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第十二章 プロファイラへのヒント

 それはおよそ半年前に溯る。
 鹿島哲也はクライアントの宝和バイオソイル社の担当者とマーケティングリサーチの商談をしていた時のことだった。
「さて話もまとまった事だし、どうです。一服しましょうか。」とクライアントが言うと鹿島哲也も商談を切り上げて雑談を始めた。
 宝和バイオソイル社は土壌浄化機器の専門メーカーとしては新興企業ながら最近、急激な成長を遂げていた。それというのも有害物質に汚染された埋立地が全国各地で3万カ所も発見され、住宅地開発などが不可能となる事態が頻発していた。これらは有害な産業廃棄物を未処理のまま埋めたため地下水を通して広範囲に汚染が拡大してきた結果である。
 この会社は石油、有機化合物系の土壌汚染をバクテリアで分解処理するバイオレメディエーション技術を開発したところ、低コストで汚染除去できることが市場に受けて急成長してきた。
 会社が急成長すると就職を希望する学生の人気が沸騰した。何千人もの学生が殺到してきたが、対応する採用担当者はたった6人しかおらずパニック状態になってしまったことをその担当者はもらした。採用担当者を養成するには何年もかかるため、急に増員体制をするのもままならず、かなり困っているようだった。

 鹿島はそれまでは採用担当者の苦労など思いやったこともなかった。鹿島は取引先から戻ると東海センサス社の総務部に顔を出してみた。
 ちょうど島本真知子が新人採用の仕事に駆り出され、学生から送られてきた履歴書の山を学校別に仕分けしている最中だった。真知子は一定のリズムを刻みながら作業をしているように見えた。鹿島は隣で崩れそうになった山を整えながら話しかけた。「リズム感よさそうだね。その腰の振り方はレゲェ? それともサンバ? 楽しそうでいいねぇ。」
「バカねぇ。こんなのちっとも楽しいわけないでしょ。履歴書の整理が終わったら学生から来た電子メールにレス書いてやらなけりゃいけないし、マルチメディアだか何だか知らないけれど仕事が増えてしようがないわ。さあ、楽しいかどうか試してみたらどう?」
 真知子はリズムを止めると鹿島の手の上に履歴書の山を1つ乗せた。彼は素直に一緒に仕分けを始めた。
「あぁ、ダメね。腰の振り方がなってないわ。ほらっ、こうよ。」真知子はフラダンスのようにタイトスカートの腰を大きく振って見せた。鹿島はスカートがはち切れそうなばかりの彼女の尻に目をやった。
「ほう、なるほどねぇ。よく参考になりました。ところでこの履歴書に書いてあることは本当なの?」と鹿島が尋ねた。
「住所や学歴は証拠が取れるから嘘つけないけれど、他の事はどうだかねぇ。都合の良いことしか書かないと思うわ。」
 鹿島は手を休め、傍らの履歴書を手に取って言った。「調べていないのかい?」
「それがなかなか難しいのよ。興信所に頼んで近所に聞き込みされたりすると調べている事がばれてしまうことがあるの。それがプライバシーの侵害だからとうるさいのよ。」と真知子は腰のリズムを崩すことなく言った。
「ということは、どういう人間か本当の所は知らずに採用しているわけか。じゃ、ちょっと危ない奴も紛れ込んで来るじゃないか。」と鹿島は真知子のヒップラインの動きを目で追いながら言った。
「まぁ。そういうことね。だから適性検査もしてチェックしているつもりだけど。でもね。そんな厳しいチェックをすり抜けてくる目つきのエッチな人もいるみたいね。」と真知子に皮肉られると鹿島は再び履歴書をせっせと仕分け始めた。

