第六章 ツインベッドルームのお客様 龍一は講師役を済ませると、再びフォレストビューホテルへ急いだ。ホテルのフロントでルームキーをもらおうとすると意外な事を告げられた。「お客様。先ほどお連れ様がすでにキーをお持ちになって行かれましたが。」 由美子が戻ってきたのだろうか。エレベータの扉が開き終わらないうちに肩を扉にぶつけながら急いで部屋へ向かった。 部屋のドアーを拳で連打した。しばらくすると内側でカチッと鍵の外れる音がしてドアーがゆっくり、わずかに開いた。 「開けて下さい。」と龍一は呼んだ。 しかし、わずかに開いたまま、それ以上はいつまでも開こうとはしなかった。 「ずっと探していたんです。開けてください!」と龍一は言うと力をこめてドアーを部屋の内側へ押し開けた。 「ギャッ!」と叫び声がし、龍一はあわててドアーの内側を見るとそこには初めて見る若い女がいた。女は両手を上に挙げたままカエルのように壁にはりつきドアーに胸を押しつぶされていた。女のシャツのボタンは弾けて、シャツの外へ盛り上がる白い肌が目に飛び込んだ。 「うぅぅ。痛っ。」女は呻くとドアーノブの直撃を受けた腹部を抱えて床にうづくまった。 「すみません。すぐドアーが開かなかったもので。」 「当ったり前でしょ。誰だか良くわからないうちに開けられないでしょ。」女は床にしゃがんだまま身体をさすりながら口を尖らせた。 「僕は。」「さっきの電話の人でしょ。ええと名前は。」 「早瀬龍一です。」「そうそう、そう言ってたわね。」 「すると貴女が桜川咲さんですか。」 龍一が助け起こそうと手を差し出すとピシャリと手を叩かれた。「さっきのご挨拶のお返しよ。君はね。女一人の部屋にそうやって押し入るわけなの?」 女はファインシルクのシャツに黒いレザーのミニスカートを身に着けていた。 「あぁ。ボタンが取れちゃったじゃん。」と咲が言いながら、シャツの前を何度もヒラヒラさせるたびに深い胸の谷間が見え隠れした。龍一は目のやり場に困って壁のリトグラフの絵を意味なく見た。 「君さ。何をキョロキョロしているのよ。」と咲は突然、龍一に迫った。 咲は龍一をベッドの端に座らせると龍一を見下ろすように目の前に立ち、上体を折って顔を近付けると咲の赤い唇が開いた。 「何をやましいことを考えているのぉ。ちゃんと咲の目を見なさいっ!」 龍一の膝の間に咲の黒いストッキングが触れると、ストッキングを通して脚の柔らかい感触が伝わり、ぬくもりの中にしっとりとした湿り気を感じた。そして目線の高さにはシャツの前が開かれた咲の胸が揺れていた。 龍一の目線は方向を失い、心臓の鼓動と呼吸のタイミングが同期しなくなり声も出なくなってしまった。龍一がいつまでも返事をしないと余計に脚を割り込んできた。 「どうして目をそらすの。やましいことを考えていないなら、咲の目を見れるはずょ。」 龍一は心の中を全部見透されているような感覚に襲われた。 すると咲が言った。「昨日、由美子に何をワルさしたの。やましいことしたんでしょ。」 やましいことってそういう意味なのか。少し勘違いしていたようだ。龍一はそれに気が付くと急に可笑しくて少し笑いながら答えた。「うっふっふふ。何もしていませんよ。本当です。」 「何が可笑しいのよっ。由美子が行方不明になっていると言うのに。」 龍一は少し笑ったことを詫びたが咲にますます不信感を与えてしまったようだ。 「ヘラヘラして変だわ。嘘でしょ。由美子に何もしていないのになぜ急に行方不明になるのよ。由美子がこのホテルに泊まっているのを知っていたのは君だけでしょ。今みたいに部屋にむりやり押し入ったのに決まっているわ。電話で咲の3サイズをいきなり聞くような男だからね。君が一番怪しいわ。」 「昨日はここには来ていません。」と龍一は必死に弁明した。 「でも昨日、由美子と一緒だったのは事実でしょ。由美子に何を言ったのよ。何をしたのよ。さぁ。白状しなさいよ。」 「嘘なんかついていません。昨日、彼女の手伝いをしただけです。」 「それでは聞くけれど。何が目的で君は遠い三島までわざわざ来たのよ。由美子の仕事と関係ないはずの君がどうしてそこまで出来るのよ。お手伝いだなんて信じられないわ。本当は由美子が目的だったのじゃないの?」 龍一は由美子が目的だったのかという問いに一瞬、詰まった。REX社のお客さんであったから来たのは間違いないが、それが彼女では無かったら付いて来ただろうか。一度、映画に付き合って以来、彼女に特別な感情を抱いていたのは否定できない。 もし彼女が美並由美子でなかったら、きっと龍一はここにはいなかっただろう。由美子が目的なのか。その問いに龍一は答えられなかった。 しばしの無言が続くと急に強烈な平手打ちが龍一の頬に飛んだ。 