第十四章 戦え。僕らのモーションブロブス 数日後、もう一つの当たりが別の場所であった。 反町孝治はテレビのチャンネルを湘南ロコウェブ局に合わせるとスティックアイスを舐めながらお目当ての番組が始まるのを待っていた。 「さあ。お待ちかね。今、クラスで話題沸騰のゲーム。モーションブロブスにオンしてみよう。今日のゲストはモーションブロブス制作元のブロブッ、ブロブディンナジオ社の、おっと舌を噛みそうだ。お馴染みの清水春樹博士をお招きしております。ハイッ。拍手ゅーっ!! イェーィ! ベエィベェー!」 「今晩はぁ。清水です。」 異常に陽気なディスクジョッキーの佐和田健吾とは裏腹に、清水春樹は気だるそうな挨拶で登場した。佐和田、清水ともにこれが唯一のレギュラー番組である。 「今日も多くのキッズ諸君から清水博士へメールを貰いました。サンキューベロベロマッチです! 最初のお便りを読みましょう。横浜市にお住まいの小学5年生の特命希望の反町孝治君からです。イェーィ!」と佐和田が紹介した。 孝治は画面の前で「当たった! 当たったぞぅ!」と一人で歓声をあげた。食べかけのアイスを放り出すと画面の前にかじりついた。 佐和田は画面に向かって孝治に呼びかけた。「おい。孝治君、匿名の字が違っているぞ。読んじまったよ。まだ小学生じゃ習っていない漢字かな。ゴメンな。それでは読みます。・・・清水博士様。モーションブロブスではヘリコプターが飛ばせません。ヘリコプターを救難活動の場面に使いたいです。消火活動なんかに使える、火災なんかにビクともしない強い奴がいいです。そんなヘリコプターのデータを下さい。・・・というお便りですが。消火活動に使える頑丈な奴が欲しいなんて書いてあるけれど、孝治君。本当に消防に使うのでしょうかね? 清水博士。どうしましょう。ドラえもんの竹コプターでも与えておきましょうかね?」 孝治は画面を叩いて、文句をブツブツと文句をつぶやいた。 「まぁ。ヘリを何に使うのか、ちょっと怪しい感じもしますが、いいでしょ。私の秘密研究所にある秘蔵データをお送りしましょう。」と清水は言うと、おもむろにジュラルミンケースの鍵を開け、ディスクを取り出してテレビに映した。 佐和田はディスクを機械にセットするとマイクに向かって叫んだ。「それじゃあ。ヘリで楽しんでくれ! 孝治君いいか。みんな! 画面右をクリックしてくれ。データを送るぞぉ。」 全国の子供達が一斉に画面をクリックした。湘南ロコウェブ局から発信されたデータはCATV回線、あるいは通信衛星を伝わって各家庭のテレビの記憶装置に配信された。 反町孝治も画面をクリックして受信し終わると、自分のテレビにそのデータを組み込んだ。 孝治は次に大和武雄の家にテレビ電話をかけた。テレビ電話に武雄の顔が映った。 「やぁ武雄。おまえの家、テレビ電話を取り付けたんだね。」 「そうだよ。僕んちさ、お父さんがテレビ電話を買ったんだ。見える?」 「うん、良く映っているよ。」と孝治が答えた。 「あっ、孝治のおばさんだ。お邪魔してます!」と武雄はテレビに向かって大きい声でお辞儀した。 「武雄さ。家に上がっているんじゃないのだから、お邪魔しますはいいんじゃないの。」 「そうか。やっぱり変かな。・・・」 孝治の母親の時子は愛想良くカメラに向かって手を振ると、取り込んだ洗濯物を抱えて部屋を出ていった。 「ところでさ。モーションブロブスのヘリコプターのデータが欲しいって、湘南ロコウェブにリクエストしたら、今、配信してもらえたんだ。」と孝治は得意げに言った。 「それじゃ、ディスクジョッキーにメール読んでもらえたの?」 「そうさ。特命にして名前も読んでもらったんだぜ。」 「すげえなぁ。有名人になったみたいだなぁ。」と武雄は羨望のまなざしで言った。 「それでね。そのリクエストしたデータが手に入ったから、一緒にやらないか。」と孝治はゲームに誘った。 「いいよ。2万分の1のスケールで、うちの近くのマップでどうだ?」 孝治がキーボードを操作して画面にスクールブロブスという地図ソフトウェアを呼び出し、同級生の重田誠の電話番号を入力した。スクールブロブスは電話番号から重田誠の住所録を検索すると画面に横浜市北部の地図を出した。