第十五章 深夜のメーター 日曜日、美並由美子は昼過ぎから部屋の整理を始めていた。いずれマンションを退居する日に備えて休日の度に少しずつ整理しておこうと思った。ここを出たらこんなに広い部屋には住めないと思い、荷物をかなり整理しなければならなかった。 実家に保管してもらうものを品定めした。最初に大きな書棚の前に立って入れてある物を確かめた。コンピュータに関する本、料理の本、旅行の本、それぞれから本を間引きして箱詰めした。 引き出しを開けると未整理の写真の束が出てきた。一番上に乗っていたのは夜のベランダで撮影した由美子と早瀬龍一とのツーショットだった。龍一と出会ってからの日々を回想した。 その龍一と最後に会った深夜の駅前で一緒にアイスを食べた時を思い出した。彼は当たりのアイスを見せて失望するのは早すぎると語ったが、それ以来何も音沙汰がなかった。 会社を作るなど龍一にはどだい無理な注文だろう。むしろ彼とは良い友達のままでいた方が幸せなのだろう。これ以上、友人達をビジネスの荒波に巻き込むのは止めようと由美子は思った。 さらにその下からは鹿島哲也がこの部屋に新居祝いに訪れた時に撮影した写真が出てきた。笑い顔の彼、すまし顔の彼がそこにあった。時を遡るように写真をめくった。とにかく懐かしいの言葉に尽きた。 写真と一緒に鹿島から届いた手紙が何通か出てきた。バースディやクリスマスプレゼントに添えられた手紙がほとんどだった。いつもは電子メールしか書かない彼の唯一の直筆の手紙だった。久しぶりに読む手紙は短いものだったが、それぞれの年月の思い出を想い起こした。横浜で迎えたバースディ。三島で迎えたクリスマス。ただ懐かしくひたすら字を追った。 どの位、時間が過ぎたのだろうか。わずかに開けた窓の間から吹き込んでいた風がいつの間にか止み、穏やかな陽が差し込んできた。 鹿島哲也が写っている写真を選り分けると彼のいない写真はほんのわずかだった。それは彼の存在がいかに由美子の時間の多くを占めていたか思い知らされるようだった。鹿島との日々はまさに由美子の青春そのものの記録だった。 鹿島の写真と手紙を紙袋に入れると部屋を出た。 マンション近くの造園職人が畑の隅で切枝を燃やしていた。枯れ枝が弾けながらオレンジ色の炎を上げていた。 あの炎の中に鹿島哲也の思い出を葬ろうとしたが、ためらった。まだ彼から気持ちが離れられないのだろうか。それとも青春を捨て去るのが辛いだけなのだろうか。 自分では答えがわからなくなってしまった。しかし彼への想いを断ち切らなければ、この街を出ることはできないだろう。 たき火を前にして顔に火照りが伝わってきた。見納めに袋の中から鹿島の写真を1枚取り出すと、「さよなら。」と呟いた。脳裏に彼との思い出の日々が一気に駆けめぐった。 「ごめんなさい。」と心の中で叫び、炎に向かって袋を差し出した。 その時、由美子の腕を掴む手があった。由美子は振り返り叫んだ。「貴方っ!」 「俺の写真をどうするつもりなんだ。」 鹿島哲也は呆然と立ち尽くす由美子の手から袋を取り上げると言った。「この写真、懐かしいなぁ。なあ、この思い出の続きをもう一度続けてみたくないか。」 由美子は言葉を失ったまま鹿島の顔を見た。炎に照らされた彼の顔は何か思い詰めたような感じだった。 その鹿島がぽつりと言った。「あれから藤宮香織とは別れた。もう過去のことは全て綺麗にしたよ。」 「えっ。どういうことなの?」と由美子はきいた。 鹿島は香織との関係について多くを語ろうとはしなかった。由美子も香織について、それ以上は聞こうとはしなかった。ただ彼が最後にここに戻ってきてくれたことが嬉しかった。彼の手が由美子の肩に回された時、また新しい思い出のページが書き加えられていくようだった。 二人は緑道を歩きながら空白だった時間を埋めるように寄り添った。草笛の道と呼ばれる緑道には小径に沿って流れる小川に水草が花を付け、クローバーの絨毯が丘の彼方まで続いていた。 由美子は大瀬崎で一人、豪雨の神社の境内で取り残された時のことを回想した。あの時、彼を全て許そうとした気持ちをもう一度思い起こした。そして今こそ、その時だと思った。 「鹿島さん。ありがとう。ここまで私のことを想っていてくれて嬉しいわ。」 「俺を許してくれるのか。すまないことをした。由美子。もう離れて暮らすのはやめよう。