第五章 錬金術の王レックス・アルケィミスト 翌朝、龍一はいつものようにベルの音で起こされた。ベッドから手を延ばして床の目覚まし時計を手探りで止めた。止めてもなおベルの音がした。 鳴っていたのはテレビのリモコンだった。暗闇の中で手探りでリモコンを電話に切り替えると妹の麗子の突き抜けるような声が聞こえた。「おっはよぅぅぅ。お兄ちゃん起きたぁ。すぐテレビ電話のスイッチを入れてみてぇ。」 龍一は言われるまま、薄暗い部屋の中でテレビの電話カメラをオンにした。するとテレビの画面に見知らぬ若い女が映った。「麗子さんのお兄さんですね。初めまして。岩下雪江です。昨日はお世話になりました。」 雪江が言い終わると麗子が横から画面に映った。「雪江先輩がもうすぐ、ここで面接なのよ。彼女の映りはどうかな。ねえ。面接の予行練習したいから、お兄ちゃんが面接のテストをしてあげてよ。ねっ。」 「どうして起き抜けから面接しなければならないのさ。それに今日も会社にも行かなければならないから忙しいんだよ。」と龍一は文句を言った。 「だって今日は連休じゃなのぅ?」 「お兄ちゃんの会社はね。日曜日以外は休みなんかないのさ。蟻とキリギリスを知ってるだろう。その蟻ばっかりが巣食っている会社なんだよ。」 「そんなろくでもない会社なんか、蟻が一匹ぐらい遅れて行ったってわからないでしょ。ねぇ、もう六時半よ。七時には面接が始まるの知っているでしょ。急いでテストしてあげてよ。」 「わかったよ。少しだけだぞ。いいね。・・・それではね。先ずお名前はぁ。英語で答えてくださいよぅ。」と龍一は仕方なしにぞんざいな態度で質問した。 画面には再び雪江の緊張した顔が映った。「マ、マイネーム イズ ユキエ、イワシタ。」 「ちょっと顔の表情が堅いな。それじゃ受けが悪いよ。もっとリラックスしてね。」 龍一は雪江のガチガチに緊張した様子が心配になった。 「それでは次の質問です。貴女のお国はどこですかぁ。」 「信州。あらやだっ! 間違えました。ジャパンです。」 相変わらず雪江の表情は堅く、ぎこちなかった。 「落ち着いて。もっと笑顔でね。肩に力が入りすぎていますよ。もっと体をリラックスさせてごらん。」 龍一の勧めで雪江は肩を回してほぐしたが、いっこうに顔の緊張が取れず、英語の発音は緊張のあまりギクシャクしていた。 「そんなにガチガチじゃ何を言っているのかわからないよ。」と龍一はあきれた口調で言った。 麗子が雪江の隣に映ると助言した。「お兄ちゃんの部屋が暗くてさ。きっとお兄ちゃんの顔が怖いのよ。それで彼女の表情が堅くなるからだと思うわ。部屋の明りを点けてみてよ。」 龍一はテレビ電話の前から立ち上がると部屋の明りのスイッチを押した。すると突然麗子と雪江が笑い出した。麗子は画面の中で笑い転げた。 龍一は何がおかしいのかわからず、呆然と立ったままテレビ電話のカメラを見た。 「お兄ちゃん。やだぁ。前、開いているぅ。妹として恥ずかしいわ。」 龍一はあわてて後ろを向き、パジャマのズボンの前を見てア然とした。 パジャマの前を整えて振り返えると雪江は笑い涙を拭いていた。龍一は照れ隠しに言った。「雪江さん。その笑顔がいいですよ。その笑顔で行きましょうね。」 思わぬ笑いが効を奏して雪江の表情がほぐれ、テストはまずまずの出来になった。 龍一は朝の支度を終え玄関を出ようとした時、まもなく七時になろうとしていた。雪江の面接が気に掛かり麗子と雪江のいる居間を覗いた。居間の中で麗子が付き人のように岩下雪江のリクルートスーツの襟を直していた。そして雪江の前にはテレビの上についた電話カメラが対峙していた。そのテレビの画面にはまもなくニューヨークからの面接官の映像が映るのだろう。 龍一は雪江と麗子に向かって言付けた。「今日の面接うまくいったら僕の会社に電話してくれよ。必ずだよ。」 