画面中央の印をマウスでクリックすると港北ニュータウンの拡大図が拡大した。さらにマンションを示すシンボルマークをクリックすると立体的なマンションが出現した。 「孝治さ。誠の家を勝手に標的にしていいのかよ。」 「あいつ。この前から気にいらねえから、いいんだよ。誠んち、なんて消えちまえばいいんだよ。」 反町孝治と重田誠は5月連休に起きたシアターでの喧嘩以来、仲がしっくりいかず次第に孝治は誠を嫌悪するようになった。 続いてモーションブロブスというゲームソフトウェアを呼び出してスクールブロブスと連結するとゲームがスタンバイした。 「OK、よし、スタートだ!」と孝治は叫ぶと画面に表示された火災報知器をクリックした。 二人の姿を映すテレビ電話映像は画面の右下に小さく縮小され、代わりにゲーム画面が画面一杯に広がった。地図を元に3次元コンピュータグラフィックスで忠実に再現された港北ニュータウンの町並みが画面奥まで埋め尽くされた。 消防署の玄関口の赤色灯が回り、サイレンが鳴った。消防士達が赤い戦車に飛び乗るとキャタピラー音をがなり立てて車庫から飛び出した。戦車は千五百馬力ガスタービンエンジンを持つM1エイブラムスだ。その余りある馬力は通りがかりの乗用車をペシャンコに踏みつぶして、その見事な快適な走りを発揮した。 武雄は十二両の戦車を従えて6車線の広い道路を現場に急行した。真っ赤な迷彩色を施した装甲には金字の消防署のマークが威風堂々と描かれていた。 信号待ちをしている車の列の後ろから戦車がやってくると車を踏みつぶしながら進み、先頭の戦車が赤信号に差し掛かった。そこへ横から信号を無視して走ってきた暴走族を見つけるとスピーカーで「赤信号、直進します。」と警告するなり、機銃掃射で暴走族のバイクを木っ端みじんに吹き飛ばした。 重田誠のマンションに近づくと戦車は散開してマンションの回りを取り囲んだ。4階の重田誠の部屋の窓からマンション自治会の垂れ幕が提げられていた。垂れ幕には「消費税8%反対!もう家計は火の海!」と書かれていた。 戦車隊は垂れ幕を狙って砲塔を旋回させた。 「消火開始!」と武雄が叫ぶと百五ミリ戦車砲が炸裂した。十二門の直撃を受けて誠の家は一瞬のうちに崩壊した。 「やったあ! 一発でブッ飛んだ!」 「マンションの真ん中から向こうの空が見えちまっているぞ。」 孝治側はマンションの一階の学習塾の窓から自治会理事長が対戦車砲で狙いをつけた。対戦車砲の直撃を食らって戦車が2台まとめて吹っ飛んだ。戦車隊はビルの物陰へ後退をした。 武雄は市交通局に支援を要請した。すぐに市営地下鉄の線路上に列車砲が牽引されてくると地下トンネルを抜けて地表に現れた。無蓋車に積まれた長射程砲が長い砲身を持ち上げた。狙いが定まると腹に響く轟音とともに火を放ち、砲弾は長い航跡を残して塾に向かった。 「おぉ! 塾がなくなったじゃん。いいぞっ。いいぞっ!」 マンションが崩落すると画面から消えた。孝治は最前線が陥落すると自分の家の電話番号を入力した。 「誠んちは捨てコマさ。本命の司令陣地はこっちさ。」と孝治が言った。 「おいっ孝治! 自分の家も標的にするなんて。おばさんに見つかったらマズいんじゃないの。」 武雄軍は孝治のマンションめがけて十台の戦車を進軍させた。 戦車隊は孝治の部屋に標準を合わせようとした時、マンションの2階窓が突然爆発した。爆発が止むとビルを突き破った大きな空洞の向こう側に攻撃ヘリAH64アパッチが2機現れた。それはリクエストして手に入れたばかりの消防用ヘリを武装改造したものだ。 アパッチは空洞越しに二・七五インチロケット弾を斉射すると4両の戦車が一撃で破壊された。 アパッチの攻撃を避けるため、マンションめがけて全ての戦車砲を使って弾幕を張りながら後退した。厚い弾幕を受けたマンションは壁面が割れ、マンション全体が崩れ落ちた。 崩れ落ちたマンションの噴煙が立ち上った。武雄はじっと噴煙の収まるのを待った。 しかし薄くなった噴煙の中にアパッチの残骸は見えなかった。その次の瞬間、新たな噴煙とともにアパッチがホバーリングしながら、ゆっくりと浮上した。