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第十八章 あの海あの風に会いたい

 バスの車窓から夕陽が差し込こんでいた。曲がりくねった海辺の道を奥へ奥へと走るといつしか大瀬崎の終点へ到着した。学生達が降りると最後に由美子が降りた。景色は前のままだった。由美子はミオとレオを探して、早る心で海辺の遊歩道を急いだ。

 由美子の姿を見ると金網越しにミオとレオが尻尾を振りちぎりながら寄ってきた。ミオとレオは由美子を待ち続けていたかのように、あの日のように金網に掛けた指を優しく舌で舐め始めた。その温もりがあの日の記憶を次々と蘇らせた。由美子はミオとレオをすぐにでも撫でてやりたい気持ちになった。
 由美子の背後から声がした。「ミオとレオに会いに来てくれたのね。」
 ふと見上げると野崎和子がそこにいた。和子の手が肩に触れると由美子の肩が震えた。凍てついた真冬のような震えが由美子の心の奥から止めどなく溢れた。
 和子は何も言わずに由美子の肩を優しく抱いた。和子にはわかっていた。由美子の背中に悲しみの陰を察した。都会を信じ、都会に裏切られ、傷ついた心が一つ。優しさを求めて来たことを感じた。和子は母にすがるように求めてくる由美子を愛おしく思った。


 和子は翌朝、いつものように犬の散歩に出た。和子の家に泊まった由美子も一緒に歩いた。先日と同じく爽快な海風が吹く岬をひと回りした。
 二人は渚伝いに帰り道を辿った。由美子は家が見えてくると立ち止まって言った。「私が昨日、ここへ来た理由をお話ししていませんでしたね。実は」と言いかけたところで和子が制止した。
「私より先に話さなければならない人がいるわよ。ほら、あそこを見てごらんなさい。」と和子が遠くの浜辺を指さした。
 朝日を背に二人の人影がこちらへ向かってきた。
 人影は由美子を見つけると急に走はじめた。遠くで手を振り叫ぶ声がした。「由美子っ!」咲と龍一だった。ミオとレオは急に興奮して二人に向かって伸び上がるように歓迎した。

「もう何もかも失ってしまったの。もう私には何もないのよ。」と由美子は自暴自棄に言った。
「わかっているわ。由美子が退職する日になっても、咲の会社にプロファイラシステムを送ってこないから。きっと何かあったと感じていたの。」
「心配していたんだ。一人でいなくなってしまうなんて。僕達、仲間じゃないか。」
「黙って来てしまってごめんなさい。もう全てダメなのよ。私はもう何もできない女なの。許して下さい。」と由美子は咲の前に崩れるように伏せて泣いた。
「泣かないで。由美子が悪い訳じゃないわ。もう誰も由美子を責めたりしていないわ。」
 由美子の肩をもう一人、ごつい手がやさしく触れた。そして目の前に純白のウェットスーツが差し出された。野崎洋平だった。「これは嫁に行った娘のものだが、よかったら着てみないかね。」
「いけないわ。大切なお嬢さんのものでしょう。」
「いや。いいんだ。貴女は儂の娘のようなものだ。ほれっ。これを着て儂と一緒に海に潜らないか。海に行けば全てを忘れられるだろう。さぁ。」
「由美子さん。きっと貴女にもピッタリ合うはずよ。さぁ。もう泣かないで。私達の娘はそんなに泣かないものよ。」と和子も勧めた。


 野崎洋平のリードでダイビングを始めた。真夏の陽差しとは打って変わって海中は快適な世界だった。洋平のガイドで海中散歩を楽しんだ。入江の海には木にツララが下がったようなアオリイカの産卵床が見られた。
 洋平を先頭に龍一と由美子が海から上がってくると、ダイバーショップで待っていた咲が駆け寄ってタオルを差し出した。由美子の顔にもようやく笑顔が戻ってきた。
 エアタンクを降ろすと浜辺に腰を降ろした。由美子と龍一は魚達の発見に興奮が覚めやらぬ様子だった。
「すごく大きかったわねぇ。1メートルもある大きな魚が砂に隠れていたけれど。知らずにその魚の真上で泳いでいたの。野崎さんに指で教えて貰って砂を少し払うとエイのような体が現れたのよ。野崎さん。あれは何と言う魚なんですか。」と由美子は洋平に尋ねた。
「あぁ。あれね。鮫だよ。」
「エッ! 鮫なんですか。私は鮫の背中の上にいたなんて! 手を食われなくてよかったわ。」
「指が残っていて幸運だったねぇ。儂なんか、ほれっ。指が1本足りないだろ。」と洋平は右手の小指を1本隠して見せた。由美子達は騙されたことに気が付くと大笑いした。
「わっはは。大丈夫だよ。鮫は鮫でもカスザメだから手を出さなければ大人しいよ。しかし鮫が今の季節に浅瀬に現れるなんて珍しいなぁ。きっと貴女に逢いたがっていたのはミオやレオじゃなくて本当は鮫かもしれんな。あっはは。」洋平は笑いながら由美子をからかった。