麗子と雪江はさっきと同じ笑顔で指でVサインを作ってみせた。龍一もVサインを返すとさっそうと玄関を出た。 後ろ手に玄関ドアーを閉めて立ち止まると、スーツのズボンの前を念を入れて確認した。 会社に出ると龍一の所属する並列COM応用開発部は連休中だが今日も半数近くが出勤していた。まるで連休など無いような錯覚を受ける風景だ。 デスクのミニパコムにスイッチを入れると最初に電子メールをチェックした。最初のメールはメンタルヘルスの講習会のお知らせだった。精神に異常をきたした人間が自分で異常に気づいて講習を受けるものだろうか。講習をしている暇があったら休日返上で働かせることを止めさせた方がクスリになると思った。 読み飛ばして次のメールを開くと電子社内報だった。それは新人の職場配属1か月目の感想をインタビューしてデジタル録画した内容だった。まだリクルートスーツのままの新人の女性社員がカチカチになって先輩社員のインタビューを受けている様子は動画なのにまるで静止画のようだった。 龍一は画面を見ながら今朝の岩下雪江を思い出した。彼女の面接の結果が気に掛かった。連絡をくれるように頼んできたつもりだが、いつまでも電話がなく心配になった。ミニパコムに一体化されている受話器を意味もなく取り上げては、ハッとして元に戻した。 上司の木下係長がそんな早瀬龍一の様子に感づいて小声で尋ねた。「早瀬君ね。さっきから電話ばかり気にしているようだけれど、どうかしたの? 彼女から電話でも掛かってくるのかい?」 龍一は無言で手を振りノーのサインを示したが、横で見ていた同僚の佐藤友康は小指を立てて恋人がいるサインを木下係長に送った。 「ほんとかっ! 早瀬に彼女でもできたのか。」と木下係長はうっかり大声で言ってしまった。すると周りの社員が手を止めて龍一の方を一斉に向いた。女子社員の顔が途端に好奇の顔に変わりすぐに隣同士でヒソヒソ話を始めた。情報通の佐藤を信じない社員はいない。 木下は声を張り上げて失敗したと思ったのか、片手で拝むように無言で龍一に詫びると仕様書を広げて顔を隠した。 しばらくしてミニパコムがテレビ会議の招集時刻を知らせた。木下係長が仕様書とタバコを持って隣のパーティションに移ると、佐藤も飲みかけのコーヒーカップを持って木下係長の後を追って移動した。龍一達数人もゾロゾロと移動を始めた。 会議テーブルの中央には全方位カメラが置かれ、パーティションの壁スクリーンには自宅の書斎にいる等身大の課長が投影され、まるでそこに一緒にいるようだった。 各人の前には通称、灰皿マイクと呼ばれている灰皿とワイヤレスマイクが一つにセットになったものが置かれた。木下係長は仕様書をテーブルの上に広げると早速、タバコを吸い始めた。彼は自由にタバコが吸えるこの灰皿マイクが大のお気に入りだ。画面の中の課長の音頭で会議が始まった。 会議の最中にテーブルの電話が鳴った。いつもは他人の電話など一度も取り次いだこともない木下係長が珍しくサッと取った。「早瀬龍一君。外線です。どうぞ。」と木下係長は口元を緩ませて龍一に取り次いだ。 龍一は受話器を受け取り席を立つと会議テーブルに背を向けた。岩下雪江か、あるいは妹の麗子からの電話と思ったが違う声だった。「もしもし、早瀬さんですか。今日も出勤されてて助かったわ。東海センサスの島本です。実は困ったことがあるのですけれど、美並由美子さんの行方がわからないのです。」 島本真知子の話では今日の講習会の前に美並由美子と東海センサスの電算部との打ち合わせをする予定だった。しかし朝九時の約束に1時間近く過ぎても由美子が現れず、行方を探して龍一に問い合わせてきたのだった。 「昨日三島で別れたきり、後の予定のことは何も聞かされていませんでした。」と龍一は小声で返事をした。 「そうですか。