三島に来ないか。」 「一緒に暮らせるのね。」 「そうだ。そしてもう一度俺達の夢を追ってみようじゃないか。」鹿島は由美子の両肩を掴むと言った。 「プロファイラシステムのこと?」 「そうだ。あれは俺達の汗の結晶じゃないか。化石にするつもりではなかったはずだ。完成させてみようじゃないか。」 「うん。」と由美子は素直に答えると鹿島の腕にしっかりと寄り添った。そして由美子は、あと2週間後には退職する予定でいることを伝えた。 「それなら話を早く進めなければいけないな。由美ちゃん、退職したら三島へ来て欲しいんだ。実は大村専務が新会社が横浜では遠いからと三島に新しく事務所を作って下さった。すでに機材も運び込まれている。それに君と住む部屋も借りてあるよ。」 「えっ本当なの。もう部屋もあるの?」由美子は立ち止まって鹿島の目を見た。 「あぁ、そうだ。今のマンションは早く解約してくれ。君が来てくれるのが待ちどおしいんだ。」 二人の陰が夕日に照らされて「草笛の道」に伸びた。由美子は自らの寄り添う影を見つめて彼との未来を夢見た。空にはバラ色に色付く雲が流れ、オナガ鳥の群れが林の古巣に向かって羽ばたいて行った。由美子は鹿島哲也の写真を入れた袋をしっかりと胸に抱いた。 翌日明け方早く、鹿島哲也の車は由美子のマンションを出ると横浜青葉インターから東名高速道路に入り、東海センサス社に向かった。 バックミラーに写る朝日に眩しさを感じるとヘッドライトがいつしか消えていた。青い山々が次第に窓一杯に広がってきた。 鹿島はモニター画面を電子メールに切り替えると、カーステレオの音楽に代わって大村専務からのメールが読み上げられた。「大村松雄です。プロファイラシステムの開発がベイシティシステム社側の都合で遅れているそうだが、何が原因なのか、状況を早く説明してほしい。耶麻霧社長からも新会社のオープンが日延べになっていることにご不満を漏らされている。」 短いメールだが、鹿島にとっては重いメールだった。 返信用メールのアイコンを指で押すと機械的なアナウンスが流れた。「メール発信は安全のため停車してから行ってください。」鹿島はチッと舌打ちをすると本線を外れ、パーキングエリアへ入れた。 マイクに向かって吹き込んだ。「大村専務殿、遅れてすみませんでした。ベイシティシステム社側のトラブルで手間取っておりましたが、手当が済みましたので今夜にも回線を開けると思いますのでご安心ください。」 送信ボタンを押し終わると鹿島は目の前にそびえる富士山を制覇したような気分だった。 由美子はその日の夕刻、会社から帰宅すると端末の前に座った。鹿島哲也から指示された通り、ベイシティシステム社の超並列コンピュータに蓄積されたプロファイラシステムを三島の新しい事務所に据え付けられた超並列コンピュータへ送信するためにスタンバイした。 鹿島はテラバイト級の巨大なデータベースの送信に備えて、横浜と三島との間に毎秒二十ギガビット級の超高密度の光波長を4波長分、毎秒合計八十ギガビットの光波長多重通信回線をチャーターした。これは国家間や都市間の通信に使用されている大規模通信の方法である。 プロファイラシステムをもし家庭用回線のCATV回線程度のスピードで送信したら送り終わるのに約4か月近くかかるものが、たったの約二十分ほどで送信が可能である。 あとは鹿島からの準備完了の連絡を待つだけであった。 時間が過ぎていった。もう夜の十時になった。鹿島から新しいコンピュータのセッティングがトラブッていると電話があってから、もう3時間が過ぎようとしていた。 由美子は食卓に座ると長期戦に備えて濃いコーヒーを入れた。電話で様子を聞こうかと思ったものの新しいコンピュータと格闘している鹿島に遠慮して、ただひたすら待ちつづけた。 マンションの下に1台の車が止まった。車から降りた人影はエレベータに乗ると、由美子の部屋の階で止まった。 それと時を同じくして部屋の電話のベルが鳴った。鹿島から電話だった。「由美ちゃんか。コンピュータのトラブルは直った。今からチャーターした回線を開くから、ジャスト3分後に送信を始めてくれ。」 電話中に由美子の背後で玄関のベルが鳴った。 「OKになったのね。ご苦労様でした。だれか来たみたいだわ。それじゃあ。3分後にね。」由美子は電話を済ますと玄関へ急いだ。 