「どう。仕分けは楽しい?」と真知子は鹿島の手さばきを眺めながらきいた。
「真知子ちゃんと仕事するなら楽しいけれど、一人じゃ忙しくて嫌だね。」
「何言ってのよ。忙しいのはこれからが本番よ。これから学生達を書類選考でフルイにかけてバッサリ落として、次に適性検査、筆記試験、面接と経て学生を絞り込んでゆくのよ。」
「まるでオーディションみたいで面白そうだね。」と鹿島が言った。
 すると真知子は履歴書を持つ手を止めて遠くを見るような目で言った。「そうね。初めてこの仕事を手伝い始めた時は面白かったわ。私が一押した学生が内定した時はとっても嬉しかったわ。でもね。鹿島係長がクロスセンシングシステムで評判になってから学生がどっと押し寄せるようになったのよ。竹中総務課長は喜んでいるようだけれど私はもううんざりだわ。学生に振り回されっぱなしよ。」
「なかなか手厳しいな。俺のせいで真知子ちゃんに迷惑をかけてしまったようで悪かったね。」鹿島も手を停めて真知子の顔を見た。
 すると真知子は首を横に振って答えた。「いいのよ。仕事なんだから。ちょっと愚痴を言ってみたくなっただけよ。」
 真知子は履歴書から剥がれ落ちそうな写真を見つけると傍らの糊で補修しながら言った。「心配しないで。愚痴は鹿島係長だけのせいじゃないわ。うちの竹中総務課長なんてもっと問題よ。学生がたくさん応募してくるようになったら天狗になって言いたい放題よ。やっと選考に選考を重ねて、とっておきの学生を揃えて2次面接に回しても、性格が粗雑だの、暗いだの。学生のやる気が感じられないとか言うのよ。挙げ句の果てにはおまえ達には人を見る目がないなんてほざくのよ。頭にくるわ。こんなに苦労して良い学生を集めようとしているのが全然わかっていないのよ。私が愚痴を言いたくなるのもわかってくれるでしょう。」
 真知子は糊を付けた写真がすぐに剥がれてしまうと忌々しそうに平手で強く叩きつけた。

 真知子が写真を叩きつけた時、鹿島の脳裏に閃光のようにアイデアが閃いた。こんな薄っぺらな履歴書を苦労して掻き集めるよりもっと良い方法がある。東海センサス社のデータベースにはもっと膨大な個人情報が詰まっている。それらはクロスセンシングシステムを使えば履歴書にも書かれていない情報を取り出すことが可能だ。
 おまけに今まで集めにくかった性格データさえ就職の現場から簡単に集めることもできるだろう。そのデータをマーケティングデータとして利用すれば、その応用範囲は無限にあるはずだ。そこに今までにない新しい就職のスタイルが生まれることを予感した。そして鹿島の頭に新しい就職用システムのイメージが形作られはじめた。



 東海センサス社の大村専務の部屋で鹿島哲也はある説明をしていた。
 部屋の壁掛テレビには説明資料を投影され、そこにはクロスセンシングシステムを求人業務に活用した新システムのアイデアがビジュアル化されていた。
 最後の説明資料が映し出されると鹿島の説明も終わった。そして沈黙が続いた。彼は大村専務の口元をじっと見つめた。
 ようやく専務の口が開いた。「うむ。マーケティングのシステムを求人業務へ応用するとは意外な取合わせだね。今まで考えたことないようなアイデアだな。面白いかもしれんな。」
 専務の面白いという言葉に勝算ありと鹿島は踏んだ。
「専務。この仕事、ぜひ私にやらせてください。」
「儂らにとって勝手のわからん就職業界だぞ。リスクも多いだろう。わかっているのかな。」と大村専務は牽制した。
「専務。私は自分の作ったシステムの可能性をもっと試してみたいのです。覚悟はできています。」
 大村専務は鹿島の顔をじっと見るとその決意の様子を見て取り言った。「そうか。この仕事は君にしかできないだろうな。よしっ、アイデアをもっと詰めてみよう。この資料のコピーを儂にくれんか。」
 翌日。大村専務は鹿島哲也をリーダーとする専門プロジェクトを招集し、詳しい市場調査を命じた。

