第十七章 私はブラックマジックウーマン 早瀬龍一の家に妹の麗子を訪ねて木佐口ディアンがやって来ていた。麗子とディアンは先程から彼女の部屋に籠もったきりだった。そして時折、隣の部屋から二人の笑い声が聞こえた。 龍一はヘッドフォンを耳に掛けるとエレキギターをテレビに繋いだ。ウェブキャスト局のカラバンド番組にチャンネルを合わせた。初めに選曲した。サンタナのブラックマジックウーマンというラテンっぽい曲を選ぶと次にリードギターのパートを選んだ。曲がスタートすると龍一はギターを弾き、画面の中では電子オルガン、ベースやパーカッションなど他のパートのバンドマンが龍一と一緒にセッションを始めた。カラオケと違うのは歌うのが画面の中の歌手だ。 美並由美子のマンションで鹿島哲也の顔をテレビ電話で見て以来、ストレスが貯まる日々だった。その苛立ちをぶつけるようにギターを弾きまくった。 龍一がギターをチョーキングして乗りに乗ってきた時、ヘッドフォンを通して叫び声が聞こえた。龍一にはそれがまるでファンの喚声のように聞こえた。すぐに龍一の部屋のドアーを叩く音がしてディアンが飛び込んできた。「大変! 麗子が消えた。わからない。」 龍一はディアンの言っていることの方がもっとわからなかった。麗子が急にどこかへワープでもしたと言うつもりなのか。 「ハリーアップ! 早く! 早く!」とディアンに手を引っ張られると、ヘッドフォンコードの端子が抜けて大音響が部屋に響いた。 龍一は麗子の部屋に呼ばれると麗子がテレビの前で呆然としていた。 「何だ。ディアン君、麗子はここにいるじゃないか。」 「違います。これ見てください。麗子が消されています。」とディアンはテレビの画面を指すと警告文が表示されていた。 「早瀬麗子様は該当不明です。もう一度確かめて入力してください。」 麗子は富士パワーワークス局のプロファイラ適性検査にアクセスしていた。 麗子は言った。「雪江先輩がこれであっさり就職が決まったというので私達も来年の就職活動に備えて見てみようと思ったの。ディアンはちゃんとアクセスできたのに私はアクセスできないのよ。どうしてなのかしら。」 「今までこのテレビでオンラインショッピングとか、出来ていたのか。」と龍一は麗子に聞き返した。 「もちろんよ。このバックだって、この服だって、そうよ。どれもちゃんと私の名前で買うことができたわ。」 龍一は何かブラックリストに載るトラブルを起こしたかと疑った。「支払の督促を受けたことは?」 「そんなこと絶対ないわ。一度だって滞納したことないのよ。私がブラック扱いになるはずがないわ。」と麗子はきっぱり否定した。 相変わらず隣の龍一の部屋からはサンタナの曲がガンガン響きパーカッションの音が盛り上がっていた。 「ディアン君。君を使って悪いが僕の部屋のカラバンドを止めてきてくれないか。」 ディアンは言われるままに隣の部屋へ行った。 龍一は麗子に小さな声で言った。「これには思い当たる事があるんだ。麗子がこれから就職活動するまでには名前が復活できると思うから心配しないで。」 「お兄ちゃんがどうして私の名前をコントロールできるの? だって、お兄ちゃんはREX社に勤めているんでしょ。」 「その、つまり。こういう情報を扱っている業界の人を知っているんだよ。」 「へぇ、すごい人を知っているんだね。そういう人って他人のプライバシーを全部覗くことができるんでしょ。その人に私の名前だけでなく中身のデータも良くしてくれるように頼んでよ。あっ、そうだ。そうだ。ディアンのも頼むわね。」と麗子は明るい顔に戻った。 そこにディアンが戻ってきた。「僕のも頼むって、何を頼むの?」 「ディアン君。君達の紅茶を頼まれたんだ。今日はとっておきのダージリン・クォリティシーズンの封切りをサービスしてあげよう。」と龍一は話をはぐらかすと麗子の部屋を出た。龍一は階段を降りながら一人、険しい顔つきになった。 龍一は車で出かけた。途中で美並由美子を拾い、病院に向かった。 大学病院前の公園パーキングで車を降りると二人の背中に7月の日差しが暑く照りつけた。 病室には桜川咲がベットの上に座り退院する支度を整えて待っていた。由美子が気分を尋ねると咲が答えた。「もう大丈夫よ。少しお腹が引っ込んだかしらね。もとのプロポーションに戻ったみたいよ。」 咲は子を失ったことをまるで忘れたかのように明るく振る舞っていたが、どことなく陰のある明るさだった。 