自治会消防団と書かれた黒い機体が浮かび上がった。マンション裏の窪地に潜んでいたのだ。 戦車砲が標準を合わせるよりも早く、アパッチがレーザー標準を合わせるとヘルファイア対戦車ミサイルが連射された。 画面下にカメラに映る武雄のひきつった顔が一瞬目をつぶった後、開くと画面には火を吹きながら逃げまどう戦車隊があった。 「スカッとするじゃん!」と武雄はご満悦だった。 「やられても面白れぇなぁ。」 「孝治っ! 大変だ! おまえの後ろを見ろ! おまえのおばさんがテレビで見えるぞ!」 「えっ!」と孝治が振り返えった時、背後から母親の時子に襟首を掴まれた。 「孝治! いくらゲームとはいえ、自分の家を壊して遊ぶなんて許さないわよ! パパがこのマンションを買って、どれだけ苦労しているか知っているのっ!」 「わかっているよ。バブルの高い時に買っちゃったんだよね。まだローンが残っているんだよね。」 時子が孝治の頭をビシッと平手打ちした。 「ごめんなさい。もう、うちは壊さないから。この次は武雄君の家にするから。」 2発目は強烈だった。孝治の悲鳴とともにテレビから武雄の映像がスッと消えた。 「孝治っ! このゲームは有害指定のものと違うの? どこで手に入れたの? 言いなさい!」 「ふぁい。学校で買ったスクールブロブスだよ。」と孝治は半べそで答えた。 「嘘つくんじゃないよ。スクールブロブスは学校から電子地図帳を教材として使うからと言われたから買ったはずよ。」 「嘘じゃないよ。スクールブロブスにモーションブロブスという乗り物ゲームソフトを組み合わせて使っているの。」 「先生に自分の家や塾を壊して遊びなさいって言われたのですか!」 「だってぇ。ママ。江戸時代の消防は周りの家を壊すのが仕事だって学校で習ったんだもの。」 3発目の平手打ちが飛んだ。「屁理屈ばっかり知恵がついて、肝心なテストはダメなんだから。さっさと塾に行きなさい!」と時子が怒鳴ると孝治は泣きじゃくりながら塾へ行く鞄にノートを入れ始めた。 「塾だって安くはないんだからね。少しはお兄ちゃんを見習って良い大学に入らなきゃだめでしょ。さぁ。しっかり勉強しなさい。」と時子が言うと、兄の秀介が顔を出した。 「孝治君。そのスクールブロブスを貸してくれないかな。」と秀介が言った。 「ママぁ。何でお兄ちゃんはブロブスで遊んでもいいの?」と孝治は時子に泣きながら訴えた。 「僕はね。君と違って戦争ごっこなんかしないんだよ。今、大学の論文の参考に使うんだよ。ねっ。」と秀介は腕組みをしたまま孝治を見下ろして言った。 一方、清水春樹は湘南ロコウェブ局の放送を終えると横須賀にあるブロブディンナジオ社に戻ってきた。 開発部に戻ると女子社員達がすぐに取り巻いた。「清水ハカセェ。お疲れさまぁ。みんなで放送聞いていましたよ。子供達のヒーローなのねぇ。」 「そのハカセと呼ぶのは恥ずかしいから、頼むから止めてくれよ。今度私のサイン入り色紙あげるからさ。」 「いらないわ。だって博士の字って汚いんだもん。それより今度、番組に私達もデビューさせてちょうだい。博士ぇ、お願い、よろしくね。」 「だから博士と言うのは、およしなさいって。」 「よぉ。清水博士。」 「博士はよしなさいって、何度言ったらわかるの。おバカなんだから!」と言うと女子社員がサッと引いた。そこには社長の坂堂勇が笑みを浮かべて立っていた。「すまないけれど。このおバカに教えて貰いたいことがあるんだが。」 「はっ、はい。」と清水は硬直したまま答えた。 坂堂社長は清水に上司の部長とともに社長室に来るように告げるとすっと去って行った。 ブロブディンナジオ社は3次元電子地図を手がける中堅会社だ。学校教材用に開発したスクールブロブスという立体電子地図帳が学校教材指定となってからは大量受注により一気に業績が伸び、今では業界2位のシェアを誇るようになった。 清水は上司の開発部長の和田喜久夫とともに社長室に入室した。社長室には営業部長の荒山耕三が先に待っていた。 「実は困ったことがあってな。」と坂堂社長が言うと3人は緊張した面もちで社長の言葉に聞き入った。 「学校指定教材のスクールブロブスのことだが。最近、悪い噂が広がって相次いで学校指定の取り消しを受け始めて困っておるのだ。