咲は急に部屋の外へ飛び出して行った。龍一も咲の後を追った。咲がエレベータに乗ると龍一も飛び乗った。 下降するエレベータの中で咲が言い放った。「何よっ。ついて来ないでよ。叩いたのがいけないと言うなら一番悪いのは君よっ!」 次の4階でエレベータのドアーが開くと四、五十代位の中年女性の一団が喋りながら乗り込んで来た。龍一と咲は箱の片隅に追いやられた。一団の放つ香水が混ざり合い、箱の中はむせ返るような息苦しさを感じた。 お喋りに余念のない女達の一人が龍一達を見てちょっかいを出してきた。「可愛いお嬢ちゃんね。」 「ほんと、幸せそうでいいわね。今が一番ね。」 龍一達は無言のまま女達の言葉を一方的に浴びた。すると他の女達も数を頼んだ勢いで付和雷同した。「新婚旅行かしらね?」 「違うわよ。三島に新婚旅行なんて来るわけないでしょ。」 「あぁ。婚前なんとか、かしらね。」「そこまでハッキリ言ったら失礼よねぇ。」 「あら。ごめんなさいね。口が悪くて。で、これから仲良く観光かしら。私たちもそうなのよ。ホホッホ。ご一緒いたしませんかしら。」 「そうそう。若い人がいると楽しいわよねぇ。ウォッホッホホ。」 香水で空気まで色が染まるような匂いの中で龍一と咲は息を殺した。 一階ロビーに到着すると中年女性達が我先に降りた。扉の外には女達と同じ年格好の団体がロビー一面にたむろしていた。龍一は女達が降りた後もそのまま箱の中に留まり咲の顔を見た。咲はすかさず部屋のある階のボタンを押した。残り香が漂う箱の中で二人を乗せて階を上昇して行った。 「貴女の言うとおりだったかもしれません。」と龍一は部屋の椅子にもたれながら言った。 「やっぱり。君が原因だったのね。」咲はやっと事を認めた龍一をそれ以上追求しようとはせず、龍一が告白するのに任せた。 「彼女が目的かと問われれば、そうだったのかもしれません。彼女に惹かれていたから三島まで来たのかもしれません。でも彼女とはそれだけです。・・・しかし一つだけ心当たりがあります。」 「何。教えて頂戴。」咲は先程とは異なり静かに龍一の言葉に耳を傾けた。 龍一は昨日、東海センサス社のコンピュータを勝手に直して不興を買った経過を語った。しかしその事で美並由美子が大事な講師の仕事を放り出しては東海センサス社に迷惑かけるだろうとの考えで二人は一致した。 「何か他の理由があったと思うわ。ちょっと心配だわ。」と咲は言うと部屋の中を腕組みしながらゆっくりと歩いた。 由美子の知り合いが三島にいないかどうかを龍一が尋ねると咲は言った。「そういえば由美子は三島に親しい男の人がいるって言ってた事があったわ。でも由美子はあまり自分のことをしゃべりたがらないから、その人の名前を聞いていなかったの。いや、もしかしたら聞いていたかもしれないけれど、私さ。人の名前を覚えられない人なの。ごめんね。」 「三島に恋人がいたのですね。」と龍一はポツリと言うと昨日の楽寿園での出来事が過去の彼方へ消えて行くように思えた。 「あっ。余計なこと言っちゃたかしら。ショックだった? ねぇねぇショックだぁ。」と咲は椅子に座った龍一の前に立ちはだかると龍一の顔を覗き込むように言った。 咲の言う通りだった。立っているのがつらいほどショックだった。龍一は顔色を悟られないように平静を装いながら言った。「いや、そんなことはないです。まだ会って間もないことですし、彼女のことを良く知っているわけでもありません。別にそういうことがあっても驚くことでもありません。」 「ふぅん。早瀬君は大人なんだね。」と咲は妙に感心しながらベッドの端に座った。 「いいなぁ。由美子は。」と咲はため息まじりに言うと、床に向かって脚を揃えて伸ばし、つま先につっかけたスリッパをブラブラさせた。茶色のスリッパの片方がつま先から落ちた。 龍一は気を取り直して言った。「その三島の恋人と一緒にいる可能性はないですか。」 咲は立上がると窓の外を眺めながら言った。「この部屋はツインでしょ。彼氏と一緒ならこの部屋にいたのじゃないのかしら。」 「しかし僕がこの部屋に入った時には泊まった形跡はなかったが。」 咲は急に振り返ると言った。「もしかして。彼氏と逢えなかったのかしら。」 咲はゆっくりと窓から離れ、デスクに腰掛けると話題を変えた。「ところで聞きたいことがあるの。咲の電話番号をどうやって知ったの?」 龍一はバインドコンピュータの住所録から知ったことを伝えると、咲はコンピュータのモニター画面に住所録を映した。「由美子の電話帳って取引先ばっかりね。ねえ。もしかして彼氏の番号もここに登録されていないかしら。」 「だって名前を知らないだろう。」 「でも、住んでいるとしたら三島近くよね。