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第十三章 シュウマイの香り

 買い物の紙袋を両手に持ちきれないほどぶら下げた女が二人、白い帆船の前のベンチに腰を降ろした。キタムラ、ミハマ、フリーウェイ、フクゾーなどの横浜元町ブランドの袋に混じって華正楼のシュウマイの匂いがかすかに漂う紙袋がベンチに投げ出された。
 藤宮香織がため息混じりに言った。「あぁ。重かったわ。ここは買い物する前に先に来ればよかったわね。」
 すると島本真知子が相槌を打った。「ほんと。疲れたわ。手が痺れそう。ぷかり桟橋からこんなに歩くとは思わなかったわ。遊覧船じゃなくて、みなとみらい21線で元町駅から直接、ここへ来ればよかったわね。」
「本当ね。それでどうなの? こんな苦行をして見に来た日本丸の感想は?」と香織がきいた。
「あぁ。素敵よ。でも今はそれどころじゃないわ。手は痺れるし足は棒なの。このまま横になりたいわ。」
「ダメよっ。あと、クイーンズスクウェアのスヌーピータウンを見に行こうって約束したじゃないのよ。ほらっ。ショップの場所だって調べて来たのよ。」香織は雑誌の切り抜きを取り出すと仰向けの真知子の顔の上に乗せた。
「スヌーピーにも荷物を担がせるなら付き合うわよ。」と真知子は言うと「ふぅっ」と溜息をついて紙を吹き払った。
 二人は足を投げ出すと紙袋に埋もれるようにベンチにもたれ、曇り空を仰いだ。

 帆船日本丸の白い船体からオレンジ色の鋼鉄製のマストがそびえ、それを無数のワイヤーが取り囲んでいた。帆船は広いドックのような公園の中に置かれその向かいにはランドマークタワーがそびえていた。夜ともなればランドマークタワーとともにライトアップされて絶好のデートスポットになる場所である。中世の帆船を形だけ模した鉄鋼船とバベルの塔を彷彿とさせる高層ビルの組み合わせはまるで現代の遺跡のようだった。
 今は日暮れにはまだ早いはずだが、どんよりとした6月の曇り空があたりを薄暗くしていた。
「本当は今日、鹿島さんとあのランドマークのホテルに泊まる予定だったの。」
 香織が指さしたランドマークタワーは低く垂れ込めた雲の中に上半身を隠していた。それが見えぬ頂きを想像させて一層巨大さを感じさせた。
「素敵ね。でも彼と来られなくなって残念だったわね。」
「いいのよ。この曇り空ではランドマークからの景色も楽しめないでしょ。それは次回のお楽しみにしておくわ。」
 香織は鹿島哲也と二人で横浜へ遊びに行く計画を立てていた。しかし休暇を1日とる予定で切符とホテルを予約したものの、直前になって鹿島に急ぎの仕事が入って休暇がとれなくなってしまった。鹿島の勧めもあって急遽、島本真知子と一緒に日帰りで行くことになった。