彼女の会社のベイシティシステム社にも電話してみたのですが、今日は連休に入っているらしく何も応答がありませんでした。宿泊先かどこか行き先に心当たりがありませんでしょうか。」と真知子は落胆したような声で言った。 「そういえば昨日、帰り道で彼女が遠くに見えるホテルを指さして、あのホテルに泊まるつもりだと教えてくれました。」 「よかったわ。ホテルをご存知なのですね。何という所でしょうか。」と真知子の声に熱がこもった。 「ホテルの名前はわかりません。駅への帰り道に見えるようなホテルはありませんか。」 「うぅん、わからないわ。いくつもホテルがあるし。どこかしら。三島も広いから。」 「それじゃ、今から僕がそこへ行ってホテルを探しましょうか。昨日、歩いた道はだいたい覚えているから見つかると思います。」 由美子は鹿島係長のメンツを潰したことを悩んでどこかへ行ってしまったのだろうか。しかし東海センサス社に出向かなければもっと迷惑かけるのだから、そんな事ではないはずだ。もっと他の理由なのだろうか。あるいはホテルでなにか問題が起きたのだろうか。由美子の身が心配になった。 電話を終えて会議テーブルへ顔を向けると壁の画面にはズームアップした龍一の顔が映っていた。灰皿マイクで声もズームアップされていたらしい。カメラには少しでも声がする方向を自動追尾する機能があったことを思い出した。皆、シーンとして龍一の会話に耳を傾けていたようだ。 課長が咳払いするとカメラは再び課長の顔へ切り替わった。課長は会議に誰も身が入らない様子を察すると休憩を伝えた。 隣の佐藤友康が自分の灰皿マイクのスイッチを切ると龍一に肩を寄せた。佐藤は小指を立てて持ったコーヒーカップを龍一の鼻先に突きつけると耳元でささやいた。「早瀬ちゃん、どうなのよ。」 「コーヒーのお代わりですか。」と龍一が答えた。 佐藤は小指を龍一の鼻の穴に突っ込むと言った。「このタコ。女よ。オ、ン、ナ。ねぇ、今の電話はそうなんでしょ。昨日の風邪なんて嘘なんでしょ。どこかの女に掴まっていたのでしょ。」 「本当に風邪ですよ。」 「嘘っ。鼻ん中、乾いてるわよ。早瀬ちゃんは人がいいからさ。つまらない女に引っかかるのが心配なのよ。貴方には幸せになって欲しいのよ。」 「ぐしゅ。そういう関係の人ではないですよ。」と龍一は佐藤の小指を鼻からどけると文句も言わずに答えた。 「嘘つかないで。今からホテルでどうのこうのって、女とヒソヒソとお約束をしていたでしょ。少し聞こえたわよ。」と佐藤がまた小指を鼻に突っ込もうとしたので龍一は咄嗟にかわした。 「やっぱり、コーヒーのお代わりをお持ちしますよ。」と龍一は言い、佐藤のカップを強引に取るとコーヒーサーバーの方へ席を立った。 龍一はコーヒーサーバーのスイッチを押しながら、ふと困った。今、会議を抜ける理由に迷った。会議をわざわざ龍一の都合に合わせて変更したのに会議途中でまた休むとはとても言えない状況だ。おまけに今出かけたら佐藤に昼間から女とホテルに行くと思われてしまうかもしれない。新製品開発の納期が逼迫しており同僚達は残業続きで疲れきった顔をしている。彼らに知れたら袋叩きにあうだろう。 龍一は会議が始まっても頭の中は美並由美子のことが気に掛かり、うわの空だった。そしていつまでもテレビ会議は終わる気配がなかった。 龍一へまた電話が掛かってきた。「****・・・。」 「おはようございます。REXの並列COM応用開発部の早瀬です。はい。いつもお世話になっております。」「****・・・。」 「例の件ですね。やはりうまく行きませんでしたか。」「****・・・。」 「よろしかったらもう一度、テストしてみましょうか。」 龍一は電話を置くと木下係長に言った。 「係長。納入した開発品の具合が悪いようなので至急見に行ってきます。よろしいでしょうか。」 龍一は会社のエレベータに飛び乗るとフッと溜め息をつき、額にうっすらと滲んだ汗に気が付いた。