「ねぇ。教えてくれる? 私がここに居るのをどうやって見つけたの?」と由美子は龍一に尋ねた。
「あぁ。野崎さんに教えてもらったんだ。ここの場所にほら、いるよ。という風にね。」
「私、鮫じゃないわ。」と由美子が口を尖らせて言った。
 咲が答えた。「由美子が行きそうな所をあちこち連絡をとって探したけれど見つからなかったの。それで由美子が以前にも行方不明になった時の事を思いだしたのよ。」
 咲が語るところによると、由美子がジャーマンポインターが2頭いるダイバーショップにお世話になったと話していたことを思い出した。咲と龍一は西伊豆のダイバーショップを調べたところ、何軒もあり、どこだか見当もつかなかった。
「一軒ずつ電話したの?」と由美子がきいた。
「深夜でしょ。できなかったわ。でもね早瀬君が探し当ててくれたの。」
 龍一は昨夜、REX社で開発中のクロスセンシングシステムを実験を兼ねて試しに動かてみた。静岡県下の犬の登録情報を保健所のデータベースから取り寄せて、ダイバーショップの電話登録の情報とクロス検索してところ、大瀬崎で2頭飼っている店をすぐに発見できた。
 電話すると野崎和子が由美子が来ていることを教えた。
「クロスセンシングシステムの実験と由美子の発見の両方が成功したのよ。」と咲は誇らしげに言った。
 しかし由美子は目を伏せ、落胆した様子で語った。「せっかくクロスセンシングシステムが動いたのにとても言いにくいけれど、プロファイラシステムが消されてしまいました。」
 皆、著作権保護という思わぬ伏兵にしばし頭を抱え打開策を考えあぐねた。
 腕を組んで考え込んでいた龍一が何か思いつくと言った。「プロファイラシステムを消されてしまったのは残念ですが、同じソフトウェアを市場に出しても鹿島さんからシェアを奪うのは困難でしょう。同じソフトなら販売実績のある鹿島さんの方へクライアントが流れてしまうはずです。だからもっと良いソフトがなければ鹿島さんを追い抜くことはできないと思います。それに違うソフトなら著作権侵害にもならないはずです。」
 そこへ洋平が店からビーチパラソルを持ってくると差し掛けた。焼ける陽差しが和らいだ。
「違うソフトウェアと言うけれど、何かあてがあるの?」と咲が尋ねると龍一は首を振って、うなだれた。
 由美子は洋上遠くに霞む富士山の黒い山影を見上げた。目の前に立ちはだかる鹿島の巨大な影に、もはや無力感を覚えずにはいられなかった。