それというのもスクールブロブスと連結して遊ぶモーションブロブスがどうやら原因らしいのだ。そうだよなぁ。荒山君。」 荒山営業部長は社長の話を引き継ぐ形で詳しく説明した。荒山の話によるとスクールブロブスはコンピュータで立体的に表示する電子地図帳で、全国市町村どこでも忠実に町並みを再現できるものであった。 一方、モーションブロブスは知的教育ゲームであった。その本来の遊び方はスクールブロブスで描かれた立体地図の道路をモーションブロブスで作った自動車や、電車を走らせたり飛行機を飛ばせて遊ぶものだった。 ゲームの遊び方は何百通りもの遊び方があり、例えばピザ配達の車で地図の中の友達の家まで配達する時間を競い合ったりして遊ぶようになっており、そのリアルな現実感が子供達に受けてヒットした。 そして遊びながら地図の知識を学べるということで、学校によってはスクールブロブスとセット販売の推奨を受けるほど評判も上がり、ブロブディンナジオ社最大のドル箱商品に成長した。 しかしその人気に水を差す事件が起こった。荒山は手元のファイルから新聞のコピーを取り出して見せた。新聞には4ヶ月前、東京のある小学生が同級生宅に放火する事件が掲載されていた。警察の取り調べで放火の動機がテレビゲームに影響されたらしいとの報道があった。そのゲーム名は報道されなかったものの、その後ゲーム業界ではモーションブロブスに影響されたらしいとの噂が流れ始めていた。 その事件より数か月前から子供達の間で密かに自動車を戦車に改造して市街戦ゲームにすることが流行ってきていた。それは仲の悪い生徒の家を標的にして遊んだり、あるいは塾や学校を破壊して遊ぶような陰湿な遊びに発展しているようだった。 事件はゲームの中での破壊に飽き足らなくなった子供が、ついに現実の世界でも破壊に走ったと見られた。事件の噂は次第に広がり、モーションブロブスを反社会的なゲームとして親達が買い控えする動きが東京、京浜地区を中心に出てきた。 一部の学校ではスクールブロブスとのセット販売を解除する動きや、モーションブロブスを禁止する動きが出始めていた。さらにはスクールブロブスまで購入を見送る動きまで出てきたのである。 坂堂社長はロマンスグレーの髪をすこし手で撫でながら言った。「清水君。君なら子供達の様子をよく知っていると思って聞くのだが、どのようだね?」 「はい。私の番組にも今年の春頃から戦車や戦闘機の作成データのリクエストが来るようになりました。友達の家を破壊して遊んでいることがわかってからは軍事車両のリクエストには答えないようにしておりましたが、最近では子供達も巧妙になり、無難な車両をリクエストして手に入れると自分達で改造しているようです。もはや手の打ちようがなくなってしまいました。」 清水の説明に続いて和田開発部長が付け加えた。「改造データは子供達の間で次々とコピーされて全国的に広がりつつあるようです。このように広がってしまったものは回収する手だてもありません。」 坂堂社長は話を聞き終わると溜息をついた。そして言った。「このままでは当社の業績ダウンは避けられそうもないようだ。これ以上、主力商品のスクールブロブスにまで影響が出るようなら、モーションブロブスの販売を中止しなければならなくなるしれない。スクールブロブスに対する学校側の信頼を回復するためなら、それもやむを得ないことだろう。」 和田開発部長は社長の決意を聞くと、深く頭を下げて謝罪した。「私達、開発部がこのような事態にならないようにモーションブロブスを軍事目的に利用できないようにしておくべきでした。本当にすみませんでした。」 「和田君。君達のせいだけではないよ。モーションブロブスの開発を勧めたのはこの儂だからな。」坂堂社長の言葉が途切れると4人の間に重い沈黙が続いた。 社長室のドアーがスッと開き、秘書がお茶の用意をして入ってきた。坂堂社長は顔を上げると声をかけた。「おっ。咲。身体は大丈夫か。心配していたぞ。」 坂堂社長の声に残りの3人はうなだれていた顔を上げた。 桜川咲はお茶を一人一人に配りながら答えた。「ご心配をかけました。何日も休ませて頂いてありがとうございました。