ドアーを開けた途端、由美子は叫んだ。「あっ、咲ちゃん!」 由美子にとって咲と会うのは小切手を受け取った日以来ほぼ1か月ぶりだ。由美子は桜川咲を部屋に招き入れると食卓に座らせた。食卓にはコーヒーメーカーが挽きたてのコーヒーの香りを漂わせていた。 「咲ちゃん。コーヒー好きだったわよね。お砂糖いくつかしら。」 「ごめん。コーヒーの匂いがダメなの。人の部屋に上がって注文付けて悪いけれどコーヒーセットを下げて欲しいの。本当にごめんね。」 咲が手で口や鼻を押さえている様子が尋常でないことを由美子は感じ取るとコーヒーメーカーやカップをキッチンへ下げた。咲は以前の過敏さは消えていたが、それでも一度苦しい思いをした記憶を身体が覚えていた。 「どうしたの。咲ちゃん。」と由美子が呼びかけると、咲は窓に向かい深呼吸して気持ちを落ち着けた。 由美子は時計を見て3分近く経過したことに気がつくと急に端末の前に座った。端末のIDカード挿入口にFFカードを入れ、パスワードをキーボードで叩いた。この端末からの遠隔操作でベイシティシステム社の超並列コンピュータが開き、プロファイラシステムのデータベースのコピーが送り出された。 端末のモニター画面にはデータ送信量を示すメーターが0%から始まり、刻々と数字を上げていった 「ごめんね。仕事中だったの?」と咲は遠慮がちにきいた。 「大丈夫。データを送るだけだから、あとは機械任せにしたから自然に終わるわ。久しぶりに会うのだから、ゆっくりしていって。」 由美子は端末から離れると食器棚から湯飲みを出し、お茶の用意を始めた。 「子供ができたの。」と咲は由美子の背後でつぶやいた。 由美子は振り返って言った。「本当なの。おめでとう。音沙汰がなくて心配していたのよ。そんな良い知らせなら早く教えて欲しかったわ。この前、家の前で小切手を置いてすぐ逃げるように帰ってしまうんだもの。」 「あの時はトラックの男に追っかけられたからね。逃げるに必死だったのよ。」 「大丈夫だったの?」 「相手はガソリン車でしょ。あっと言う間に追いついて、隣の車線から幅寄せされて咲の車が分離帯に乗り上げそうになったわ。だけど神様が味方したのよ。交差点で信号無視してきた他のスポーツカーとあのトラックが衝突しそうになってスピンしたの。その間をすり抜けてうまく逃げちゃった。ラッキーだったわ。」 「そんな無茶しているとお腹の子供に悪いわよ。そんなことで流産したら大変よ。」と由美子はお茶を食卓に置くと言った。 「それでもよかったわ。」と咲は窓辺にもたれて呟いた。 「えっ。子供が欲しくないって。一体、誰の子なの?」 画面のメーターは37%を示していた。 咲は窓際のサイドボードの上に置かれた袋から飛び出した鹿島哲也の写真を見つけた。咲は袋を取り上げると食卓の上に袋ごと放り出した。袋の口から滑り出した鹿島の写真が食卓の上に広がった。 「写真をまだ大事にしている所を見ると、まだ彼のことが忘れられないみたいね。」と咲は吐き捨てるように言った。 「私には鹿島さんが必要みたいなの。彼ともう一度やり直してみることにしたの。」 「由美子がまだ彼のことを想い続けているとは知らなかったわ。」と咲はさげすむように言うと帰ろうとした。 「咲ちゃん。何を怒っているの。私にはわからないわ!」由美子は咲の腕にしがみついて引き留めた。 「彼のこと、好きならそれでいいわ。」と咲は由美子に顔を背けて言った。 「彼は藤宮さんとは別れたと言っていたわ。私も過去のことはもう忘れようと思うの。」 「そうなの。二人とも過去を全て水に流すつもりなら・・・。」と咲の言葉の最後が消え入った。 咲は由美子から離れると玄関ドアーを開けた。するとドアーの外に早瀬龍一が立っていた。 咲は龍一の胸にしがみつくと泣いた。「咲には言えないわ。とても。」 画面のメーターは63%を示していた。 「何を隠しているの? 鹿島さんがどうかしたの?」と由美子は言うと食卓の上の写真を見直した。 ふと由美子はあることに気がついた。「ねぇ咲ちゃん。どうしてこの写真が鹿島さんだってわかったの?」 咲は龍一の腕の中で顔を埋めてすすり泣いて答えようとしなかった。 「その人がお腹の子の父親だから。」と龍一が代弁した。 「嘘でしょ。まさか。」と由美子は龍一の目を見た。 「信じられないでしょうね。