降りていくエレベータの中で龍一は心の中で木下係長や同僚達に詫びると、そのまま三島へ向かった。 一方、龍一に電話を掛けた妹の早瀬麗子は首をかしげながら電話を置いた。そばで岩下雪江が尋ねた。「どうしたの。麗子ちゃん。お兄さんは何か言っていたの?」 「雪江先輩が面接でやっぱり上がってしまったから少し心配だと言ったら、お兄ちゃんがもう一度テストしてみましょうかって言うのよ。もう面接終わってしまったのに変でしょう。お兄ちゃん今朝、アレを見られちゃってから頭がおかしくなったみたいね。」 「やっぱり、本人にとっては、ああいうのってショックが大きいのよね。でも私は好きだけどね。ウッフフッ。」と雪江は股間に手を当てて部屋の中をピョンピョン跳ねて真似した。 龍一は三島へ到着するとすぐに美並由美子の泊まったホテルを探しに出かけた。昨日、彼女と歩いた道を思い出しながら道をたどった。 しばらくして由美子がホテルを指さした場所に到着した。それは昨日の風景と同じく道の彼方に見える街並みの間に白い建物が建っていた。その白い建物めざして、あちこちの角を曲がりながらホテルの前へ出てきた。それは5階建てのこじんまりとしたビジネスホテルで、ホテルの名はフォレストビューホテルだった。 玄関へ入るとロビーの床や壁は白く光り、中央には極楽鳥花が飾られ百合の花がほのかな香りを漂わせていた。 揃いの黒い背広を着たフロント係の男に由美子が投宿しているかどうかを尋ねた。男はコンピュータ端末を操作してすぐに答えた。「はい。ツインをご利用の美並由美子様でございますね。」 ツイン? 由美子はツインに泊まっていたのか。と龍一は思いがけない事実に意表を突かれた。モニター画面を覗くと同宿者の欄は空白のままになっていた。 「お客様はお連れ様でございますか。美並様は昨夜から外出されたまま今朝のチェックアウトのお時間になってもお出でにならないので心配しておりました。」 「そうでしたか。美並が何も連絡せず、心配をかけしました。実はその部屋を引き続き連泊させてもらいたいのですが。」と龍一は男に頼んだ 男は端末を再び操作すると言った。「申し訳ございません。あいにく今日は団体の予約があり満室でございます。連休中は予約のお客様が多いものですから。」 龍一は部屋の時間延長を頼み込むと午後二時までとの約束でOKが出た。 フロント係からキーを受け取ると5階の部屋へ急いだ。部屋に入ると誰もおらず、窓には厚いカーテンが引かれていた。 カーテンを開けるとまばゆい陽光が部屋いっぱいに差し込んだ。昨夜、三島には雨でも降ったのだろうか。窓ガラスに残る水滴がクリスタルのように光を反射していた。 ベッドカバーは皺一つなくベッドメイキングされたままの状態で、寝た形跡はまったくなかった。多分、フロント係が言うように昨夜から外へ出かけたままのようだった。 ベッドの上にはアタッシュケースが置かれ、デスク脇のコンセントにはバインドコンピュータの電源コードが充電のため入っていた。アタッシュケースを開けると講習用テキストと思われるコピーがあるだけだった。 次にバインドコンピュータを開いてみた。バインドコンピュータはバインダーのような形をした携帯コンピュータで、中にはキーボード、モニター画面やノート用紙がページのようにバインドされており、折り畳まれたモニター画面は拡げるとA3サイズにもなるものだ。 バインドの中のノートの紙をめくってみた。しかし内容は仕事上のメモばかりで何も手がかりはなかった。そこで充電中のバインドコンピュータの電源を入れてみた。 モニター画面に講習用テキストと同じ資料が現れた。しかし由美子の行き先を示す手がかりははなかった。 窓の外を見渡すと愛鷹山越しに富士の峰が天空にそびえ立っていた。しかし山頂付近は薄雲に覆われベールを被っているようだった。