ちょうどコーヒー豆を切らしてしまって。日本茶でよろしいかしら。」 荒山営業部長は太鼓腹の体を苦しそうに折って軽く頭を下げると礼を述べた。「お嬢様にお気遣いいただいて恐縮です。日本茶で充分です。お身体の具合はもうよろしいのですか。あまり無理なさらないでください。」 「ありがとうございます。胃の具合が悪かったものですから。でも、もう大丈夫です。私より皆さんの方が何かご心配事があるように見えましたけれど。」 「咲。おまえに心配かけるような事じゃないから心配するな。それより、おまえこそ心配をかけないようにしてくれよ。」と坂堂社長は咲の身を案じる言葉をかけた。 坂堂社長は溺愛していた孫娘の桜川咲が3年前に就職先を探しているとの話を聞きつけると、孫娘が心配のあまり強引に自分の社長秘書として引き抜いた。以来、咲は血縁の立場をフルに発揮にして社内で唯一社長に言いたいことが言える存在となり、社員達から一目置かれるようになっていた。 咲は社長室を出るとドアーに寄りかかり目をつぶった。身体の奥からこみ上げて来るつわりの不快感を覚えた。少し息を整えて不快感が引いていくのを待っているとドアーの向こうから彼らの話し声が聞こえてきた。 坂堂社長の声がした。「実は業績回復の手だてとして1つ新しいことを考えていたことがあるんだが。」 「新しい事業でしょうか。」 「そうだ。もう子供相手の商売はこれ位にして、ビジネス向けの事業に力を入れようかと思っている。つまりマーケティングリサーチ関係の事業を展開しようかと思っているのじゃよ。」 この頃のブロブディンナジオ社の電子地図は、例えば電話番号を入力すればその家が表示されたりする程度で、本格的なマーケティングの世界で使うには物足りないものだった。 そこで坂堂社長は新事業として個人情報データベースと地図をドッキングさせた地図データベース事業に進出したいことを述べた。 和田開発部長が口を差し入れた。「しかし社長、当社には個人情報のデータベースがありませんし、ノウハウもありませんが。」 「そう、そこが問題なんだ。儂も妙案がなくて困っておったのじゃ。何かいい方法はないものかね。」 再び4人の言葉が途切れた。しばらくの沈黙の後、席を立つ音がザワザワと聞こえた。咲はドアーから離れると秘書室へ消えていった。 咲は仕事を終えて会社の玄関前に出ると目の前に清水春樹が肩を落として梅雨空を見上げていた。帰り道のようだった。 「清水君。傘がないの?」と咲が呼び止めると清水はびっくりした様子で振り返った。 「あっ。桜川さん。そうなんですよ。忘れてきてしまって。」 清水と咲は同期入社の仲間である。咲は清水を傘に入れると横須賀中央駅までの道を一緒に帰ることにした。 しとしとと降り注ぐ雨の中で、行き交う米兵達が相合傘の二人を認めるとウィンクして英語で何か呼びながら通り過ぎていった。 「彼ら何て言っているんだろう。英語訛が強くて良くわからないや。」 「でも私達。恋人同士に見られてるみたいね。」と咲が清水を見上げて言った。 「そのようですね。でも恋人に思われたら嫌ですか。」 「いいえ。私はいいけれど。清水君は有名人だから誰かに見られたらマズイかなぁと思ってね。」 「子供達に顔を覚えられていても、女性に覚えられてるわけでもないし。」 「ちびっ子のアイドルだって素敵じゃないの。子供達が大きくなるまで頑張っていれば楽しみでしょう。」 「それまで続けられそうもありません。そのうちに私が持っている番組が打ち切られてしまうような予感がするのです。」 「えっ! あんな人気番組をやめるなんて。」 「モーションブロブスに悪い噂が立っているのです。販売がかなりダウンしているようです。悪くすると販売中止になるかもしれません。」 咲は社長室から漏れ聞いた話が清水の番組にまで暗い影を落としつつあることを知った。 咲は去年暮れのクリスマスの頃を思い出した。 その頃、モーションブロブスの箱パッケージの生産が間に合わず咲も工場へ臨時動員させられ、ダンボール箱に梱包する仕事を手伝わされた。咲にとって自慢のネイルアートが剥がれ散々なクリスマスだった。 