 それから1か月がたつと調査報告がまとまった。その報告書のタイトルはプロファイラシステム調査報告書と記され、余白に丸秘の赤いゴム印が押印されていた。その報告書にはリスクと背中合わせだが成功すれば莫大な市場を手中にする可能性を示唆していた。
 大村専務は耶麻霧社長の根回しに向かった。
 専務が社長室に入ると壁全体にガラスが嵌め込まれた窓から陽光が半透明のブルーのブラインド越しに差し込んでいた。それが部屋全体に白と青の美しいコントラストを広げていた。
 社長のデスクの前で大村専務は立ったまま説明を一通り終えると付け加えた。「社長。もしこのプロファイラシステムがヒットしたら、就職情報関係の企業や我々と同業のリサーチ会社が次々と真似をしてくるでしょう。他社が追いついてくるまでの1,2年までがチャンスです。その間はうちの独壇場となるでしょう。先手を打ってシェアを一気に占有すれば先行者利益を獲得できるかもしれません。」
「大村君。つまり先行者利益を最大にするためには一気に投資して市場を席巻しなければならんということだな。しかし、それはかなりリスクを伴うな。」
 ブラインドから漏れた光の中に社長のデスクから立ち登るタバコの青い煙が流れていった。しかしその顔は陰の中にあり低い声だけが専務の耳に届いた。
 専務は顔の見えない影に向かって言った。「はい。一気に投資することはリスクを伴います。しかし他社に追いつかれてしまったら価格競争に巻き込まれるリスクもあります。どちらにしてもリスクはあります。」
「リスクが同じなら先に仕掛けた方が実入りが多いということかね?」
「その通りです。社長、今ならライバルはいません。チャンスです。」

 耶麻霧社長の背広の胸にはブラインド越しの光が当たっていた。暫くするとその光の中に社長の顔が浮かび、専務に尋ねた。「もし、やるとしたら、うちのホストコンピュータに与える影響はどの程度かね。」
 大村専務の話によるとプロファイラシステムがホストコンピュータの記憶容量を新たに消費する量は約十二テラバイトと推定された。この量はCDなら約2万4千枚分、新聞なら約3万年分の文字数に相当する膨大な量である。
 その膨大な量に専務は動じる様子もなく、流れるようにスラスラと説明した。「ご心配はいりません。これは当社全体の記憶容量に与える影響は6%強位なので余裕は十分です。」
「気にするほどではないな。それでどの位、投資がいるのかね?」
「今ある機材で充分間に合いますが、プロファイラシステムの開発には半年から1年かかります。つまり人の投資が必要です。」
 耶麻霧社長は腕を組むと言った。「先手必勝ならば半年でやってほしいね。半年の遅れは利益も半分になると言われているからね。必要ならば就職業界の会社と共同開発すれば早くできると思うが。」
 専務は就職斡旋会社との共同開発を否定した。プロファイラシステムが革新的な方法であるため、既存の就職業界のノウハウがどの程度開発に役に立つかどうか疑問であることを述べた。そして自社のノウハウの流出によってライバルの出現を早めてしまう危険を指摘した。すると耶麻霧社長は専務の進言に納得した。
 専務は言った。「では、機密保持のためにも我々の会社だけで開発したいと思います。ただし開発には就職業界経験者の中途採用を若干お許しいただきたいのですが。」
「わかった。その辺のことは君に任せる。あとは他の役員にシステム開発の合意を取り付けなきゃならんな。」
「役員の皆さんにご理解いただけるでしょうか。」
「なあに。心配はいらんよ。クロスセンシングシステムの応用システムならば実績がものを言うさ。誰も反対なんかするわけがないだろう。いや反対なんか言わせないさ。フフッフ。大村君。早速、今度の木曜会に提案しなさい。」
 木曜会は隔週木曜日ごとに常勤の取締役が集まり昼食を囲みながら経営問題を話し合う場である。これは取締役会でモメそうな議案は事前に木曜会で意見調整されるしきたりになっている。