「ねぇ。雨じゃない? ほら。」と真知子が空を見上げたまま言った。
「あっ。どうしよう。」
 白い歩道の上に黒い雨粒の跡が点々と付き始めた。
「任せて頂戴。折り畳み傘があるの。ちゃんと忘れずに持ってきたわ。」と真知子は荷物の中をゴソゴソ探し出した。
「こんなに荷物持って傘なんか差せないよ。今のうちに動く歩道の所まで逃げようよ。」
「うへぇ。今度は走るの?」
「さあ。荷物全部持った? 行くわよ。ダッシュよ。レディゴーっ!」と香織が走り出すと真知子も遅れまいと後を追った。
 二人が動く歩道に辿り着いた途端に雨の音が急に高くなり、あたりの景色が白く煙った。エスカレータを横にしたような動く歩道がノロノロと動いていた。二人は休憩場所を求めてランドマークタワーへ向かって乗った。
 二人とも肩で息を切らしていた。真知子が深呼吸すると言った。「ふぅ。危ないところだったわね。」
「そうね。雨からは助かったけれど、これからどうしようかしら。このままランドマークタワーまで進んで行き止まりみたいよ。」
 巨大なタワービルの根元が目前に迫ってきた。
「このシュウマイの匂い嗅いでいるとお腹が空いてきたわ。夕飯は何にしようか。この近くに良いところがあるかしら。」と真知子は辺りを見回しながら言った。
「ランドマークでフレンチなんか、どう? あるいは日本大通りのレストランのかをりでもいいわ。」
「テーブルマナーでこれ以上疲れたくないわ。そうだ。伊勢佐木町までタクシー飛ばして有名な新井屋の牛鍋はどうかしら。」
「泉平のお稲荷さんも有名みたいよ。」
「有名と言うならユーミンの歌で有名なドルフィンはどう?」
「あれは根岸でしょ。ここから遠すぎるわ。フランス山の山手十番館ならもう少し近いわ。」
「フランス山に戻ったらまた元町に逆戻りよ。せめて中華街止まりにしない。」
「中華は昼に食べたからもうパスさせてよ。」
 二人はガイドマップで予習してきた店名を披露しあったが決め手に欠けた。何も決まらないうちに動く歩道は終点を迎えた。再び荷物を抱えるとタワービルの入口へ向かった。
「有名なのはわかるけれど問題は美味しいかどうかよね。だれか食べたことがある人がいれば良いんだけれど。」
 香織が何か思いつくと言った。「そうだ。早瀬さんの勤めているREX社って確かランドマークの近くのはずよね。彼なら地元よ。それに真知子ちゃんの好みだし、ちょうどいいわ。誘いましょうよ。」
「やだぁ。恥ずかしいわ。」真知子は紙袋を持ったまま大きく手を振った。
「真知子ちゃん。照れてる場合じゃないわよ。早瀬さんにはこの前にお仕事を助けてもらったのでしょう。お礼を兼ねて夕食にご招待したらどうかしら。真知子ちゃんが誘いに行けば彼も喜ぶと思うわ。」
「だって、会ったら何て言えばいいのよ。」と真知子は口を尖らせて言った。
「素直に自分の気持ちを伝えればいいのよ。」
「じゃ。好きって言うの?」と真知子は言うと顔を赤らめた。
「ゲェッ! 中学生じゃあるまいし、いきなり迫ったらストレートすぎるわ。」
「じゃ、どうすればいいの。ダメ、ダメよ。自信ないわ。香織ちゃんが行って来て。一生のお願い。」

 香織はインフォメーションセンターでREX社の場所を調べて来ると荷物番に真知子を置いて、香織が早瀬龍一を誘いに行くことになった。
 香織は傘を差して雨に煙る隣のビルへ向かって歩いて行った。真知子はタワービル入口の通路の真ん中に紙袋に埋もれてへたり込み、香織の傘が豆粒のように小さくなってゆくのを見送った。
 通行人が迷惑そうに紙袋を跨いで通り過ぎていた。背後に人の気配を感じる度に紙袋を通路の隅へとズルズルとずらした。通路の隅まで動かした終わった時、またも背後に人の気配を感じた。
「すみません。すぐ、どかしますから。」と真知子は気だるそうに詫びると紙袋をズルズルと引きずって他の隅へ動かし始めた。男も一緒に手伝い始めた。真知子は男の顔を見た。
「久しぶりです。早瀬です。」
「アッふっ、あの、あの今。あっちへ、ひぇっ! どうして、どうしてぇぇ?」真知子は香織が向かった方向を指さしたきり、すっかり動転した。
「僕は会社に戻る途中で雨宿りしていたところです。こんな所で会えるとは思いませんでした。」
 龍一は真知子が指さす方向を見た。「僕の会社に何か用事でも?」
 真知子は舌がパニックした。「はぇっ、あ、あの私、好きなの。」
 龍一のこめかみがピクッと動き、二人の動きが止まった。
 そこへちょうど香織が戻ってきた。「早瀬さん、探したわ。ねぇ、何か食べもの好きなの教えてください。」
「そうそう、好きな食べ物よ。食べ物よね。アッハハッ。好きな食べ物に決まっているじゃないよね。」真知子は香織の顔を見ると急に舌が回り始めた。
 真知子は早瀬を食事に誘うと龍一はガイド役をかって出た。「いいですね。会社もまもなく終わる時間ですし、一緒に行きましょう。いっそのことガイドブックに載っていない店はどうですか。」
 真知子はホッとした。

