第四章 静岡の蜜柑便り 三島駅へ続く道を早瀬龍一と美並由美子の二人はブラブラ歩いた。三島大社の境内に入ると福太郎餅ののれんがそよ風に揺れ、連休をのんびり過ごすカップルが陽差しを避けて赤い日傘の下でお茶を楽しんでいた。 境内を抜けると細く浅い水路が続き、透き通る富士の湧き水が清らかに流れていた。水路に沿った歩道には柳が続き、木の根元には色とりどりのパンジーが植えられていた。 歩道には道筋に沿って短歌が刻まれた石碑がいくつも建てられていた。その短歌には三島から望む富士山の美しさが詠われ、かつての東海道の宿場町として栄えた頃の名残を伝えていた。 「貴女に何も相談せずに出しゃばり、修理なんかしたため鹿島係長のメンツを潰してしまったようです。すみませんでした。」と龍一は歩みを止めて謝った。 「いいのよ。鹿島係長も修理の手間が省けたと思っているわよ。それより貴方がミニパコムをうまく接続していただいたお陰で実習も予定通り進み、そのうえ私達の評判も上がりました。本当にありがとうございました。」と由美子も礼を返したが、龍一にはどうしても建前としか思えなかった。 水路の川幅は急に広がり、大きく曲がる場所に白滝観音堂がひっそりとたたずんでいた。川辺の木立の陰で若いカップル達は寄り添い、あるいは読書を楽しむ人々の姿を見かけた。 龍一は言った。「みんな連休を楽しんでいるというのに受講生の人達は連休返上で大変ですね。」 受講する生徒達は普段、営業で忙しい社員達である。彼らは取引先が皆一斉に休む5月連休中ならゆっくり時間が取れるからと、今回の講習会は受講者達からのリクエストであった。つまり彼らにとって今がまとまった教育を受ける唯一のチャンスであった。 「それで貴女も彼らに付き合って連休返上で講師をしているわけですか。」と龍一は川縁に立ち止まって尋ねた。 「そう。明日、もう一日講習に付き合えば無事終了します。」 「すると今日は三島に泊まるのですか。」 「はい。ちょうど向こうの方に少し頭が見えるでしょう。あの白い建物が今日泊まるホテルです。」と由美子は川を背にして街並みの彼方を指した。 「せっかく三島に来られたのだから少し寄り道して行きませんか。」と由美子は近くの楽寿園という大きな公園へ寄ることを誘った。 由美子の気は重いはずなのに彼女が龍一に気を使って誘っているように思われた。龍一は由美子の気持ちを察して誘いに応じることにした。「いいですね、それにお腹も空いてきたし。天気も良いからお弁当買ってピクニックみたいに園内で食べませんか。」 二人で近くのコンビニエンスストアへ入り買い物をした。 買い物籠にお弁当や飲み物を入れてレジに行くと由美子は携帯電話の裏からFFカードを取り出した。FFカードをレジの機械に差し込み、差込口のすぐ上に並んでいるクレジットとマネーの選択ボタンのうち、マネーを選んだ。 するとボタンに触れた由美子の指紋とカード内のマイクロチップに登録された指紋を瞬時に照合して本人確認のOKサインが表示された。同時に店員側のモニター画面にはカードに登録された顔写真が立体的に映し出された。店員が確認ボタンをプッシュすると完了した。この間、たった2秒ですべての支払いが終わった。 このFFカードのFFとはフェイス、フィンガープリントの頭文字で、顔と指紋照合による総合電子マネーの略称だ。FFカードは二十一世紀に入って登場したクレジットカード、銀行キャシュカード、現金と同じ電子マネーなどが一つに統合されたものだ。FFカードを携帯電話の裏にあるカードホルダーに入れておくと、携帯電話の電話回線を使って銀行預金から電子マネーへ現金補充がその場で可能である。 今までにマイクロチップを組み込んだ高度なICカードが幾度も出現したが、悲しいことにことごとく失敗の歴史を積み重ねてきた。 高度の暗号技術、電子技術はエンジニアによって見出される。企業は新技術を自ら開発しモノマネでないことを示すために技術論文を学会などに発表することを奨励し、エンジニア達もまた自己の誇りとして論文発表に汗を注ぎ、あるいは先を争って特許申請する。 だがこれらは公開されるリスクが潜んでいる。これらの研究成果はデータベースとしてリストアップされるので偽造する側にとってリストを手に入れれば何処から盗めば良いか簡単に知ることができるのである。つまり暗号技術などは公開された途端、暗号技術でなくなるのだ。 しかしFFカードによる顔と指紋の照合システムが登場するとようやく偽造カードとの攻防に終止符を打つことができた。そしてFFカードの信頼性を利用した別の使われ方として身分証明書や印鑑代わりの電子承認にも活用されるようになってきた。 コンビニを出ると5月の陽差しは一層強くなり、汗ばむような陽気となった。