった。一人が席を立ったのを合図に続いて全員が席を立ち上がった。 島本真知子と由美子は明日の予定を話しながら最後に部屋を出ていった。二人は廊下を歩いていくと、うつむき加減にゆっくり歩いていく藤宮香織に後ろから追いついた。 真知子が藤宮香織の背中を軽く叩いて声をかけた。「香織ちゃん。どうしたの。元気ないじゃないの。」 「うん。私のことで鹿島係長ばかり責められてしまって。なのに何も言えなくて。」 「やっかみよ。あれは絶対にやっかみなのよ。うちのお局様達は香織ちゃんと鹿島さんの仲を知ったものだから妬いてんのよ。人が幸せになるのが面白くないのよ。いくらあせっているからって私はああいう風にはなりたくないわ。美並さん。そう思うでしょう。」と真知子は自信ありげに自説を説くと由美子にも同意を求めた。 「まぁ。そうでしょうね。」と由美子は当たり障りのない返事をした。 「ほら。だれだってそう思うもの。香織ちゃん。大丈夫よ。鹿島係長はそんな事で悩む人じゃないでしょう。それじゃ、お仕事がんばってね。」と真知子は言うと香織のオフィスの前で背中をポンと叩いて送り出した。 由美子は玄関ロビーで先に待っていた龍一に追いつくと会社を後にした。 |