 真知子がいい感じで打ち解けて話す様子に香織は遠慮してトイレに行くと言ってフッと姿を消した。
「それでは帰りの新幹線は何時ですか。それに合わせて行きましょう。」と龍一が言った。
「あら。切符を香織ちゃんが持っていってしまったわ。ちょっと待ってね。時刻表を見れば思い出せるわ。」
 真知子はバックから時刻表を取り出して調べると言った。「まだ2,3時間は間があるから大丈夫です。」
 真知子が時刻表を閉じた時、龍一の目がその裏表紙に止まった。そこに桜の花に咲と書かれた小さなネームシールが貼ってあった。それはジュエリービーンズを入れた小袋
に貼られたネームシールとまったく同じものだった。
「これは誰のものですか。」
「香織ちゃんが持ってきた物だけれど。元は鹿島係長のお客さんが忘れていったものだと言っていたわ。」

 戻ってきた香織を連れて3人は山下公園通り裏のドイツ料理屋ホフブロウへ向かった。かつて外国人船員の溜まり場と言われ、古びた黄色い看板がオールド横浜の雰囲気をよく伝えている。ここは地元浜っ子だけに知られた老舗だ。
 白いテーブルクロスの上には名物のソーセイジ料理が並び、ドイツビールで酒杯を重ねた。真知子はいつになくハイで勧められるままにジョッキを空にした。
 テーブルが空皿ばかりになった頃、真知子はフラフラする足で立ち上がろうとした。龍一が咄嗟に肩を支えた。真知子は龍一の肩にしなだれて甘い声で言った。「ワォッ! 早瀬さんにエスコートしてもらっちゃったぁ。ウッフフ、ラッキーぃぃ!」真知子は上機嫌で化粧室へ向かった。

 真知子が化粧室の中に消えると龍一は香織に尋ねた。「鹿島さんと桜川咲さんは知り合いだったのですか。」
 龍一は時刻表に貼られたネームシールについての疑問を投げかけた。しかし香織は桜川咲の名に見覚えなかった。
「えっ! この時刻表は桜川咲さんという人のものなんですか!」と香織が予想外の驚きを見せた。そしてさらに質問した。「桜川さんという人はどういう人なのですか。」
「彼女は美並由美子さんの昔からの友達のようですよ。」
「美並さんって、あのベイシティシステム社の? 本当ですか。」
 さらに尋ねようとした時、真知子がテーブル伝いに手を突きながら戻ってきた。龍一と香織は急に口をつぐみ、桜川咲の話はそこまでで途絶えた。