咲ちゃんはいずれ堕ろすまで由美子さんに知られないように連絡を断っていたのです。でもあるキッカケで僕はその秘密を知ってしまいました。」 龍一はその経緯を咲に代わって話した。そして咲が小切手を受け取ってしまったことを一人悩んでいたことを打ち明けた。 「あの小切手はそういうお金だったの!」と由美子は絶句した。 咲は龍一の腕に抱かれたまま何も言わずうなづいた。 「咲ちゃんの最も大切なものを穢された無念さ。小切手を受け取ってしまった無念さを晴らすために彼女がある決意をしたのです。それは鹿島さんにとって最も大切なものと言うべきプロファイラシステムを彼に代わって、僕達が完成させて見返してやろうと思っているのです。」と龍一が言った。 「咲ちゃん達がプロファイラを作るって。それは報復するため? 報復して報われるの?」と由美子は問い尋ねた。 「咲ちゃんが報われることはきっとないでしょう。でもお腹の子供は祝福されないまま闇の世界へ葬られる時が来ると思います。そして彼女にもそれが永遠の傷として心に刻まれるのです。心の痛みが求めるままに報復を求めてもそれを抑えることはできでしょう。」 龍一は報復という言葉を口にした時、咲の顔を見た。咲は静かに頷いた。 「それが貴方達の夢なの?」と由美子は龍一と咲に向かって問いただした。 龍一が問いに答えた。「今まで自分の夢が何かわからなかった。でも人のために何かしてあげることが僕の喜びであることに気が付きました。由美子さんと共に初めて三島に行った時、そのことが良くわかりました。そしてそれが自分にとって不可能と思う事であっても、それを可能にすることができれば、それは夢と言ってもいいと。」 龍一の言葉を由美子はうつむいたまま聞いた。龍一は言葉を続けた。「咲ちゃんは初めは貴女に打ち明けることをためらっていたのですが、ついに咲ちゃんは貴女にも協力を求める気になり、全てを打ち明ける覚悟をしてここへやって来たのです。これでよかったよね。咲ちゃん。」 咲は無言のままコクリとうなづいた。 画面のメーターは86%を示していた。 由美子は顔を上げると宙をじっと見据えた。瞳が微かに光った。由美子は咲にきいた。「鹿島さんはお腹の子のことを知っているの?」 咲はやっと重い口を開いた。「咲はだれにも言わなかったけれど、でも知っているかもしれません。」 「どうしてなの?」 「藤宮さんは咲のお腹の子のことを知っているわ。それが原因で彼女が鹿島さんと別れたならね。」 由美子は思った。鹿島は咲が妊娠していることを知りながら由美子に接近したのだろうか。その可能性は濃厚だった。妊娠を知ったからこそ藤宮香織が去ったに違いないだろう。 由美子は龍一の腕から咲をそっと引き寄せると胸に抱き寄せた。「ごめんなさい。許して。貴女が私の友達であったばかりにこんな不幸を一人で背負ってしまったのね。許して。お願い許して。」 咲の髪に由美子の涙の滴が伝わっていった。 「でも貴女達の夢に叶うことはできなくなったわ。プロファイラシステムは鹿島さんの所へ送り出されてしまったのよ。」と由美子は言うとモニター画面に顔を向けた。 「もう95%に達してしまったわ。もう止めることできないわ。」と由美子は絶望の声をあげた。 由美子の言葉に反応して咲は由美子の手を振りほどくとキーポードを打った。「とめて! とめてっ! プロファイラを渡さないで!」 だが、システムは送信停止を全く受け付けなかった。咲は叫んだ。「ダメだわ! シャットダウンできない。どういうことなの!」 咲に交替して龍一が端末を操作した。 「ダメだ。データベースはすでに超並列コンピュータの本体から全部送り出されてしまっている。」 光通信回線と超並列コンピュータの伝送速度が違うため、中継するサーバーマシンに一時的に蓄積して速度を調整して順番に送り出される。サーバーマシンに蓄積できるのは10%までだ。つまり送信量が90%を越えた時点で超並列コンピュータからの送信は完了している。 メーターを見るとすでに96%に達していた。 「サーバーマシンにまだ残り4%が入っているはずだ。サーバー番号を教えてくれ。」と龍一は叫んだ。 「BC0025よ!」と由美子が答えた。 「よしっ、いいぞ。サーバーコントロールのパスワードを教えてくれ。」 「サーバーのは知らないわ。」 サーバーをコントロールする画面はパスワードがなければ開かない。