互いにスーツの上着を手に持ち、龍一はネクタイ姿、由美子はハイヒールで、およそピクニックとは場違いの格好で楽寿園へ向かった。 楽寿園は面積六十七万平方メートルに及ぶ大きな公園であり、湧き水を利用した池や庭園と動物園がある。園内へ入ると鬱蒼とした緑の大木が生い茂り、少しひんやりとした感じだった。 遊歩道を辿って行くと、干上がった小浜池の岸辺に明治時代に建てられた小松宮親王の別邸があった。建物内の襖一面にかつてこの池に水鳥達が遊んでいた頃をしのばせる日本画が描かれている。 「今は水がないけれど、昔は富士の湧き水を満々とたたえた池だったそうよ。年々周辺の市街化が進んで地下水の水位が下がってしまったそうです。」と由美子は以前に来たことがあるらしく、要所要所で説明を加えた。 別邸の縁側から見える景観は池の底を覆っていた黒い溶岩が枯山水を思わせ、浮き島は小山となって池の中に突き出ていた。龍一はこんな所にも自然の美しさが消えゆくのを感じた。 小浜池を抜けて奥へたどると、ようやく水をたたえた池に出た。池にはピンクのフラミンゴが群れ、子ども達がはしゃぎながら通り過ぎて行った。二人は木陰のベンチに腰を降ろすとお弁当を広げた。木漏れ陽が揺れながら由美子の顔に当たるとネックレスのビーンズが時々キラリと光っていた。 お弁当を一通り食べた後、由美子がおやつに買ってきたものを取り出した。 「さっき、コンビニで珍しいものを見つけたのよ。蜜柑便りというものだけど容器が変わっているの。ほら、ジュースなのに蜜柑箱に入っているでしょう。」 オレンジ色をしたミニチュアの蜜柑箱の蓋を開くと、蜜柑の房の形をしたオレンジ色の三日月様のものが沢山入っていた。一見キャンデーが入っているようだった。 「この房にジュースが入っているかしら。どう食べてみて。いや、ジュースだから飲んでみてかしら。」 龍一が房を一つ口に入れると中で薄い房皮がさっと破れてジュースが口の中に広がった。龍一は本物の蜜柑のような意外な感触にびっくりした顔をして言った。「何とも言えない不思議な感じだ。こんな形のジュースは横浜では見たことないな。」 「これは多分、静岡県でテスト販売している商品かもしれないわ。」と由美子は推測した。 「どうして東京でテストしないのかな。東京の方が珍しもの好きが多いから売れると思うのにな。」 「どの位売れるのか予測つかない時は静岡県でのテスト販売の反応を見てから大都市や全国での販売体制の準備をするのよ。」 「なぜテストが静岡県なの?」 由美子もジュースの房を味見しながら答えた。「静岡県はマーケティングリサーチにとって意味ある場所なのです。それは人口密度や平均収入などが全国平均にとっても近い県だから静岡は日本の平均値そのものと見なせるわけです。東海センサス社がこの静岡県内にあるのはそういう理由らしいわ。」 「と言うことは東海センサス社はマーケティングリサーチの会社ということか。東海センサス社に行った時、一体何を作っている会社なのか、さっぱり見当がつかなかったなぁ。ところでマーケティングリサーチって、お客さんにアンケートでもして情報収集することでしょ?」と龍一が質問した。 「たまには請け負うこともあるけれど、今はほとんどアンケートはしていないようです。」 アンケートは直接、お客さんの声が聞けるものの回収率が非常に低い。例えば雑誌の読者アンケートの場合では普通は1,2パーセント程度しか戻ってこない。 景品付きのアンケートにすると回収率はぐっと良くなるが、景品コストがバカにならないし、景品欲しさに体裁の良いことしか答えないことも考えられる。景品付きのアンケートをする時はむしろ景品の商品の宣伝をしたい時に行うことがある。 由美子は蜜柑箱の中の最後の一房を龍一に渡すと空箱を片づけながら言った。「例えばブライダル関連の会社が適齢期の男女に結婚の予定がありますかって質問したらどう答えると思いますか?」 「そうだな。予定があると言うと売り込みがうるさそうだから嘘を言うかもしれないな。いや見栄張って婚約しているって言うかもしれないかな。しかし質問する人が美人だったら相手がいないって言うよ、きっと。」 「そういう貴方みたいな人もいるから、もっと客観的な情報でないと困るので別の方法で情報収集しているの。」 「別の方法って?」 「婚約している人を知りたいなら結婚式場の予約情報を手に入れれば、アンケートよりも確実でしょう。そういう予約情報をブライダル関連会社へ提供するような具合に、個人情報サービスが今の東海センサス社の仕事なのです。」 国内の民間企業で個人情報がもっとも集まっているのはクレジット会社、銀行などの金融機関などの業界団体が作る4大信用情報機関である。