 店を出ると真知子はよろめいた足で歩き始めた。数歩進んだところで雨上がりの歩道に足を滑らせた。転倒する寸前、龍一に支えられて助けられた。
「また。エスコートしてもらっちゃった。うれしいっ。」龍一の肩に掴まったまま真知子は離れようとはしなかった。
「真知子ちゃん。早瀬さんが困っているわ。私が肩を貸してあげるから。」と香織が真知子の身体を引き受けようとしたが真知子が抵抗した。
「今日は早瀬さんじゃなくちゃいや! ねぇ。早瀬さん。迷惑なの。ねぇ。迷惑なの。教えて。ねぇ。ねぇってば。」
 絡む真知子を龍一は受け止めて歩き始めたが、龍一は抱えた荷物と真知子に難渋した。二人は団子のなったままよろよろと進むと水たまりに片足を突っ込んだ。
 すると突然、龍一の顎の下に挟まった真知子の顔が急に離れると、何を思ったのか真知子は自分の荷物を抱えて、もつれた足で先に歩き始めた。龍一と香織は残りの荷物をまとめると真知子の後を追った。
 しかし5メートルも歩かないうちに紙袋が1つずつ歩道に落ちた。また1つと紙袋が歩道に転げ落ち、点々と歩道に紙袋が転がった。香織が呼び止めると真知子は急にその場にへたり込んで泣き始めた。「もう、持てないよぅ。もぅ。どうしよう。」
 香織が真知子をなだめて言った。「こんなに酔っ払ったら荷物持って帰れないわ。今日はどこかに泊まりましょうね。」
「泊まっていいの? 香織ちゃん。ごめんね。本当にいいの? ごめんね。ねぇ、本当にぃ。」と真知子はグスグスと涙を拭きながら香織にしつこくからんだ。

 ホテルの部屋をとると龍一は真知子を抱えてベッドに寝かせた。先ほどまで盛んに龍一に甘えていた真知子だが横になるとすぐに寝息をたてた。
 ベットサイドの明かりを落とし、香織と龍一はともにベッドに腰掛けて真知子の寝顔をしばらく見つめた。
「ごめんなさいね。こんなに迷惑かけてしまって。」と香織が声をひそめて言った。
「いや。僕も悪いことをしてしまった。少し酒を彼女に勧めすぎてしまったようだ。」
「でも彼女も貴方に会えてとても嬉しかったみたいね。彼女がいつも言っていたわ。早瀬さんはとても頼りになる人だって。」
「そんなことないさ。」
「いいえ。さっき、真知子ちゃんをずっと抱きかかえている早瀬さんを見ていたら彼女の言うとおりだなと思ったわ。」
 香織は幸せに満たされて寝息を立てる真知子が羨ましかった。それに比べ香織の心には寂しさが忍び寄っていた。
 部屋の窓には港の夜景が広がっていた。青と赤のマリンタワーのネオン、ベイブリッジの青いライトが、ここが横浜であることを印象付けていた。
 香織は思った。鹿島哲也は時刻表が葵のものだとなぜ偽ったのだろうか。香織は日暮れの三島を思い出した。あの日、鹿島の車に乗っていたのは桜川咲という女なのだろうか。もしそうならば美並由美子の友人がなぜ鹿島に会いに来たのだろうか。美並由美子とは仕事以外の関係があるのだろうか。桜川咲を隠す理由は何なのだろうか。疑う心は次第に香織の心を夜の闇のように覆い始めた。

 横浜の夜景に見入る香織の背後で龍一の声がした。龍一はベットから立ち上がり別れを告げるとドアーに向かった。
「待って! 行かないで。」香織が呼び止めた。彼女の手には薄いレースのカーテンが強く握りしめられていた。
「貴方はホフブロウで鹿島さんと桜川さんが知り合いなのかどうか、私に尋ねたわね。その答えを私も知りたいわ。いったい桜川さんと鹿島さんの間に何があるのかしら。貴方は何か知っているのでしょう?」
 龍一は香織に背を向けたまま言った。「僕にもわからないのです。ただ感じる事は桜川さんの様子が最近少しおかしいことです。」
「様子がおかしいって?」と香織は龍一の言葉を反芻した。
「少し前になりますが、彼女から1通の意味ありげな電子メールをもらったきり音信不通なのです。心配なのでそれから電話で何度も連絡をとろうとしたのですがずっと不在でした。友達の美並由美子さんでさえ連絡が取れないようです。」
「彼女の家には?」
「いいえ。まだ家には行ったことはありません。」
 香織はレースのカーテンを引き、夜景を閉じると言った。「お願いがあります。今、桜川さんに会わせてくれませんか。」
 龍一も咲の様子を確かめたかった。真知子を置いて二人は部屋を出ていった。