薄雲の彼方の遠い空を眺めて由美子の行方を案じた。 龍一はもう一度バインドコンピュータの画面に向き直ると他のメニューを探した。 画面の中に住所録のアイコンを見つけた。アイコンに触れるとアイウエオ順に名前が画面に映し出された。ほとんどが取引先の会社名だった。知っている名前を順に探して画面を追った。 サ行まで進んだ時、ふと、通り過ぎた名前に引っ掛かるものを感じた。由美子から貰った小袋の表に貼られた桜の花と咲の名前を思い出した。もう一度、画面を辿ってゆくと桜川咲の名に目が止まった。由美子の友達のはずだ。危うく見落とす所だった。 バインドコンピュータを窓際の衛星通信を受信しやすい場所に置き直すとテレビ電話のカメラのスイッチを入れた。それから桜川咲の名前に指を触れると自動的に電話がかかった。 「はぁぃ! 咲でぇすぅ。」といきなりテンションの高い声が返ってきた。しかし桜川咲の方は電話カメラのスイッチを入れていないらしく彼女の姿は映らない。龍一の顔が一方的に送信された。 「美並由美子さんとはお知り合いだと思って電話を差し上げたのですが。」 「由美子とは知り合いだけど君とは会ったことないよね。何かしら。もしかしてマルチ商法? でなければ資格商法? それとも小豆相場の勧誘かしら。咲の名前をどこで調べてきたか知らないけれど、物を売りつけるのはお断わりよ。羽毛布団ならいらないわ。もうすぐ夏よ。」 「羽毛布団ではなくて。じつは美並さんの身の周りに関することをお聞きしたいのですが。」 「なぁんだ。3サイズのことね。それなら由美子より咲のデータの方がグーよ。聞いてみたい?」 龍一はうっかりお願いしてしまいそうになったが、話を戻して由美子の行方を尋ねてみた。事情を説明し終えると咲が答えた。「由美子が行方不明になるような心当たりはないわねぇ。とりあえず彼女の自宅とか友達に連絡を取ってみるわ。それじゃあね。」咲は軽いノリで話し終えると一方的に電話をサッサと切った。 引き続き住所録を辿っていった。タ行の終わりで東海センサス社の電話番号を見つけたあと、それから後には知っている名前はなかった。 東海センサス社の名前に触れると社内用ホームページが現れた。ホームページの社内電話帳から総務部の島本真知子を探して電話を掛けた。バインドコンピュータの画面脇のスピーカーから島本真知子の声が聞こえた。龍一は真知子にこのホテルでの様子を話して聞かせた。そして真知子の所へも未だ由美子からの連絡はないようだった。 話に行き詰まると島本真知子が頼み事があると言って自分側の電話カメラのスイッチを入れた。急にバインドコンピュータの画面に真知子の鼻が大写しに飛び込んできた。 鼻が退くのと交代に上司の竹中総務課長が現れた。竹中課長はすぐに話の本題に入った。「実は今日、朝の電算部との打合せに続いて美並さんに講習会の講師もお願いしていたのです。それで突然お願いするのは恐縮ですが、早瀬さんは美並さんのサポートをされているとのことなので、ぜひ講師の代役もお願いいたしたいのですが、いかがでしょうか。」 「私は何も準備していないので。急に言われても。」 すると急に画面が2つに分割され、片方に真知子の顔が画面半分に現れて懇願してきた。2つに割れた画面に真知子と竹中課長が同時に頭を下げ、ひたすら懇願した。「他におすがりする人がおりません。どうか私どもを助けると思って引き受けていただけないでしょうか。」 二人の視線は画面を通しても龍一を金縛りにするほど真剣だった。とても断れる雰囲気ではなくなってしまった。テレビ電話でこれほどの眼力を感じるのは初めてのことだ。 「ちょっと待ってくれますか。今、講習のテキストがどんなものか見てみますから。」 龍一がベットの上のアタッシュケースに目をやり視線が逸れた途端、間髪を入れず竹中が言った。「ありがとうございます。