モーションブロブスは店頭販売用の箱パッケージ入りタイプと、通信回線を使って自宅のコンピュータへプログラムを取り込むオンラインタイプの2種類あった。 オンラインタイプは電子メールで申し込めばその場で入手できる手軽さと、箱パッケージより価格も安かったので当然オンラインタイプの購入が多いと見込み、通信回線を増強して万全の準備をしていた。 ところが実際は箱パッケージを求める人が遙かに多く大誤算となってしまった。箱入りパッケージでないとクリスマスイブの夜に子供の枕元に置けないことまでは読めなかった。 この読みを誤った荒山部長は会社中の社員に拝み倒して工場へ派遣させる始末となった。 以来、坂堂社長は市場調査の重要性を痛感し、事あることにマーケティングリサーチを呪文のように唱えるようになった。 そんな大人気のゲームがにわかに販売の危機に晒されているなどとは咲には信じがたいことだった。 駅近くのビルの谷間で数珠繋ぎになった車の間を二人はすり抜けた。 「それじゃ。何か違うゲームソフトでも発売するの?」と咲は言った。 しかし咲の問いに清水は多くを答えなかったが、新事業を始めることだけはほのめかした。 咲はカマかけて言った。「その新しい仕事って、きっとマーケティングリサーチ関係の仕事じゃないかしら。」 「そう、その通りです。どうしてわかったのですか。」と清水は言うと咲の顔を見た。 「うん。何となくね。うちのお爺ちゃん。いや、社長はこの頃マーケティングリサーチ、リサーチって口癖になっていたからね。」 「でも。その方面に詳しい人が誰もいないから、うちの和田開発部長もどこから手をつけていいのか解らず困っているんですよ。」 ペットショップの前で咲は立ち止まると子犬の入ったゲージを順番に見て回った。 「可愛いわね。いつもこの店の前を通ると見て行くの。ほら。この子、お友達がいなくて寂しいのね。」と咲はガラス越しに手を出すとダルメシアンの子供がじゃれるのを楽しんだ。 「ケースの中に一人っきりだから遊び相手が欲しいんでしょう。」と清水も相槌を打った。そして咲の後ろから傘を差し掛けて見守った。 「うちの会社もこの子と同じよ。狭い世界に閉じこもっているだけだわ。外の人とお友達になれば道が開けるのに。」と咲は言った。 「それはその通りだと思いますが、外の人と言っても、あてがあるわけではないし。」 「咲の友達にそっちの方の仕事をしている人がいるの。今ね。ビジネスパートナーを探しているみたいよ。それにもう一人、並列コンピュータの専門家もいるわ。確かリサーチの仕事って超並列コンピュータも必要なのでしょう?」 「そうそう。桜川さん。良く知っていますね。超並列コンピュータと言えばREX社が有名なんですよ。」 「ふぅん。そうなの。その人、REX社のエンジニアよ。技術指導の講師もやる位だから実力もきっとあると思うわ。」 「そりぁ、すごいや! うちの部長が聞いたら飛び上がって喜びますよ。 そうだ! たまには一緒にお食事でもしませんか。もっとゆっくりお話もしたいし。」 「ごめんね。このところ胃の具合が悪くて外食できないの。」 「じゃあ。お茶でも。この先においしいコーヒーを飲ませる店があるんです。」 「カフェインは一番胃に悪いし、臭いだけでもウッとくるの。でも甘いもの屋だったら良いかもしれないわ。トコロテンとかね。」 翌日、和田開発部長が秘書室に咲を訪ねて来るとやけに陽気に声を掛けてきた。「清水君から聞きましたよ例の話。何でもREX社に人脈があるとかで、願ってもないことです。早速、坂堂社長に桜川お嬢様にご紹介いただけるとご報告したら、身内の紹介とは灯台もと暗しだったと社長から言われましてね。もっと早くお嬢様に相談すべきだったと悔しがっておられましたよ。」 咲はデスクを立ち上がり、湯飲みにお茶を注ぐと和田部長に差し出して言った。「そうね。これからは秘書の私を信頼して何事も相談してもらわなくちゃね。わかったわ。あとで社長と相談して話を進めておくわ。」 「ありがとうございます。REX社なら我々も心強いです。もし我々にお手伝いできることがあったら何なりと言って下さい。」と和田部長は言うと出涸らしをさも旨そうに飲み干した。 