 タクシーを拾うと龍一は咲の電話番号を告げた。運転手はカーナビゲーションに電話番号を入力すると咲の家がモニター画面に現れた。場所は横須賀並木町のシーサイドタウンの中のようだった。
 車は夜の高速道路へ入った。船の灯り。石油プラントの灯り。横浜の夜景を形作る灯りの帯が車窓を流れていった。香織は何も言わずそれを眺めていた。車は本牧埠頭を抜けて開通したばかりの高速湾岸線を横須賀へ向かった。
 高速道路を降りると整然と並ぶマンション群と広い道路に沿って直線的に整列する街路灯の中をゆるゆると進んだ。無数のマンションの中からカーナビゲーションは1つのマンションを選ぶとモニターに到着を告げた。
 運転手はドアーをすぐに開けずにモニター画面と幾度も照らし合わせて言った。「一応さぁ。モニターじゃ、ここの3階の右から2つ目の部屋だと表示しているけどよぉ。この電話番号に間違いがなければ多分合っていると思うよ。」
 タクシーを降りると車は逃げるように消え去った。辺りは通る人も車も見あたらず、街灯の明かりの中に街路樹だけが鬱蒼と立っていた。
 二人は運転手が言っていた部屋を見上げた。部屋にはカーテン越しに明かりが見えた。
「居るみたいだな。」と龍一が言った。
「でも、女の一人暮らしなら不在でも泥棒避けに点けていることもあるわ。」
 エレベータに乗り、部屋の前に行くとドアーには坂堂勇の表札がかかっていた。
「やっぱりあの運転手さんは見間違えたかもしれないわね。」と香織は溜息混じりに言った。
「あるいはカーナビが甘いのだろう。かなり古いタイプだったからね。さて、電話番号しか手がかりないし困ったな。」と龍一は言うと試しに携帯電話をかけてみた。しかし、やはり応答はなかった。
「せっかく一緒に来ていただいたのにごめんなさい。」と香織は頭を下げた。
「こんなに同じマンションがたくさんあれば仕方ないですよ。貴女が悪いわけではないですよ。」

 二人の背後から男の声がした。「すんません。ちょっと前を通してくれませんか。」
 ユニフォーム姿の男は二人の間を割って通ると坂堂勇の部屋のインターフォンを鳴らして怒鳴った。「宅配便でぇす。」
 しかし部屋からは待っても何の応答もなかった。男はしびれを切らすとメモをドアーの郵便受けに挟むと荷物を持って消え去った。
 龍一は郵便受けからはみ出した黄色い紙の配達メモに目をやった。
「あっ。やっぱりここです。彼女の家は。」と龍一が小さく叫ぶと香織が駆け寄った。メモには「坂堂勇様方 桜川咲様」と書かれていた。
「何か便箋のようなもの持っていませんか。」と龍一がきくと、香織はハンドバックからベイブリッジの夜景を撮した絵ハガキを取り出した。龍一は家に訪ねて来たことを伝言として書き込み、郵便受けに挟み込んだ。そして二人はきびすを返すとエレベータに向かった。