 社長の根回しに成功した大村専務は自信を持って木曜会に臨んだ。
 広い部屋の中に大きな楕円テーブルと椅子が十五脚置かれ、中央の社長の椅子を中心に取締役達が取り囲むように座った。大村専務は社長の椅子のすぐ隣に着席した。
 係りの女性社員達がお茶を配り終わるとそそくさと退出した。すると入れ違いに幹事役の総務部長が耶麻霧社長を伴って入室してきた。
 社長が着席すると楕円テーブルの中央からビルの柱を短く切ったように太くて黒い円柱が1台せり出した。多次元シンメトリ・モニタの円柱に画面が現れると役員達の目が円柱を取り囲んだ。多次元シンメトリ・モニタとは平面画面がどの方向から見ても正面から見ているように見える最新鋭の映像モニタマシンだ。

 大村専務は自信に満ちた声で画面に映るプロファイラシステムの説明を進めた。役員達の食い入るような目に確かな手応えを感じた。
 説明が終わると議長役の耶麻霧社長が重みのある声で呼び掛けた。「何かご質問はございませんか。」
 一瞬、役員達の目が互いの様子を伺うように左右に動いた。意見を言いそうな役員はいないようだった。大村専務は周囲を睥睨して話はこれで決まったと感じた。
 ところが役員達の目が一斉に右を向いた。末席のヒラ取締役が自信なさそうに片手を小さく胸の前に挙げているのに気が付いた。
「どうぞ。」と社長が発言を許した。
「質問というか、意見なのですが。畑違いの就職業界に手を出さなくても本業のマーケティング関係の仕事だけでも十分食べてゆけるではないでしょうか。」
 いつもならイエスマンのはずのヒラ取締役が珍しく反対意見を言った。その声はか細く、やっと専務の耳に届くほどだった。
 専務はすかさず返答した。「たしかに今でも食ってはいける。しかし、このプロファイラシステムは当社にとってさらに一段と大きく飛躍するチャンスだと思います。それに新たな設備投資もいりません。ライバルがいない今がチャンスなのです。」
 専務の自信に満ちた応酬にヒラ取締役の意見はまるで臆病者の遠吠えのように感じられた。ヒラ取締役は発言したことを悔やむように下を向いた。
 しかし臆病者の遠吠えに呼応するものが現れた。役員達の目が今度は反対の左に動いた。別のヒラ取締役も意を決して発言した。「しかし。しかしですね。我々は就職業界のことなど何も知らない素人です。うちにとって賭けが大きすぎるとおもいますが?」
 専務はヒラ取締役を睨みつけ、吐き捨てるように言った。「そのために業界経験者の中途採用も予定しております。」
 専務が答え終わらないうちにそのヒラ取締役は言葉をさえぎった。「しかし。もし失敗したら就職業界のことしか知らない中途採用者達の処遇をどうするのですか。その時は人事担当に後始末をさせるおつもりですか。」
 専務は「後始末」の言葉に一瞬、腰が引けた。専務は答えをはぐらかして同じ言葉を繰り返した。「しかし失敗を恐れていたら事業の拡大は望めません。繰り返して申し上げるがライバルがいない今がチャンスなのです。」
 大村専務の論戦は次第に孤立し、反対意見のトーンが盛り上がってきた。「チャンス。チャンスと言われるが貧乏くじを引くチャンスになっては困る。プロファイラシステムとやらで我々が就職先を探す羽目になったらどうするんですか。」

 結果は予想外だった。木曜会での意見は真っ二つに割れてしまった。賛成と反対の意見が円卓の上を飛びかい、意見を穏やかに言った役員もその意見に異論を唱えられると次第に檄して議論の渦に一人ずつ巻き込まれていった。
 大村専務は横を見ると耶麻霧社長は腕組みをして討論を黙ったまま聞いていた。動かない社長を味方へ動かそうとするように彼らの意見は熱を帯びた。専務は反対派への説得を何度も試みたが社長が何も言わないのが不安だった。