三島の局番って何番だっけ。」と咲がきくと龍一はデスクの上に置いてあるホテルの案内資料を開いてホテルの電話番号を探した。 「このホテルの局番は0559だ。」 「05で始まる局番の電話番号は。ええと。東海センサス社。ここのフォレストビューホテル。あとは何もないわ。これでは何も手がかりないわ。」 二人は落胆するとコンピュータの側を離れた。龍一はベッドに仰向けに寝ころび窓の外を見た。今朝まで窓ガラスを覆っていた水滴は今は跡形もなく消えて時間の経過を感じさせた。 「そうだ。彼女のスケジュールがバインドコンピュータに入っていないかな?」 龍一は咲の横に来て操作した。「ほら。出てきた。昨日の予定は東海センサス社で講習会。そのあとホテルで講習テキストの作成。その後の予定は無しだ。」 咲も一緒に画面を追いながら言った。「昨日の講習が終わったのは十一時頃でしょう。それから早瀬君とおデートして別れたのが三時過ぎだと、その後ずっとホテルに籠もってテキストの作成をしていたのかしら。」 龍一は咲の「おデート」という言葉にひっかかるものを感じた。他に恋人がいるとも知らずにデートして舞い上がっていた自分を思い出すと虚しさを感じた。が、龍一はそんな心の内を読まれまいとして精一杯平静を装って言った。「しかしこのスケジュールは衛星通信を使って会社に送信して管理されている場合があるからプライベートな予定は登録していないと思います。たぶんね。」 「つまりテキストの作成をしてから先の予定が謎ということね。」 「でも、もう少し何かわかるかもしれない。」龍一はコンピュータの講習テキストの文書ファイルの書き替え時刻を調べた。 龍一は画面の文書ファイルの作成時刻を指さして言った。「ほら、昨日の午後六時十三分となっている。その時間まではきっとこの部屋で仕事していたんだ。」 「すると、その後ここを出て行ったということね。一体どこへ行ったのかしら。」 突然、部屋の電話が鳴った。フロント係からチェックアウトの催促だった。腕時計を見るとすでに二時を過ぎていた。 「しまった。この部屋は二時までしか借りられないんだ。」 「それは困るわ。この部屋を出てしまったら由美子が戻ってくる場所がなくなってしまうわ。まだ何も手がかりが見つかっていないのに。」 龍一は渋る咲に由美子の荷物をまとめることを促した。咲は文句を言いながらバインドコンピュータのスイッチを切りアタッシュケースに戻した。その時、アタッシュケースの中に残っていた1枚の講習テキストのプリントを見つけると言った。「君さ。こんな難しいこと教えたの。咲には何だかちっともわかんないよ。このテキストは君が作ったの?」 「いや。僕ではない。最初からアタッシュケースの中にあったものだろう。」 「すると由美子はテキストを作成してから自分でプリントしたということね。一体どこでプリントしてきたのかしら。」 「ホテルのサービスを利用したなら、これだよ。」と龍一は室内テレビのスイッチを入れた。テレビ画面のルームサービスのメニューの中にプリンターサービスがあった。試しにそのメニューを選択すると画面に紙詰まりのアラームが表示された。龍一はテレビの裏側を覗き込むと修理を始めようとした。 「ねぇ君。チェックアウトの時間過ぎているのよ。フロント係に文句言われるわよ。それにプリントしたのはどうせテキストなんでしょ。」 「いや。おかしいな。アタッシュケースに残っていた一枚を除けばプリント用紙は全て揃っていたのに、まだプリンターの中に紙詰まりしたプリントが入っているなんて変だろ。プリンターの中を調べてみるよ。」 咲は隣でそれ以上何も言わずに修理を眺めた。 再び部屋の電話が鳴った。またもチェックアウトの催促だった。咲はチェックアウトを少し待ってくれるようフロント係に懇願した。 プリンターの中から千切れてクチャクチャに皺だらけになったプリント用紙を取り出すと咲に手渡した。 「早瀬君って。本当に機械に強いんだね。昨日もこうやって片っ端からコンピュータを直しちゃったのね。見直しちゃったわ。もう早瀬君じゃなくて早瀬先生よね。」 咲が皺だらけのプリントを広げると講習テキストのプリントとは違うものだった。 「これは電話番号案内の地図サービスよ。遠州丸という海鮮料理屋の案内図が書いてあるわ。でも地図の部分だけ破れてなくなっているわ。これは由美子がプリントしたものかしら。」 「時刻もプリントされているはずだ。」 「あったわ。昨日の六時二十分よ。テキストの作成時間より後だわ。由美子のものに違いないわ。ここに行けば足取りが掴めるかもしれないわよ。」 二人は新たな手がかりを手にすると互いに腕を交差してファイトポーズを交わした。 |