和田部長が秘書室から退出すると咲は新しい茶葉を入れ替えたお茶と、社長の好物のさいかや饅頭を盆に載せて社長室へ向かった。 数日後、咲は会社の帰りに早瀬龍一と会う約束すると、龍一が咲の身重の体を気遣って横須賀までやって来ることになった。 夕暮れの三笠記念公園のベンチで咲は待っていた。港に面した公園には日露戦争でロシア最強のバルチック艦隊を打ち破った日本艦隊の旗艦、戦艦三笠が戦勝記念碑として鎮座している。船体からは四方八方に大砲を突き出し、まるでハリネズミの棘をまとったような戦艦だった。 龍一は咲の顔を見つけると駆け寄ってきた。龍一が開口一番につわりの具合を尋ねると咲は張りのある声で答えた。「だいぶ楽になってきたわ。もう峠は越したみたい。仕事にも戻れるようになったのよ。」 「それはよかった。でもあまり無理するなよ。何か手伝って欲しいことがあったら遠慮しないで言ってくれよ。」 「心配してくれてありがとう。では本当に遠慮せずに言ってしまうけれど、手伝って貰いたい事があるの。エンジニアの早瀬君にしかできない仕事なのよ。」 「僕にしかできない仕事って?」突然もたらされたビジネスの話に龍一は驚いた。 咲はマーケティングリサーチ業務の進出計画に伴ってREX社の支援を要請したいとの坂堂社長の考えを伝えた。その条件として坂堂社長はすぐにでも会社の超並列コンピュータの提供を申し出ていること。龍一にはREX社員として参画してほしいことも申し伝えた。 「それから坂堂に由美子のことも頼んでみたの。今の会社を退職したら一緒に雇ってもらえるわ。それに由美子のマンションをサテライトオフィスにしても良いということになったの。どう。良い条件でしょ。」 二人は灰色の船体に沿ってゆっくりと歩きながら公園の奥へ歩いた。 「しかし僕にはブロブディンナジオ社の命運を賭けるような大仕事をこなす実力などありませんよ。それは無理な相談です。」 「そうなのね。仕方ないわ。早瀬君に断られたら咲は会社にもう戻れなくなるわ。社長の孫娘と言うばかりで結局は何もできやしない。甘やかされて育った世間知らずの小娘など、所詮は口先だけの人間だ。何も力などあるわけない。社長の血縁という事をひけらかすために経営に口出してみたいだけだ。きっと色々と陰口叩かれるわ。そんな冷たい視線の中でストレスに晒されたら胎教にも最悪ね。悪くすれば流産だわ。でも会社辞めたらお腹の子供と一緒に路頭に迷うのも悲劇よねぇ・・・」と咲がまくし立てると、龍一が耐えきれずに咲の言葉を遮った。「わ、わかりました。その話、考えてみますから。お腹の子供が第一だから。心配させないから。」 「早瀬君ありがとう。無理言ってごめんね。・・・ほら、赤ちゃんよかったね。早瀬のオジちゃんが助けてくれるって。」と咲はお腹をさすりながらお腹の中の赤ちゃんに向かって呼びかけた。 「おいおい、勝手にオヤジにしないでくれよな。」と龍一は笑いながら言った。 「ご心配なく。早瀬君一人を保護者にしないわ。もう一人の保護者になってもらう予定の由美子にもウンと言ってもらえるか、どうかだわ。」 「しかしそれには問題があるよ。この仕事が咲ちゃんの紹介となれば、彼女と顔を会わすことになるだろう。その時にはお腹の赤ちゃんのことも知られてしまうかもしれない。」 「それは覚悟しているわ。いずれ由美子にキチッと説明するわ。そうすればわかってもらえると思うの。」と咲は眉間を寄せて決意した様子で言い切った。 「それが良いかもしれないな。きっとわかってくれるだろう。」 二人は公園の手摺りから港を見渡した。公園の先端からは港の彼方に米軍居住施設を覆う緑が見えた。あの緑の向こうには米軍第七艦隊の基地があるはずだ。ここは極東最強の海軍基地だが、そんな緊張感を少しも感じさせない穏やかな波が堤防に打ち寄せていた。 「これで良いのよね。」と咲はポツリと言うと龍一にこの場所で待つように言い残して急に姿を消した。 咲が去ってしまうと龍一は一人、港を眺めた。 今、会社設立という大きな仕事に立ち向かうことを約束してしまったが、龍一にはまだ漠然としてその実感が沸かなかった。 あの戦艦三笠の砲身は一体どこを狙っているのだろう。それは夢を狙っているだろうか。