龍一は急遽、パスワード解析ソフトウェアのジョンザリッパーを起動させた。ジョンザリッパーは人間がパスワードを作る際に作りやすい癖を読んでパスワードを推定するソフトウェアである。 推定したパスワードのうち、サーバー番号を逆様にした5200CBがヒットした。途端に画面が変わり最初のファイアウォールを抜けた。 メーターは98%だ。 が、次の画面表示を見て龍一は凍りついた。「システムオペレーター本人のパスワードをきいて来ている!」 「えぇっ。シスオペの? 何も、もう何もわからないわ!」 龍一は再びキーボードに手を掛けると今度は肉声でパスワードの入力を要求してきた。龍一が声を出しても拒否するメッセージが出た。「声紋が違います。シスオペ本人の確認が取れません。」 メーターはついに99%を指した。 咲が急に叫んだ。「とめてっ!」 咲は龍一を押しのけるとキーボードを拳で叩き叫んだ。「とめて! とめてっ!」何度も何度もキーボードに向かって拳で叩いた。狂ったように叫びながら叩いた。 画面が急に変わった。赤い文字の警告文が点滅した。「異常操作発生。直ちに停止します。サーバーBC0025を至急検査してください。」 泣き叫びながら叩き続ける咲を龍一が抑えた。3人がモニター画面を囲むとメーターは99.9%で停止していた。 部屋の静寂を破って電話が鳴った。「何が起きたんだ。もう少しのところでブレークしたぞ。」と鹿島の顔がテレビ電話を通して画面に映った。 鹿島が顔を上げた途端、「君は!」と咲の顔を見て凍り付いた。 由美子にはそれは最早、由美子の知っている鹿島哲也の顔ではなかった。 龍一には初めて見るライバルが目に焼き付いた。 そして咲にはあの日の汚辱の記憶が蘇った。咲は悲鳴に似た叫びをあげるとその場に崩れるように倒れ込んだ。 長い夜が明けた。 壁紙の接着剤の匂いが立ちこめる部屋で鹿島哲也は目をこすった。接着剤の刺激なのか、徹夜明けの目の渋さなのか区別がつかなかった。窓を開けて外気を入れた。 窓の外には木立の向こうに東海センサス社の社屋が立ち、そのガラスの外壁に青空を映して眩しかった。窓の下を覗くと、新会社の社員達が両手に荷物を持ち正門を入ってきた。彼らは今日、向こうのビルから引っ越しをする予定だ。鹿島はこれから自分の元で働く彼ら社員達をいとおしく思った。 急にドアーが開いた。入ってきた人影に鹿島は姿勢を正すと深々と頭を下げた。「耶麻霧社長。おはようございます。」 「ほう。これが新しい事務所か。フフン。新しい匂いがするな。」と耶麻霧社長は部屋の中を見回して言った。 新会社への出資割合は耶麻霧社長が6割、大村専務が3割、鹿島哲也が1割の割合だった。それだけに鹿島は耶麻霧社長の意向に合うかどうか気がかりだった。 社長を追ってやった来た大村専務が言った。「事務所もプロファイラシステムもようやくこの通り全て整いました。少し開発が遅れて社長にはご心配をおかけしました。」 「この程度の遅れはまぁ良い。それより大村君。鹿島君。よく半年でこれだけのシステムを作り上げてくれた。礼を言うぞ。」と耶麻霧社長は黒い超並列コンピュータを手で撫でながら満足気だった。 鹿島哲也はベイシティシステム社から送信されたデータベースの最後の0.1%が欠落していることを隠していた。欠落部分を昨晩、徹夜で補修して欠落の跡が残らないように細工した。データベースは全国の大学院、大学、短大の在学生約三百万人余の個人情報を集めていた。たがその0.1%、つまり約3千人のデータが欠落していた。 鹿島は思った。3千人程度の人数なら抜けていても大した支障はないだろう。なぜなら彼ら全てがプロファイラシステムのお世話になるとは限らないだろう。たとえ欠落した学生に支障があろうと何処の世界にも運の悪い奴はいるものだと。 「社長。早速、明日にでも新会社をオープンしたいのですが、すでにクライアントから矢の催促をされておりますので。」と大村専務は社長に進言した。 耶麻霧社長は社長用の椅子に座って座りこごちを確かめていたが、急に立ち上がると言った。「よろしい。鹿島君。明日からはここに座り給え。君がこの鹿島ブレインリサーチ株式会社の社長だ。」 社員二十人が鹿島の周りを囲んで一斉に拍手を浴びせた。そして大村専務も、耶麻霧社長も鹿島に向かって惜しみない拍手を送った。 |