 総務部長が社長に耳打ちした。昼食の時間になった事を社長に伝えたようだった。沈黙を守っていた社長が強引に議論を中断させると昼食を指図した。総務部長が部屋の扉を開くと、それを合図に待機していた女子社員達が三島名産の鰻重の配膳を始めた。
 部屋の外で待機していた鹿島哲也も開いた扉の間から大村専務の様子をうかがった。専務は目をつぶり腕組みをして動かなかった。鹿島は部屋の話し声に聞き耳を立てたが、だれもが押し黙ったまま動かなかった。動いているのは女子社員だけだった。
 静止画のような情景のまま女子社員の手で扉が再び閉じられた。


 その日の夕刻、鹿島は大村専務から木曜会が不調に終わり、議案は社長預かりになった事を知らされた。それは賛成、反対両者のしこりを残さないために耶麻霧社長が配慮した結論だが、事実上は議案が却下されたのも同然だった。
 鹿島は昼間、垣間見た木曜会の情景を思い浮かべた。あの沈んだ表情の役員達をもはや説得することは不可能に近いことを悟った。

 美並由美子は鹿島から深夜の電話を受けた。その電話で鹿島から退職の決意を打ち明けられ、アイデアを実現するためには自分の力でやるしかないと切々と語った。
 由美子は退職を思いとどまらせるのが不可能なことを感じとった。この時ほど鹿島自身が幾度も自らをエンジニアと呼んでいたことはなかった。そして彼はエンジニアとして自ら作ったシステムの可能性を試すことに情熱を燃えたぎらせていた。


 翌日、鹿島は大村専務に退職を申し出た。「専務にはこの会社に招いていただいたご恩がありながら、このような勝手なお願いをして申し訳ありません。」
 鹿島をヘッドハンティングして東海センサス社に呼んだのは大村専務だった。そのことで彼は専務への恩義を感じていた。
 直立不動の鹿島に専務は気が付いてデスクから顔を上げた。「昨日、プロファイラシステムが受け入れられなかったからって。昨日の今日じゃないか。何もそんなに急に会社を辞めなくてもいいだろう。それともどこかの会社から呼ばれているのかね?」
「いいえ。決してそのような事は決して。」
 鹿島の悲壮な決意をよそに専務はデスクに置いたパソコンのマウスを逆さまにして裏蓋を外すと中からピンポン玉のようなボールを取り出した。そしてボールをスェードで磨きながら言った。「儂はね。君の腕を見込んでうちに来てもらっているつもりだよ。君がいなかったらクロスセンシングシステムはまだ完成していなかっただろう。君はうちの会社になくてはならぬ人間なのだよ。これからも儂の右腕になってずっと働いてくれないか。なあ、鹿島君。」
「しかし専務。」
 専務は鹿島の言葉を意に介さぬようにガラスのように透明なボールを窓の光にかざしてみた。ボールは陽光を反射して専務の顔を明るく照らした。
「これは水晶だよ。プラスチックにはない質感だ。どうだ気に入ったら少し使ってみるかね?」
 専務は水晶のボールをマウスの裏にそっと大事に納めて、マウスごと鹿島に渡そうとした。
「いいえ。結構です。」鹿島はマウスを受け取る気にはとてもなれなかった。
「ほう、君は安もののプラスチック製が好きなのか。君には課長昇進の話も出ておる。その若さでは異例の昇進だ。会社は君にこの水晶のように最高のものを与えようと思っているのだ。それでも不満だと言うのかね?」

 専務に退職の申出を聞いてもらうどころか、逆に水晶のマウスを無理矢理持たされて専務室を退出した。鹿島は自席に戻ると水晶のマウスをデスクに放り出した。自分の身が自分で思い通りにできない苛立ちを感じた。しかし同時に自分を大切に思っていてくれる専務を裏切れないジレンマにも苛立ちを感じた。