あの夜、由美子の家で咲は鹿島哲也とテレビ電話で対面した時、崩れるように倒れた。すぐに病院に担ぎこんだが咲はショックのあまり、切迫流産の危機に直面した。 しかし流産を抑える手当も効がなく、夜も白々明ける頃、消えゆく星とともに小さな命は永遠の旅に発った。七夕の夜を飾った星達とともに。 ナースセンターの看護婦達に別れを告げると3人は龍一の車で咲の家へ向かった。車が第三京浜高速道を快調に走り始めたころ、FM放送が人生相談を放送していた。 「匿名希望のS子さんですね。さて、どういう相談ですかぁ?」 「私のテツオの子が出来ちゃったんですけどぅ。でもテツオがはっきりしないんですぅ。」 「匿名希望なんだから彼の名前も出さないでくださいね。」 「あっ、すんません。」 「それで、彼が結婚する気がないってことですかぁ?」 「そうなんですよぉ。子供を堕ろしてやるって脅かしてやったら、どうぞっていう感じなんです。どうすればいいんですかぁ。私、本当は堕ろしたくないんですぅ・・・」 龍一はFMのスイッチを切った。 咲は切れた放送のあとを続けるように言った。「そうね。その気持ちわかるわ。望まれない子だったけど咲の腹の中で一生懸命に生きようとしていたの。鹿島哲也を憎むあまり、妊娠に気づいたとき中絶しようかどうか悩んでいたけれど、次第にそんなことできないって思うようになっていたわ。」 咲は後部座席で由美子の肩にもたれながら一人静かに話を続けた。「あの子はね。咲を信じて生きていたの。日増しに成長していく様子をお医者さんに告げられると何だか、愛おしくなってね。切迫になった時、咲はあの子に助かって欲しいと願っていたわ。」 咲の告白に由美子は静かにうなづくと咲の肩を包んだ。 咲は続けた。「でもね、あの子はきっといい子だったと思うわ。咲に色々なことを残して行ってくれたの。母になる気持ちがどんなものか教えてくれたわ。」 由美子は咲が流産を迎えた日まで中絶をためらっていた気持ちが理解できた。命が母によって授けられ、その母をひたすら信じて生きていた小さな命。その小さな命に向かって中絶という銃口を向けなくて済んだのが、せめてもの救いだったと思った。 「明け方近く、先生の処置が急に変わった時、咲は覚悟したわ。あの子に向かって心の中でさよなら、ありがとうって伝えたの。」そして咲は気持ちに終止符を打つようにさらに言葉を続けた。「もう、これで鹿島さんと結ぶものはすべて終わったわね。あとは心の中に思い出として仕舞っておくことだけね。」 由美子は咲の言葉に応じて言った。「そうね。もう彼との戦いは終わったのよね。これからは咲ちゃんと私の思い出として仕舞っておきましょうね。」 車は第三京浜高速道を抜けてベイブリッジの巨大な偉容が目前に迫った。 「しかし今度は僕が鹿島さんと戦わなければならなくなったんだ。」と龍一が告げた。 「えっ、どうして?」 「鹿島さんがついにプロファイラシステムを動かしてしまったようなんだ。」 「あのシステムのデータベースには約3千人分のデータが抜けているはずなのに。」と由美子が言った。 「その抜けた3千人の一人に妹の麗子が入っているかもしれないんだ。」と龍一の言葉に由美子と咲は顔を見合わせた。 咲が龍一にきいた。「消されてしまった学生達が就職しようとしたらどうなるの?」 「門前払いを受けるかもしれない。あのシステムは急速に学生に広まっているようだ。麗子が受験するころにはあのシステムが主流になるだろう。そうなればデータから抜けた学生はどこへ行っても相手にされないだろう。なぜなら彼らはこの世に存在しない人間として見なされるからだ。」 「それは本人にもわかることなの?」 「いや、本人には何故だかわからないだろう。たとえ学生達がどうして自分が存在しないのか知ろうとしても難しいはずだ。彼らには自分の情報を知る手だてもないからだ。」 「やはり咲が途中でデータ送信を止めたのがいけなかったのね。」と咲は悲壮な顔で言った。 「いや、これはデータが抜けているのを知りながら使っている鹿島さんのモラルの問題だ。」 「でも、何とか止めさせる方法はないの?」 「鹿島さんの会社にハッカーするのは困難だ。」 咲は矢継ぎ早に龍一に問いかけた。「それなら鹿島さんのデータには欠落があるとマスコミに訴えたらどうかしら。」 「いや、それも無理だ。