 エレベータのドアーが開いた。龍一が先に乗りドアーの開放ボタンを押して香織が乗るのを待った。その時、香織の背後で絵はがきがすっと郵便受けの内側へ吸い込まれていくのを目撃した。
 閉じかけた扉を龍一は足で蹴り上げ、香織の腕を引っ張り、箱を飛び出した。龍一は部屋のドアーを連打し咲の名前を叫んだ。
 しばらくすると鍵の外れる音とともにドアーがわずかに開いた。
「開けて下さい。早瀬です。」
 龍一はドアーノブをつかむと力まかせにこじ開けようとしたが、ふと思い直してそっと開けた。
「今度は開け方うまくなったみたいね。」と内側から声がした。ドアーの内側にはガウンを着た咲が立っていた。
 部屋の壁には絵やポスターが飾られ、ソファには一人分の座るスペース以外はぬいぐるみが占領していた。女の子の城といったような感じの部屋だった。咲はぬいぐるみをソファから降ろすと二人に座るよう勧めた。
「咲ちゃん。何か具合が悪そうだね。」と龍一が言った。咲の顔は青白くやつれたような感じだった。
「うん。ちょっとね。でも大したことないから心配しないで。二人ともコーヒーで良いかしら。」
 咲はキッチンに立つとコーヒーの用意を始めた。豆の香りがソファまで漂ってくると突然、咲が口を押さえて嗚咽して屈みこんだ。
 香織が駆け寄り咲を介抱するとベッドに寝かせた。咲はむせびながら苦しそうな声で訴えた。「コーヒーの匂いがダメみたいなの。止めて。ゴホッ!」
 龍一が急いでコーヒーメーカーのスイッチを消し、窓を開け放ったが、それでもなお咲は嘔吐するように背中を震わせて苦しがった。
 次第に容体が落ちつくと咲は言った。「もう吐くものがないから、もう大丈夫よ。」
 香織が尋ねた。「何も食べてないのですか?」
「うん。食べられないのよ。」
「いつからなの?」
「今月に入ってから。本当にもう心配しないで。これは病気じゃないから。」
「病気じゃないって。もしかして、つわりみたいね。」と香織が言うと咲がこっくりとうなづいた。
「つわりで苦しいでしょうけれど、具合が良いときに何か少し食べておかないと身体が参ってしまうわ。そうね。何か口に入りやすいものを作って置いてあげるわね。」
 香織はキッチンに立つと海苔巻きを作り始めた。
 龍一は咲の背中をさすりながら言った。「咲ちゃん。もっと早くわかっていたら僕や由美子さんが手助けしてあげたのに。何度か連絡を取ろうとしたけれどいつも不在だったんだ。」
「ごめんなさいね。こんな咲を知らせたくなかったのよ。」
「だって、おめでたじゃないか。あの表札の坂堂勇さんという人が彼氏なんだろ? 今度、紹介してほしいな。お祝いしてあげたいしさ。」
 咲は初めて笑った。「あの坂堂勇は七十のお爺ちゃんよ。この部屋の名義人になっている咲のお爺ちゃんなの。女一人の表札は不用心だからついでに名前も拝借しているのよ。」
「何だ。そうだったのか。アッハハ。それならお腹の子のお父さんは?」
 咲は答えようとはしなかった。香織は海苔巻きのロールに包丁を入れようとした手を止めて咲の目を見た。龍一も咲の目を見た。
 咲は視線に耐えきれずにつぶやいた。「鹿島哲也です。」
 香織は持った包丁を落とした。
 一瞬の沈黙が龍一の声で途切れた。「まさか。咲ちゃんがどうして鹿島さんを知っているんだ。まだ会ったこともないはずなのに。」
 咲はゆっくりとベットから起きあがると化粧台の引き出しから鹿島からの手紙を龍一に見せた。それは小切手に添えた咲に宛てた手紙だった。「これが証拠よ。」
 龍一は短い手紙に目を通すと詰問した。「鹿島さんとなぜこうなってしまったんだ?」
「覚えているかしら。由美子のマンションで早瀬君と賭けして咲が負けたのを。咲はその約束を守っただけよ。でも・・・」そのあとの経緯を話す咲の言葉を香織はじっとキッチンで立ったまま聞いた。
 そして全ての話を聞き終わった時、香織は作りかけた海苔巻きを手で握りつぶした。



 龍一は香織をホテルへ送り届けるとそこで別れた。
 彼は人けのない夜更けの地下鉄のプラットフォームで一人電車を待った。中年の酔っ払いが側に寄って来て何やら愚痴をこぼしていたが、何も聞こえてこなかった。頭の中は咲の事でいっぱいだった。
 酔っ払いの男は龍一に相手にされないと見るとそばを離れて行った。