それともただ鹿島哲也を狙っているのに過ぎないのだろうか。 水平線に大きな船影がおぼろげに見えた。ゆっくりとその影を拡大していった。空母カールビンソンだ。その巨大な船体がゆっくりと向きを変えて近づいてきた。 戦艦三笠の射程距離に入った時、突然クラクションが鳴った。 公園の入り口に黒塗りの大型車が横付けされた。車からは最初に咲が降り立った。坂堂社長が迎えにきた。孫娘に手を引かれる祖父の姿がそこにあった。龍一は車に向かって歩き始めた。 数日もたたないうちに動きはすぐに起きた。龍一がいつもの通りにREX社に出社すると職場の上司達はだれも席にはいなかった。同僚の佐藤友康があたふたと側にやってくると耳打ちした。「早瀬ちゃん。どうしたのよ。また何かドジったの?」 「えっ。」と龍一はキョトンとした顔で答えた。 「えっじゃないわよ。ンッもうぉぉ。うちの木下係長や部課長達が役員室に朝から呼ばれていてね、何か早瀬ちゃんの事が話題になっているみたいよ。それに販売本部長のお爺ちゃん達も集まっているみたいなの。」 「いや。上からはまだ何も言われていないけれど。」 「じゃあ。私が聞いてきてあげるわ。任せてね。」と佐藤が言うと龍一が袖を引っ張って止めた。だが佐藤は龍一の手を払うと言った。「早瀬ちゃん。大丈夫よ。直接聞くわけじゃないから。秘書室には私達のお友達がいるから。」 龍一は佐藤が「私達」と言ったのが気になった。秘書の女性達と彼はいつから同性になったのだろうか。と考えた隙に佐藤はサッと秘書室へ向かって走り去った。 しばらくすると佐藤友康が戻ってきた。佐藤の情報によるとブロブディンナジオ社からREX社にシステム開発の商談が舞い込んできたようだった。そのプロジェクト名もブロブディンナジオ社側の希望でクロスセンシングシステムと命名されていた。それは奇しくも東海センサス社のクロスセンシングシステムと同じ名であり、同じ仕様のものだった。 佐藤は興奮を隠せない様子でまくし立てた。「もっとビックニュースがあるわ。その開発リーダーに早瀬ちゃんが指名されているわ。役員専用端末で確認したから絶対確実よ。」 顧客のご指名というエンジニアにとって名誉なことであった。だがその情報をどうやって役員専用端末から取り出したか尋ねた。すると佐藤はいとも簡単に答えた。「あの老眼のお爺ちゃんたちにキーボードの字が見えるわけないじゃないの。操作は秘書の仕事に決まっているのよ。お爺ちゃん達は自分のパスワードなんか知るわけないわ。ウッフフ。役員のパスワードなら機密も何も無いのも同然よ。自慢じゃないけれど私達に手に入らないパスワードはないのよ。」 一方、販売本部では成長株のブロブディンナジオ社を長年攻略してきたが、なかなか受注が取れずにいた。しかし思わぬところで商談が飛び込み、REX社の上層部は大喜びしているようだった。それを裏付けるように普段はあまり会うこともない販売本部の連中が龍一の上司達を取り囲んでしきりにペコペコしながら廊下を歩いてきた。販売本部の部長までが木下係長に平服していた。木下係長は意気揚々とした足取りで職場に戻ってきた。 龍一はとてつもないプレッシャーと不安を感じた。まだ美並由美子の協力も得ていないはずなのに話が次々と大きくなってきた。 「みんな。仕事の手をちょっと休めて聞いてくれ給え。」と木下係長は部下に呼びかけると手を腰に当てて仁王立ちのままスピーチを始めた。佐藤の言う通り、龍一が開発プロジェクトのリーダーに任命されたことを発表した。 「早瀬君はぁ、会社でボケっとしているばかりではなくぅ、このようにアフターファイブにも受注に結びつくような活動をし、自らの努力でぇ、プロジェクトリーダーを勝ち取ったのであぁるぅ。皆さんも早瀬君の良いところをお手本にしていただきたいものでありまぁすぅ。」木下係長が勝ち誇ったように自ら拍手すると同僚達もつられるように拍手を龍一に送った。 龍一は並列COM応用開発部と販売本部の期待を一手に担い、船出を祝福されたが一体どこから手をつければ良いのかわからなかった。ただわかるのは自分の意志より先に事実が進んでいくことだった。龍一は作り笑いをして拍手に答えたが、もはや不安で仕事に手がつかなくなった。 |