日本最大手の個人情報量を誇る信販系の株式会社シー・アイ・シー。2番手は銀行系の全国銀行個人信用情報センター。3番手以降は消費者金融等などの団体による株式会社日本情報センター、株式会社セントラル・コミュニケーション・ビューロである。 これらの団体が扱うクレジット、ローンの範囲は銀行ローン、サラリーマン金融から、デパート系のカード、自動車ローンなどまで広くカバーしている。 消費者がカードなどの申し込みを行うと、これら信用情報機関に個人情報が登録される。それは申込書に記載された住所、氏名、電話番号、家族、住居不動産から勤務先、年収などの個人情報が記録される。そして滞納、破産などのトラブルを起こすとブラックリストに乗ることになる。 それぞれの信用情報機関は相互に情報交流を行っているため一度ブラックリストに乗ると何処へ行っても新たな取引を拒否されてしまう可能性が高い。つまり一つの銀行でトラブルを起こすと他の銀行へ行ってもブラックリストが先回りしていることになる。 しかし、これら金融機関系で利用する個人情報はクレジット管理するだけなら足りるが、商品販売の情報量としてはまったく足りない。販売会社にとっては顧客の趣味嗜好、関心、商品購入歴、買い物エリアなども商品売り込みの情報として欲しい所だ。そのため販売会社は各社独自の個人情報データベースを作っている。 そのデータベースは購入の可能性の高い顧客を選び出してダイレクトメールを送るために使われることが多い。例えばデパートでは顧客が多く住む地域を割り出してダイレクトメール攻勢に利用したり、家電量販店では顧客の家電品の寿命を予測して新製品の売り込み活動に利用する。変わった所ではレンタルビデオ店のポルノの貸し出し記録がポルノビデオのダイレクトメールに利用されていることもある。 このように個人情報がもてはやされるようになったのは消費者の好みが多様化して画一的なサービスではもはや商品が売れない時代になったからである。そのため消費者一人一人に合わせた商品と販売方法が活発になってきた。これがワン・トウ・ワン・マーケティング、またはデータベース・マーケティングと言われる個人対応のマーケティング戦略である。 顧客のお誕生日を調べて花束を送るなどは一般小売店でもできる初歩的なワン・トウ・ワン・マーケティングの一例である。これらのサービスをするためには個人情報のデータベースがマーケティングに必須の武器となってきた。 ワン・トウ・ワン・マーケティング時代の波に乗って東海センサス社も個人情報のデータベース化を積極的に行い、業種を越えたデータ交換による膨大なデータ蓄積を行ってきた結果、ついに全国民をカバーして業界5番目の巨大信用情報機関として認められるようになった。 「日本に生まれた赤ちゃんは役所に出生届が届けられるよりも先に東海センサス社にキャッチされ、生きている限り一生追跡されるわ。あの会社の情報収集力は今までに類を見ないほどの徹底したものです。」と由美子は言った。 「えっ、役所よりも先に、どうしてそんな事ができるの?」龍一はあっけに取られた顔で由美子の顔を見た。 「だって産婦人科に入院するし、赤ちゃんの産着を用意したりするから簡単にわかるわ。その位のことがわからなければ粉ミルクや紙おむつの会社の要求に応えられないわ。初めての赤ちゃんにオロオロ心配している若いママ達へ、いち早くアドバイスしてあげるのもワン・トウ・ワン・マーケティングだから。」 龍一は東海センサスが個人情報をどういう方法で集めてくるのか興味が湧いた。 個人情報を集めるにはいくつか方法がある。自分の顧客から直接情報を集める方法の他に社外から集める方法がある。だれでもできるのが、官庁のデータを手に入れる方法である。住民票は手数料さえ払えば一部の都市を除き、ダイレクトメールの目的であっても申請すれば大量閲覧が可能である。 あるいは個人情報を直接買うか、借りることである。結婚を予定している顧客の情報が欲しいなら、名簿屋と呼ばれる業者からデータを買う方法がある。名簿屋には大学卒業名簿、通販顧客名簿、ゴルフ会員名簿、医師など職業別名簿、XX購入者名簿のような名簿が多数揃っている。名簿屋ではそれら名簿をデータベース化して検索サービスも行っているところすらある。 しかし闇の世界では情報売買が犯罪につながるケースがある。不倫相手がいくら身元を隠しても携帯電話の番号さえわかれば、その番号を元に検索サービスによって相手の住所、名前を探し出すことができる。そこで知った身元をエサに相手を脅す事件すら発生している。あるいは会社の顧客リストを無断で持ち出して売り飛ばす窃盗まがいの事件もある。 龍一は今朝のテレビで見た病院のカルテのデータを盗んだ男のニュースを思い出して言った。