 乗客のまばらな電車がやってきた。
 咲を不憫に思った。いずれお腹の子を堕ろさなければならなくだろう。やっと芽生えた命を絶たなければならないのは耐え難いことだろう。だが咲はその苦しみを一人で背負おうとしていた。鹿島哲也にすら妊娠したことを伝えていなかった。咲は鹿島に同情を買われることを嫌って彼との接触をも絶っていた。
 電車は暗い地下トンネルにいた。時折、過ぎ去るトンネル中の蛍光灯が電車が進んでいることを告げていた。
 咲が見せた鹿島の手紙によって小切手の事実を知った。それは由美子のマンションの解約金と咲に対する慰謝料を一緒にしたものだった。解約金も含めたことで咲が受け取りを断れないようにした鹿島の策だった。
 手紙には咲が納得する額だけ受け取り、残りは由美子に渡してほしいと書かれていた。しかし咲はそのまま全額を由美子に手渡した。
 だが鹿島から金を受け取ってしまったことに変わりはなかった。咲の無念さはかつてテニスコートの駐車場で受け取った龍一への電子メールに込められていたのだった。咲は龍一と由美子の3人で会社を作り、鹿島に見返してやることが復讐だと考えた。咲は無念さを晴らすために龍一らに立ち上がることを求めていた。

 他の乗客に相手にされなかった先程の酔っ払いがフラフラとやってくると龍一の隣に座り、愚痴を言いはじめた。「なぁ。バカにすんなって言うんだよな。貴方は酒乱の傾向がありますねってだってよ。どこで調べてきたのか知らんけれどよぅ。俺はね。俺は一言も酒を飲むなんて言っていないんだよ。なのによぅ。それで採用しませんだとよ。世の中、最近何かおかしいじゃないの。なぁ。兄ちゃん。わかるだろう?」
 龍一は考えを中断されると不愉快になったが黙って無視し続けた。すると酔っ払いは自分が納得するまでしゃべり続けた。
「やっぱしよぅ。サラリーマンは辛いよね。人に雇われる身じゃ、酒もおもっきり飲めないものね。今日も少々しか飲めなかったのよね。ほんの少々よ。辛いよね・・・。
俺なんか手に技術も何もないからさ。しょうがないんだけれどさ。腕に確かなものがあったらさ。自分で会社作ってさ。あの天狗になった人事部長の野郎の鼻をあかしてやりてぇよ。畜生ぉぉ。
あの野郎はヘラヘラした顔をして俺を断りやがった。俺が今こんなに辛い思いしてるのによ。今頃は奴らはヌクヌクと安眠をむさぼっているんだろう。畜生ぉ。」
 聞くまいとしていた酔っ払いの言葉が咲の無念さを代弁していた。龍一は無意識に男の肩を優しく叩いた。男はうつむくと目に涙を貯めた。

 電車はセンター南駅に到着した。しかし龍一は降りる気がしなかった。
 さらに2つ先の中川駅で降りて美並由美子の家に向かった。咲が願った会社設立が本当にできるものかどうか、由美子に聞いてみたくなった。
 駅前広場から石造りの陸橋を渡る時、駅前ロータリーの真ん中にそびえる白いオベリスクが暗い夜空にかかる月に向かって剣を突き立てて何かを迫っているようだった。