 数日後、再び大村専務から専務室へ呼ばれた。「あの水晶のマウスはどうだね。気に入ったかね?」
 鹿島は一瞬、言葉に詰まった。マウスはデスクの上にまだ放り出したままだった。
「あのマウスは儂の餞別だと思ってくれ。」専務の言っている意味が鹿島にはわからなかった。
「餞別って何のことでしょうか。」
「君は退職したいって言っていたじゃないか。その決意は変わらないよね?」まるで鹿島の退職を願っているような言い方だった。
 専務は吸い初めたばかりのタバコを灰皿に押し潰して消した。そしてイラついた口調で言った。「イエスなのか。ノーなのか。ハッキリしてもらえんかね。こっちにも都合というものがあるからね。」
「は、はい。そのつもりです。」
「そのつもりとは退職するつもりだよね。」「はい。」
「そうか。それなら話は早い。希望通りに君には退職してもらうよ。」
 鹿島は声が出なかった。退職したいと申し出ていたものの逆に追放されるような言い回しに呆っ気にとられた。専務に逆に裏切られるのだろうか。
「希望はいつだね? 会社を出たいのは。」
 専務は新しく手に入れたマウスのボタンを意味もなくカチカチとクリックした。鹿島がなかなか答えようとしないと答えを迫るようにせわしなくクリック音を立てた。
「いつとは言っても仕事の整理のこともありますし。」
「何だ。決めていないのか。あんなに急に退職したいって言うから今にもかと思ったよ。よし。決めていないなら儂が決めてもいいかな?」
 鹿島は声も出ないまま専務のデスクの前に立ち尽くした。
 専務は立ち上がると鹿島の側に近づいて耳元で囁いた。「今日から半年後だ。その日までに極秘にプロファイラシステムを完成させなさい。いいね。これは命令だ。」
 専務の指示は続いた。プロファイラシステムが巨大なデータベースであるため極秘に開発しようとしてもシステム運用監視部門にその存在を知られてしまう可能性があった。それでは反対派の役員が騒ぎ出す恐れがあった。それを防ぐために開発したプログラムやデータベースを外注会社のコンピュータの中に隠しておくことを命じた。

「君が退職するのはそれが済んでからだ。」
「専務。プロファイラシステムを作り終わったら私はご用済み扱いなのでしょうか。」
 鹿島は大村専務を疑った。絞るだけ絞り取ったら切り捨てる気なのだろうか。
「だって退職は君の希望だったのだろう? 違うか。」
 専務の言葉に鹿島は唖然として声も出なかった。鹿島の耳から専務の叩くマウスのクリック音が聞こえなくなった。そして急に視界が消えてゆくような衝撃を受けた。


「ふっふふ、はっははっ。どうだ鹿島君。参ったかね。先日は君に驚かされたからね。今日は仕返しだよ。ふっふふっ降参かね。」専務は笑いを堪えていたように急に大きな声で笑い出した。
「そろそろ許してやろうかな。実はな。君に退職してもらって別会社の社長をやってもらうと思うのだ。」
 専務は耶麻霧社長と共同出資してプロファイラシステムを使った就職専門会社を設立し、鹿島をその社長に迎えようとしていたのだ。
「これなら反対派も文句も言えまい。どうだね鹿島君。」
 鹿島は自分が遂に社長となるという言葉が言霊のように煌めきながら脳裏を駆け巡った。自分が指揮している姿を思い描くと強いアルコールを煽ったように体を突き抜ける快感を感じた。鹿島は専務を一瞬といえども疑った事を恥じた。今や専務に対して絶対的なものを感じた。言霊はこれが信義だと啓示した。

 鹿島は頬を紅潮させたまま自席に戻った。デスクに放り出された水晶のマウスを自分のコンピュータにつないだ。重い質感を手に感じた。その感覚は王者の風格そのものだった。
 それから極秘の開発がスタートした。鹿島は早速、美並由美子に依頼してベイシティシステム社の超並列コンピュータを借りてプロファイラシステムの開発に着手した。
 鹿島は三島に、由美子は横浜と互いを結ぶ超高速の光ファイバー通信がその百kmの距離を隣の部屋にいるような距離に縮め、その共同開発したプログラムはベイシティシステム社のコンピュータに次々と蓄積された。
 その甲斐あってベイシティシステム社のコンピュータにまで東海センサス社のシステム運用監視部門の目が届くことはなかった。こうして反対派に気付かれることなくプロファイラシステムはゆっくりとその形を作りはじめていった。