「もし買ったデータが盗まれたものだったら犯罪を手助けしていることになると思うが?」 「東海センサス社は巷の名簿屋とは違うわ。決して情報を買うこともしないし、どんなにお金を積まれたって個人とは取引しません。必ず会社間同士のデータ交換によって収集しているのです。」 データ交換、つまり東海センサス社は金を出さなくても取引先のデータを吸い取る方法を作り上げていることになる。それはどういう方法なのだろうか。 龍一の疑問に由美子は答えた。「最近は東海センサス社のデータ交換を行う強力な道具が現れたのよ。それはあのFFカードなの。」 「さっきコンビニで使ったあれでしょ。」 「そう、FFカードは現金の代わりに使われるようになったでしょ。だからほぼ全ての買い物について知ることができるようになったから、マーケティングリサーチがとってもやりやすくなりました。」 「誰が何を買っているかすべて知られているなら他人の私生活がみんなお見通しじゃないか。」 「私生活という言葉は刺激的ね。ライフスタイルと言えば問題ないわ。客ごとのブランド趣味、洋服の好み、家の中の雰囲気までも想像つくわ。」 しかし由美子も知らないFFカードの本当の実力は正に私生活そのものを覗き見ることができるものだ。例えば人の悩みすら推定可能だ。どこの病院でもカルテは機密扱いされているが薬局から買い上げた購入品名から疾病を推定できてしまう。つまり人の内面をお金の動きで推定することができるのだ。 FFカードからわかるデータはFFカードで支払を受けた店にとっては断片的な情報でしかない。ちょうどジグゾーパズルの1枚のチップのようなものだ。 色々な店のFFカードの支払データをつなぎ合わせると、その顧客の私生活をはっきり描いたジグゾーパズルが完成する。それは点在する薬局のデータをつなぎ合わせれば本人や家族が抱えている全ての持病がわかるだろう。 医院と調剤薬局の分離が政府から奨励され、別会計になっていることもFFカードに追い風だ。カルテなど盗む必要などないのである。 個々の販売店は東海センサス社にデータを全て提供すれば、その見返りに完成したジグゾーパズルを見ることができるのである。つまり販売店と東海センサス社のギブ・アンド・テイクの関係によって東海センサス社に次々と情報が集中する仕組みを築き上げた。 あとは東海センサス社が探し出した顧客に薬局は積極的にアドバイスを行い、ケア用品などを勧めれば良いのである。患者に何も説明しようとしない医者に代わって薬局が情報発信を担い、顧客の不安を解消するサービスが顧客の信頼を勝ち得るのである。 それは販売店にとっても確かな顧客にだけコストをかければ良いから手間をかけても無駄がないのだ。 「そんなプライバシーが取引されていて顧客からクレームが付かないのですか。」龍一はプライバシーを丸裸にされていながら誰も気が付かないのを不思議に思った。 「ダイレクトメールが増えることに少しクレームが出る程度だから、大して問題にならないと聞きました。」 個人情報の取引自体は合法的であり、顧客には取引されていること自体がわからないからクレームの付けようがないのである。顧客自身が個人情報の存在に気が付くのは実害が出て初めて知るのが実態である。 実害としては個人データが他人と入れ違ってしまい、お金を借りようとしたら断られたという例があった。1996年に東京のある女性が結婚して改姓した結果、ブラックリストに載った多重債務者の埼玉の別の女性と間違われてクレジット契約を拒否される事件が起こった。原因は改姓によって同姓同名のうえ、誕生日まで同じという偶然が重なったためだった。 「でも東海センサス社なら、そのような問題は起こらないはずよ。あの会社はデータ管理が進んでいるから。そして今、他社がまだ何処も手をつけていないような画期的なシステムを導入しようとしています。」 由美子が口を滑らせた画期的なシステムとは何か興味がわいた。しかし龍一がそれをを尋ねたが由美子は口をつぐんだ。「ごめんなさい。これ以上詳しい事は機密に触れることだから口外することは禁じられているの。」 龍一は内情を隠されるほどに、その得体の知れぬ力が気にかかった。それと同時に高度情報化社会の到来というマスコミの謳い文句が本当に意味する現実を龍一は知った。 龍一は三島駅で由美子と別れると一人横浜へ帰った。龍一は西日の差す列車の窓から金色に輝く雲が南の空から広がっていくのを眺めながら由美子のことを想った。 昨日からの由美子との出会い、そして今日の三島での一日を振り返った。龍一は由美子のことを想う度に心の中に占める彼女の存在があの金色に輝く太陽のように大きくなってゆくのを感じた。 |