 ふと急に思い立った。はたして由美子に咲と鹿島哲也との関係を話していいものかどうか迷った。由美子と鹿島の縁が本当に切れているなら由美子は咲の気持ちをわかってくれるだろう。しかしまだ鹿島に対して情が少しでも残っていたら由美子の反応が予測できなかった。
「やはり止めよう。」と独り言を言い、来た道を振り向いた時、目の前に階段を登ってくる由美子と目が合った。
 由美子は会社帰りの様子で手にコンビニの袋を手にしていた。彼女は龍一を見つけると駆け寄り、仕事の引継のための整理が忙しくて帰宅が遅くなってしまったことを告げた。
「引継って。じゃあ。仕事の担当替えをしてもらえることになったのですか。」と龍一が尋ねた。
「そうだったら良かったけれど。担当替えの希望は遂に聞いてもらえなかったわ。だから思い切って言っちゃった。辞めますって。カッコいいでしょう。」と由美子は妙に明るく言った。そして退職は約1か月後であることを教えた。
「早瀬さんこそ、どうしたの。こんな遅くに。」
「ちょっ、ちょっとパチンコでもしようかと思ってね。」
「嘘っ。だってお店のシャッター閉まっているわよ。」由美子が指さす方向を向くとパーラー二十二世紀のシャッターはすでに降りて店員が花輪を片づけていた。
「あぁ。そのようだね。またにするよ。じゃあ。お休みなさい。」
「ちょっと待って。」と由美子は階段を降りようとする龍一を引き留めた。彼女はパン、マヨネーズの入った袋を掻き回して奥からスティックアイスを取り出すと龍一に勧めた。「帰るのは一緒に食べてからにしない? バニラにする? それともアズキ?」
 二人は陸橋の上でオベリスクを眺めながら口にした。
 最後の一口だけになると由美子が言った。「何か話したいことがあったのでしょう?」
 龍一はうなづくと重い口を開いた。「咲ちゃんが先日、電子メールで会社を作ろうと書いてきたけれど。どうやったら良いのか聞きたくなってね。」
「それが聞きたかったの?」「そうなんだ。」
 由美子は問われるままに素直に答えた。「それにはまずクロスセンシングとプロファイラの二つのシステムが揃わないとダメよ。」
「プロファイラシステムはベイシティシステム社にあるから良いが、問題は東海センサス社にあるクロスセンシングシステムをどうやって手に入れるかだな。何とかコピーできないものかな?」と龍一は質問した。
「もしかして黙ってコピーするつもりなの。それは無理よ。東海センサス社の通信回線は絶対に侵入できないわ。」
 東海センサス社の通信回線はハッカーなどの侵入を防止するファイアーウォールと呼ばれる防御システムが非常に強力であり、外部からの侵入を二十四時間常時監視する体制が敷かれていた。
「僕たちがコピーできないでいるうちに、逆に鹿島さん側がプロファイラシステムを手に入れようとして来るんじゃないかな?」
「その可能性はあるけれど、その心配はきっとないと思うわ。鹿島さんはコピーしても今は引き取れないはずよ。」
 プロファイラシステムの持つデータは十二テラバイトもあり、5ギガバイトタイプのDVDーRAMでも約2千4百枚に相当する量だ。その膨大なデータをシステム運用監視部門の目が光る東海センサス社のコンピュータの中に持ち込むことができない。つまり、どこにも保管することができないからだ
「すると僕たちも鹿島さんもお互いに手が出せないわけか。」と龍一は木のスティックを口に挟んだまま言った。
「そう。だれも手が出せないわ。それに私が来月退職したら、うちの会社のコンピュータにアクセスするID番号を失うわ。そうなると私もプロファイラシステムに触れることができなくなってしまうわ。」
 ベイシティシステム社では由美子以外にプロファイラシステムの存在を知っている社員はいない。そのため由美子がアクセス出来なくなれば、会社のコンピュータの中で誰にもその存在を知られずに永久に葬り去られる運命にあった。つまりあと1ヶ月以内にプロファイラシステムをベイシティシステム社からどこか別の場所に移さなければ誰も二度とアクセスできなくなる可能性があった。
「そんな大きなシステムが入るコンピュータなんて手に入らないわ。会社を作る夢をみても絶望するだけよ。貴方にそんな虚しさを味わって欲しくないわ。失望するのは私だけで充分よ。」
「失望するは早すぎるよ。このアイス。ほら。当たりだ! もう1つ貰えるよ。」と龍一は木のスティックに刻印された当たりの印を見せた。
 龍一は当たりのスティックを誇らしげに夜空にかざすと由美子も眺めた。由美子は思った。本当に失望するのは早すぎるのだろうか。それともたかだかアイス一本だけのちっぽけな望みにすぎないのだろうか。


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