それでは引き受けてくださるのですね。」 真知子もすかさず相槌を打った。「うれしいわ。やっぱり早瀬さんて頼もしいわ。ねえ竹中課長。」 「まったく、その通りだ。さすがREX社の社員は頼もしいかぎりだ。コンピュータ大手だけのことはある。」2つに割れた互いの画面同士で竹中課長と真知子が互いにうなづき合った。 龍一はアタッシュケースを開けて講習用テキストを探した。背後のテレビ電話のカメラレンズが龍一を追尾してしきりにキョロキョロ動いていた。龍一はなるべくレンズに映らないように背中でテキストを隠すようにして調べた。 テキストを見るとレックス・アルケィミストというソフトウェアの操作説明だった。レックス・アルケィミストは並列コンピュータ用ソフトウェアとして龍一達が開発して、数か月程前にREX社から発売したものであった。 これはデータベースを人工知能によって自動分析するソフトウェアである。このソフトウェアを使うと自然界の未知の法則や、今まで直感的な感覚でしか知ることができなかった予兆を知ることができる。 科学への利用法ならば遺伝子の新しい組み合わせによって生物の働き方や姿がどのように変わるか予測したりする。たとえばインフルエンザウィルスの遺伝子をどのように組み替えると人体に無毒化できるか、実際に試すことができない実験の代用として使われる。 あるいは成長の早い竹と遅いサボテンの遺伝子を組み替えたらどうなるか、実際の成長を待つ時間がかかるものにもシミュレーションできる。 またマーケティングの世界では顧客の購入データベースから流行の予兆を捉えることができる。まさにアルケィミストの名の通り錬金術師のように無から有を生むように人知を越えた分析ができる。 今、レックス・アルケィミストの講義をするのに龍一ほど適任者はいないだろう。しかし人に教えることは全く未経験だった。資料を眺めたまま龍一はどうやって断ろうかと口実をしばし考えた。 悲痛な真知子の声が背後で聞こえた。「早瀬さん。受講者はこの講習のために昨日から全国各地から出張してきて、すでに集まっているの。どうか助けてください。」 「人に教えるなんて、とてもできません。僕の方こそ助けてください。」と龍一はカメラに向かって答えた。龍一はあの百戦錬磨の受講者達相手に講師を勤める自信がまったくなかった。 「今、早瀬さんしか頼る人がいません。どうかお願いします。」 「この通り勘弁してください。」と龍一も逆に懇願した。 「そう言われても困ります。」と画面の中で竹中課長と真知子が二人とも頭を下げたままピクリとも動かなくなってしまった。そして龍一もカメラの前で頭を下げて動かなかった。 3人の動きが止まってどのくらい過ぎたのだろうか。龍一はふと頭を上げてみるといつの間にか画面から竹中と真知子の姿が消えていた。彼らをうまく振り切ったようだ。 静かになったバインドコンピュータのスイッチを切ると龍一は一人、部屋の中で由美子の帰りを待つことにした。 もう一度窓の外を眺めた。富士山の頭を隠していた薄雲がさらに広がって裾野まで覆い、その雄姿を白いベールの奥へ隠し始めていた。美しい富士の姿が見えなくなると余計にその雄姿を見たくなった。 講師の依頼を断り切ったと思ったのもつかの間、見えなくなったテレビ電話の向こうでは一体、誰が講師を引き受けるのだろうかと心配になった。部屋で待てば待つほど代わりの講師が気にかかった。せめてこの講習用テキストを届けてあげる位の親切はできると思った。龍一はテキストを抱えると、足は東海センサス社へ急いだ。 「誠に申し訳ありません!」 島本真知子と竹中課長は会議室の教壇の前に立ち、受講者の前で深々と頭を下げていた。そこへ龍一が飛び込んできた。 「あっ。先生がいらっしゃいました。」と竹中課長が叫んだ。 竹中課長は機をはずさず紹介した。「先生はあの有名なREX社のエンジニアでいらっしゃいます。