 経団連ビルの一室では経済新聞記者達がマイクのセッティングに余念がなかった。そこへ清水春樹がテーブルに着席した。彼はマスコミに顔が売れていることを買われてブロブディンナジオ社を代表して今日の新製品発表を任されていた。プレゼンテーション用の大画面プロジェクターが投影され、説明が始まった。
 画面にはコンピュータグラフィックスで描かれたビルやマンションが立ち並ぶ横須賀のシーサイドタウンが投影され、モノレールや行き交う車がミニチュアの国のようだった。
「これから記者の皆さんが横浜みなとみらいエリアの大型デパートの販売部長になったつもりでご説明いたします。このシーサイドタウンは一般的には横須賀地域に含まれる所として認識されておりますが、はたしてこの広大なシーサイドタウンを攻略すべきどうか判断材料をこれから提供いたします。」
 シーサイドタウンの核となるモノレールの並木中央駅を中心として半径十キロのマップを示すと北に横浜みなとみらいベイエリア、南に横須賀ベイエリアが表示され、どちらもほぼ等距離に位置していた。
 清水は交通状況を投影した。マップの中のモノレールをマウスでクリックすると北のみなとみらいエリアの桜木町駅まで乗り継いで乗車時間は合計二十一分。南の横須賀中央駅まで三十分と大差ないものの、横須賀ルートは途中で乗り継ぎのために市街地を数分歩かなければならない接続の悪さがある。
 次に清水は車をクリックした。シーサイドタウン地域内の道路は車がスピードを上げてスムーズに流れている様子が映し出された。しかしシーサイドタウンと南北で接続する国道十六号線で慢性的に渋滞が生じ、地域外へ車での移動はしにくい状況がマップに示された。
 高速道路を見ると北のみなとみらいまで開通したばかりの高速湾岸線ならばほんの二十分で移動できるが、南の横須賀エリアへは高速道の接続が悪く倍以上の時間がかかることを示した。
「シーサイドタウンは横浜みなとみらいエリアの商圏であることがわかります。つまりマーケティングを強化すべき地域であるということです。ではこの地域の購買力の分布を見てみましょう。」
 シーサイドタウンの拡大マップに切り替えると建物ごとにデパートの狙う年代層、性別、所得など購買力を示すカラフルに色分けされた分布マップが重ねられた。
「このマップ上にこの大型デパートの顧客分布データをさらに重ねます。購買力があるにもかかわらず顧客の少ない空白域があります。ここに集中的にダイレクトメールなどの販売攻勢をかけるべき地域がハッキリと見えてきます。一見、同じように見えるマンション群でも建築年代のズレによって入居者の世代も少しずつ異なっているものです。このデパートはそのことに気が付かずに若い世代の多く集まる地域を見落としていたものと思われます。」
 記者達の顔が一様に頷いた。清水の言葉に会場は皆、聞き入った。

 清水にスポットライトが当たった。「さて今、お見せしたのは販売戦略上はとても便利なものです。しかしそれはこのシステムのごく一部にしか過ぎません。ここからご説明する内容はちょっとオフレコにしていただきたいと思います。」
 清水がピンポイントメニューを選ぶと画面に立体的なマンション群が現れた。彼はあるマンションの一室をマウスで指すとその世帯全員の個人情報が現れた。世帯主を筆頭に家族全員の名前、年齢、勤務先、所得などが次々と表示された。「これはプライバシーに関する情報ですから機密保持契約を結んでいただける企業向けだけに販売されるサービスです。」
 清水は家族のうち、子供の学校名をマウスでクリックするとその学校のホームページに自動リンクして指定制服が画面に表示された。
「ピンポイント情報ではこの例のように指定制服を知らないお客様に適切にアドバイスできます。あるいは高齢のお客様が福祉器具を購入する場合、お客様のお住まいの地域の行政からの補助や手続方法とリンクして即座にお答えできます。せっかく店頭に来ていただいたお客様が行政サービスとの兼ね合いを知らないばかりに出直しなければならない不便さが解消されます。
またお客様がCATVなどを設置する場合、各マンションの共用設備などの設置状況を即座に調べることができるため、お客様に最適なテレビをお勧めできるのです。これらはほんの一例ですが、他にも多くの個人情報、地域情報、行政サービス情報をドッキングした顧客サービスを提供できます・・・」と清水の具体的な説明が続き、記者達の好奇心を大いにかき立てた。記者達からため息ともつかぬ感嘆の声があがった。

 再び画面が動き出した。「この地図情報システムの名前は・・・」と清水が声を大きく張り上げて画面に指さすとポストブロブスの名が大きく表示され、続いてブロブディンナジオ社のロゴが立体的に投影された。
 質疑応答の時間になり、記者からは矢継ぎ早の質問が投げかけられた。「ブロブディンナジオ社は学習地図帳の専門メーカーのはずですが、このポストブロブスは従来路線とはかなり違うものに見えますが。」
「はい。スクールブロブスで広くご支持をいただいた地図情報技術と、モーションブロブスで培った立体CG技術を応用し、さらに新しくクロスセンシングシステムという個人情報検索システムとドッキングしてあらゆるニーズにお応えできる総合地域情報システムを完成させました。
その地域情報の充実度においてはこのポストブロブスの右に出るものは無いものと確信しております。当社におきましてはこれをもってビジネス分野への本格的な進出を図る所存です。」
 ポストブロブスの個人情報の検索技術はREX社が開発したクロスセンシングシステムが組み込まれていた。それだけにブロブディンナジオ、REX両社の橋渡し役となった桜川咲にとって、この記者会見は感慨深いものになった。