僕達には3千人分の欠落の証拠を何も持っていない。」 「それなら何も手を打てないと言うの。消された学生達は咲が消してしまったのよ。何とかしてあげて。」咲は手で顔を覆い悲痛な声をあげた。 龍一は車を追い越し車線に入れて加速した。 「手は一つだけある。ベイシティシステム社にあるプロファイラシステムのデータは完全だ。だから、それを早く世に出せば、消されていた学生達が復活できる可能性があると思う。」 由美子が話に割って入った。「販売競争しようと言うのね。」 「そうさ。REX社ではクロスセンシングシステムが8月末には完成する見込みだ。」 REX社ではクロスセンシングシステムの開発のために並列コンピュータ開発に強いシステムエンジニアや個人情報データベース開発の経験者を社内から多数集めて短期決戦で臨んでいることを説明した。 「これなら鹿島さんとの遅れを縮めることができる。あとは由美子さんの力でプロファイラシステムとクロスセンシングシステムをドッキングさせれば動かすことができるよ。」と龍一が言った。 「だけどあと3日後にはベイシティシステムを退職することになっています。」 由美子はベイシティシステム社のコンピュータに自由にアクセスできる残り3日以内にプロファイラシステムをブロブディンナジオ社へ移さなけばならないことを告げた。 「咲ちゃんの会社のコンピュータにすぐに受け入れできるかしら。」と由美子が尋ねた。 「明日、出社したら確認してみるわ。坂堂が新事業展開に備えてだいぶ前からコンピュータの増強をしているから大丈夫よ。すぐに受信できるように手配するわ。」 車の前方には金沢八景シーパラダイスの三角屋根の屋外ステージが見えてきた。 「よしっ。これでいよいよ、僕達のシステムもデビューできるぞ。」龍一の握るハンドルに力が籠もってきた。 だが、事態は思いも寄らぬ方向へ導かれていた。 「君に聞きたいことがあるんだがね。」 由美子はベイシティシステム社の退職を明日に控えた今。上司の峰岸課長に呼ばれた。 「2週間ほど前に会社のサーバーが夜中に突然、異常終了したんだ。原因を調べていてわかったが、君がホストコンピュータに入っているプロファイラとか言うデータを取りだそうとしたそうだね。」と峰岸課長は尋ねた。 峰岸課長は椅子にふんぞり返るように座り、デスクの前に立った由美子を横目で睨んだ。 「あのプロファイラは元々、東海センサス社から委託を受けて保管していたものです。相手からそのデータを求められたので送信したものです。」と由美子は答えた。 由美子の退職を快く思わなかった峰岸課長とは結局、円満な退職に持ち込むことができず由美子が押し切る形で退職が決まっていた。 「ふぅん。本当かね。調べたところによると、あのデータベースは学生の個人情報を満載しているようじゃないか。君は会社を辞めるついでに会社のデータをどっかへ横流しするんじゃないだろうな。近頃はね、個人情報が高く売れるそうでね。横流しする輩が後を絶たなくて困っているんだよ。」 由美子は繰り返し説明をしたが、峰岸課長からの疑いの目は晴れなかった。 「ほう。君の言うことが本当かどうか、調べさせてもらうよ。」と峰岸課長はプイと横を向くと電話をかけ始めた。 その横で由美子は立ったまま、その電話の終わるのを待った。 峰岸課長は社内の電算運用部の担当者を呼び出すと長々と話を始めた。話をしている間に彼の険しい顔つきが少し穏やかな様子に変わった。 峰岸は受話器を置くと由美子に言った。「まぁ。どうやら本当だったようだな。」 疑いが晴れた様子に由美子はホッと肩を降ろした。 しかしその安堵も電算運用部から告げられた新たな事実によって一瞬のうちに消えた。 「電算運用部はそのプロファイラを昨日消去したそうだよ。まぁ、これでは誰かが横流ししようなんて思っても、できるわけがないってことだ。アッハハハッ。」 電算運用部の話によると、プロファイラを消去するのを依頼したのは鹿島本人からの電話連絡によるものだった。由美子は耳を疑った。その事実は全く知らされていなかった。 峰岸課長はタバコに火を点けると紫煙を由美子に向かって吹きかけた。口臭混じりの煙を漂わせて言った。「ふぅ。鹿島社長が消去を依頼した理由は著作権保護のためだそうだ。つまり余計なコピーをうちの会社に残して置いたら悪用されるとでも思われたようだ。どうやら我々は鹿島社長にまるで信用されていないようだな。」 