 プロファイラシステムが九分通り完成した4月初旬、プロファイラシステムに学生の個人情報を送り込む段階に達した。東海センサス社にストックされた全国民一億二千万人の個人情報データベースからクロスセンシングシステムを使って全国の大学生、短大生など三百万人余の個人データがピックアップされた。そのピックアップされた膨大な個人情報がプロファイラシステムに送り込まれるとそのデータ量は一気に天文学的ボリュームに達した。
 試しにプロファイラシステムをテストランすると、そのボリュームをものともせず難なく動き、完成の見通しがついた。

 そして開発はいよいよ仕上げのデバックと呼ばれるテストと調整の段階に入った。開発は二人が帰宅してからも自宅の端末を使って深夜にわたって進められ、夜昼のない作業は二人にとって苦しい日々となった。
 ある日、鹿島は応答の消えた由美子を案じて端末を通じて電話を掛けた。「由美ちゃん。由美ちゃん。もう夜も遅いから終りにしないか。」
「うぅん。うっかりしちゃったわ。ごめんなさいね。何時かしら。」と由美子の虚ろな声が聞こえた。
「ちょうど午前三時になるところだ。端末の前で寝てしまったら体によくない。明日の仕事に差し支えるぞ。」
「大丈夫よ。もう少し平気よ。残りのテストプログラムを送って頂戴。」
「いや。終りにしよう。君の体が心配だ。また明日にしよう。」
 鹿島の気遣う言葉が唯一由美子を慰めた。彼からの回線が閉じられたことを示すメッセージが由美子の端末のモニター画面に表示された。「177日目の明日へ向かって、おやすみ。愛する由美子へ。」
 あと3日で開発に着手してからちょうど180日目になる。それは大村専務と約束した期限だった。由美子はこのメッセージが好きだった。明日の日数が増えてゆくが楽しみだった。明日の日数が鹿島との苦労をともにした年輪であり、二人の絆の強さを示す証しだと思っていた。

 そして180日目の朝は富士の見える部屋で鹿島と一緒に迎えるはずだった。だが3日後の180日目の朝を迎えることはなかった。鹿島と由美子は大瀬崎で破局を迎えた。
 由美子は破局を迎えるとその端末を閉じた。クロスセンシングシステムは東海センサス社に。プロファイラシステムはベイシティシステム社に二分されたまま双子のシステムは離ればなれになってしまった。ピーナッツの鞘殻が二つに裂けて散るように。


 由美子は鹿島との記憶の日々を語り終った。
 陽は山の端にかかり、ダイヤモンドの輝きを最後の一瞬に放つと山陰に消えていった。西の空一面を朱に染めて富士の漆黒の山陰は一層際立った。
 由美子と龍一は西の空へ消えた夕陽の残光をまるで映画のラストに流れるキャスティングを見るようにいつまでも眺め続けた。由美子はボツリとつぶやいた。「あの富士山の麓に三島の街があるのよね。でも、あの場所にはもう訪れることはないわ。きっと。」
 由美子は心の奥に鬱積した熱の元が早瀬龍一に話すことで冷やされていくのを感じた。そして過去を語ることで、もう全てが終わったことだと自分に言い聞かせているのだと感じた。
「私のマンションを解約したらこれで全て終りよ。この街ともお別れだわ。ここの景色が好きだったの。いつもここからあの麓を見ていたの。いつもここから・・・。」と由美子の声は感極まり声にならなくなった。龍一は肩にもたれた彼女の心の熱い火照りを感じた。
 しかし由美子には龍一に遂に一つだけ告白できなかった事があった。それは桜川咲から受け取った小切手の事だった。その異様な感覚の正体を知ることが怖かった。あの毒々しく身体を這いずり上がってくる感覚が由美子の口を塞いだ。


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