 記者達へのプレゼンテーションが終わると会場の隅で眺めていた坂堂社長と咲が清水の所へ駈け寄って来た。「清水君。カッコいいっ。清水君ってこの頃、何かすっごくパワー出てきたみたいね。ねぇ、もう一度やって。このシステムの名前は・・・と。」と咲が片手を指し伸べる真似をして言った。
「ええっ。ここじゃ恥ずかしいですよ。ほら。坂堂社長も見ているし。」
 坂堂は若い二人を眺めながら自分の選択が正しかったことを感じた。モーションブロブスの一件ですっかり自信をなくしていた清水が水を得たように活き活きとした顔を見せてくれたことが嬉しかった。そして最近、笑顔が消えていた咲の喜ぶ顔に何物にも代え難い至福を感じた。


 翌日、新聞各紙に一斉に発表された。桜川咲は新聞をあちこちから買い集め、更に電子新聞も片っ端からプリントアウトした紙の山を胸に抱え、社長室のドアーを開けた。
 社長室の応接テーブルにはすでに坂堂社長を中心に荒山営業部長、和田開発部長と清水春樹が詰めていた。
 清水は新聞紙の山から経済新聞を読み漁るうちに清水は緊張していた顔が少しほころびかけた。各紙とも扱いはさほど大きくはないが好意的な記事に満足した。
 しかし荒山は低く唸るような声を漏らした。「この日陽新聞の扱いが問題ですな。」
 日陽新聞は国内大手の一般紙である。ポストブロブスの記事が経済面に小さく紹介されていた。
「記事が小さすぎるということですか。」と和田開発部長が尋ねた。
「いや。別の記事を見てくれ。そいつが問題なのだ。」
 記事の見出しは「モーションブロブス、3ヶ月連続の出荷量ダウンか。」と書かれていた。モーションブロブスに影響されて引き起こされたと見られた同級生宅放火事件以来、親達の買い控えの動きは関東を中心に全国的に広がり、学校からは有害指定ソフトのレッテルが貼られる動きが相次いだ。それは皮肉なことに子供達の人気が高まれば高まるほど、ジリジリと販売量を落とす結果となった。その煽りを食らってスクールブロブスの販売量にまで暗い影を落としていた。
 坂堂はそんな暗いイメージを払拭するために、ポストブロブスを前面に押し出して華やかなスタートを切らせ、ブロブディンナジオ社の健在ぶりを誇示するつもりでいた。
 しかし坂堂の思惑は外れてモーションブロブスの販売不振の動きを日陽新聞にスクープされてしまった。
 ブロブディンナジオ社の記事とは対照的にその隣の記事には鹿島ブレインリサーチ社のプロファイラシステムが紹介されていた。プロファイラ適性検査は学生達にはウェブキャスト局が制作したものと思われており、影で支えている鹿島ブレインリサーチ社の存在は噂でしか知られていなかった。記事にはウェブキャスト局各局の適性検査がすべて鹿島ブレインリサーチ社によって独占的に牛耳られていることが初めて報じられた。
 しかし肝心のプロファイラシステムの詳しい内容は機密を理由に取材拒否されたらしく紙面は鹿島ブレインリサーチ社のビルの外観写真で埋められていた。その秘密主義がかえって鹿島ブレインリサーチ社が就職戦線を陰で操る巨大な黒幕のような印象を与えていた。
 皮肉にも同じ日の紙面にブロブディンナジオ社の凋落ぶりと鹿島ブレインリサーチ社の快進撃ぶりが掲載され、紙面の明暗を分けることになった。
 咲はまたしても目の前に立ちはだかる鹿島の出現に身体の力が抜けていくようだった。一瞬、目の前が暗くなった。その視界の外から坂堂社長の声が聞こえた。「おいっ。咲。どうした。まだ具合がわるいのか。」
「大丈夫よ。心配しないで、私のことは。それよりもポストブロブスだけでモーションブロブスの穴を埋めることができるかしら。」
 荒山営業部長が咲に追随して重い口振りで言った。「モーションブロブスの煽りを食らってスクールブロブスの販売にも苦戦しております。販売の落ち込みは次第に大きくなりつつあります。期待のポストブロブスは類似の総合地域情報システムが他社で数多く出回っており後発の不利は否めません。この先とてもポストブロブスだけではカバーしきれないと思います。やはりもっと大型で斬新な新商品開発を急ぐべきと思います。」
 荒山営業部長は言い終えると和田開発部長の目を見た。
「うぅむ。もっと斬新な新商品ですかぁ。」と和田は腕組みしたまま一言唸った。そして助けを請うように坂堂社長に顔を向けた。しかし坂堂社長は目を閉じたまま何も答えなかった。


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