著作権のことなど考えてもいなかった由美子には寝耳に水だった。システムは鹿島哲也と共同で作ったものであり、由美子にも自由に使える権利があると思いこんでいた。 著作権は世の中に先に出した者に権利がある。プロファイラをすでに商品化した鹿島が権利を主張したら由美子に勝ち目はない。 峰岸課長は憎々しげに言った。「著作権を守らなきゃいけないほどのおいしいネタと知っていれば、鹿島社長にプロファイラを引き渡す前に分け前を要求しておくべきだったな。あの抜け目のない鹿島社長にしてやられたな。君も鹿島社長の所の担当なら、そういう事もしっかりと押さえてくれなきゃね。・・・まぁ明日、退職する人間に今さら何を言ってもしょうがないけれどね。フン。」 由美子は呆然と立ち尽くしたまま何も答えることができなかった。 さらに峰岸課長が冷たくののしった。「何をいつまで突っ立っているんだ。君のお陰で儲け損なったんだぞ。明日の給料まで貰いたかったら、さっさと働いたらどうなんだ。クソッ。」 あわてて席に戻ろうとすると由美子の背中に向かって峰岸課長のつぶやきが聞こえた。「それにしても鹿島社長はあの若さで社長に抜擢とは大した男だ。あういう男でも掴まえて寿退職するなら、おめでたいけれどね。・・・フン。何が気に入らなくて辞めるんだかねぇ。こういう女の考えている事はサッパリわからんよ。」 由美子は足を止めた。 由美子が少し振り返り峰岸課長の目を見た時、彼の追い打ちが続いた。「何だね。その目は。ほほう。上司に意見でもしようと言うのかね。仕事に大穴開けて辞める奴に何か言える権利があるのかい。」 峰岸課長は由美子の後任の新人に向かって大声で言った。「おいっ新人! 美並大先生が何か最後に言っておきたいことがあるそうだが、新人のオマエだって言ってやりたいことがあるのだろう。引継書を渡せば済むってもんじゃないとね。」 トップセールスのいつも上位にランクしていた由美子であっただけに、その抜けた穴の影響も大きく、後任のやりくりに苦心惨憺していた峰岸課長から冷たい仕打ちが続いた。 翌日は寂しい退職だった。峰岸課長の目を気にしてか、同僚達のねぎらいの言葉も控え目だった。同僚の一人から廊下の陰でそっと手渡された一枚のハンカチが餞別の全てだった。 峰岸課長のデスクの前に由美子は最後の挨拶に立った。別れの言葉を告げようとした時、彼から「これ。ついでに捨てといてね。」と一枚の額を渡された。 それは由美子自身が会社から授かった業績表彰状を納めたものだった。昨日まで事務所の壁に誇らしげに掲げられていたものだった。由美子が勝ち取った年間販売成績一位の業績は峰岸課長も諸手を挙げて喜んでくれたはずだった。 だが今は峰岸課長の手で引きずり降ろされ、残されたものは壁に付いた四角い額の跡だけだった。 「君の後任に君の影をいつまでも引きずってもらっては困るからね。それじゃ。」それが峰岸課長からの最後の別れの言葉だった。彼は言い終わると由美子にも目もくれず、消しゴムの消しカスを由美子に向かって吹き払った。 会社のために懸命に働き、会社の業績に貢献してきたつもりの由美子にとって、この会社での月日は何であったのだろうか。鹿島が東海センサス社に転職した時に鹿島の誘いを振り切ってまで仕事に打ち込んできたはずなのに。 結末は精魂込めて築きあげたプロファイラさえも消え、ベイシティシステム社に残したものは一体何があったと言えるだろうか。壁に額の跡を残すために心血を注いできたのだろうか。 一人、玄関口には見送る人もなく、埃だらけの額を手にして由美子は立ち尽くした。額を腕に抱きしめると止めどなく嗚咽がこみ上げてきた。そしてその苦汁から逃げるように外へ出た。 灼熱の太陽が照りつけて由美子の背中を焼いた。オフィス街を振り返ると会社のビルが陽炎に揺れていた。由美子はただの幻を求めて身を尽くしていたのだろうか。 そんなはずはない。「違う。違うわ」と心に呼びかけても虚しく陽炎は揺れ続けていた。 目眩を覚えそうな真夏の陽差しの中で心の奥から呼びかける声が聞こえた。「ここに来る人はみんな都会の忙しさから逃れてくるのよ。この海が疲れた心を癒やしてくれるのよ。ねぇ。この綱を持ってみる? この子達って力が強いわよ。」由美子の脳裏に野崎夫妻の言葉が蘇った。ミオとレオに会いたい。今すぐ会いたい。由美子は心の奥からささやく声に誘われるままに西へ向かった。 |