昨日も社内のコンピュータを次々と修理してくださった凄腕のエンジニアです。皆さん、わからないことは何なりと先生に教えていただいてください。」 竹中課長は龍一の側にやってくると耳元で囁いた。「必ず来てくれると思っていましたよ。これで私はますますREX社のファンになりましたよ。最初の予定では十時半に開講する予定だったのですが、とりあえず今、十一時半に遅らせて開くことで受講生にお願いしていたところなのです。あぁ、ちょうど良かった。まさにグットタイミングだ。」 龍一は腕時計を見ると十一時二十八分だった。 受講者達は起立すると一斉に龍一に向かって「先生。よろしくお願いいたします。」と唱和した。 先生。自分は先生なのか。生まれて初めて先生と呼ばれた。次第に龍一は体中が火照るような気がしてきた。 龍一から受け取ったテキストを全員に配り歩く真知子の靴音だけが聞こえた。真知子は1枚テキストが足りないことに気が付くとコピーをするために会議室の外へ出ていった。 真知子が出ていくと会議室は静まりかえった。龍一は教壇の上に立ったまま、顔を上げて前を見ることができなかった。教壇の上に由美子の作ったテキストを置き、ページをペラペラめくってみたが何から話したらいいのか困惑した。ページを持つ手が急に汗ばみ、額のあたりに水が滴るような感触を感じた。 何も考えがまとまらないうちに真知子が戻ってきた。もう始めなければならない。なかなか始めようとしない龍一に竹中課長は冷酷な表情で催促した。「先生。テキストは揃いましたので、どうぞお始め下さい。さぁどうぞ。」 龍一はハイと声に出ないまま、うなずいた。もう何か話さなければいけない。顔を上げてみると一斉に全員と目が合った。初めに「本日は」と言おうとするが喉が干照りつき声が出ない。もう一度言い直した。「ほ、本ひつほっ」声が裏返っている。 手元の資料を持つ手が小刻みに震えている。震える手を教壇の板に押しつけて震えを止めようとするが手首に力が入らない。そして何かを言わなければと思えば思うほど目の前の視野が狭まっていくようだった。 真知子が側に寄ってきて小声で言った。「落ち着いて。肩に力が入りすぎていますよ。もっと体をリラックスさせてね。」それは龍一が今朝、岩下雪江にアドバイスした自分の言葉と同じセリフだった。雪江にぞんざいな言い方で面接の練習をしたシッペ返しを受けた。今になって雪江の気持ちが身にしみた。 真知子がまた耳打ちした。「普段の調子で私一人に説明していると思ってね。みんなの方を見ないで、私だけを見て話してね。」 アドバイスされた通りに、受講者の後ろに座った真知子だけに視線を合わると真知子が次第に岩下雪江のイメージにダブった。そして雪江達と大笑いした事件を思い出すと龍一の口元が緩んだ。すると手の震えがすっと消えた。龍一は真知子と見つめ合うように講義を始めた。 しばらくするとようやく先生役に慣れてきた。また受講者達も接客には慣れた営業マンだ。慣れない龍一を察して座を盛り上げるように冗談を放ち、なごやかな雰囲気になった。 そして講習が終わると受講者の誰からともなく拍手が起こった。講義を最後まで見守っていてくれた真知子も拍手をしながら側に駆け寄ってきた。「すごいじゃないの。先生役初めてと言ってたけれど、彼らをうまく掴んだみたいね。」 「初め、舞い上がってしまって。恥ずかしい限りです。島本さんの方だけ向いて話していたら落ち着いてきました。貴女がいなかったら、今頃どうなっていたものか。」 「なるほどねぇ。私の顔も捨てたもんじゃないということね。何で、うちの会社の男連中はそこの所に気が付かないのかしらねぇ。」 そして真知子は龍一と見つめ合った時を思い出すと彼女は急に顔をほころばせて龍一の二の腕をつねった。「もうぉ。やだぁ。恥ずかしいんだから。もうぉぉぉ。」 |