第十九章 太陽のプロミネンス 龍一は職場の端末で2か月前に受け取った古い電子メールを読み返していた。それは面談サポートシステムの活用アイデア募集の案内だった。 面談サポートシステムは一部のユーザーにテスト販売した結果、評価が良いため近く大々的に売り込むことになった。その販路拡大のためにもっと活用できるアイデアを社内募集したものだった。龍一は読み終えるとメールを閉じた。 次に龍一はそのアイデア募集で採用された提案書に目を移した。用紙の上には機密厳守と記されていた。 提案者は人事部の桐田志郎であり、タイトルは「就職面接等における総合診断システムの提案」と銘打っていた。内容は人事部で今年試験的に面接に使っていた面談サポートシステムによる実施成果を元にさらに改良を加えて利用価値を高めるプランが織り込まれていた。 龍一はテレビ中継されていたREX社の就職面接のシーンを思い出した。たしかテレビカメラから面談サポートシステムを隠そうとしていたのは桐田志郎だったような気がした。 あの日一緒にテレビを見ていた妹の麗子に面談サポートシステムの存在を内緒で教えた途端、心を見透かすような事をしているREX社を毛嫌いされたことも思い出した。 龍一とて同じように東海センサス社での体験から、勝手に心の内をコントロールされる面談サポートシステムを快く思えなかった。そんな不愉快なシステムの開発に参加するよう上司から龍一に指示が下っていた。 龍一は憂鬱な気分のまま提案書を読み進めた。 桐田の案ではプロファイラのような適性検査システムに新たに面談サポートシステムを加えて、プロファイラを超える総合的な就職診断システムを作るプランだった。そのためにプロファイラと同じシステムを当社でも開発することを提言していた。 面談サポートシステムを使って面接を行なえばプロファイラ適性検査では測定できないような性格を調べることが可能と提案されていた。例えば適性検査では冷静沈着とデータが出ても、対人面接ではろくな会話もできない人間と評価される場合もある。このように性格テストと実際の印象が食い違うことはよくあることだ。これを的確に見抜くには面接官が経験的に体得した人物眼がモノを言う。 しかし面接官が皆、人を見る目が優れているわけではなく、労務キャリアの少ない人間が担当することもある。例えば取締役に選任されたばかりの技術畑上がりの人間がその立場上、にわか面接官になることだってあるのである。 面談サポートシステムによる機械評価を使うメリットは面接官の判断を助ける情報を与え、その上デジタル化されたデータは多数の学生を比較するのに便利なのである。 そこへ上司の木下係長と佐藤友康が一緒にやってきた。 木下係長が言った。「提案書の件、理解してくれたかね。その件で伝えておきたいことがあるが、その就職総合診断システムはプロミネンス総合診断システムというプロジェクト名に決まった。」 「プロミネンスって太陽の紅炎のことですか。」と龍一は質問した。 横からすかさず佐藤が口を挟んだ。「さすが理系ね。良く知っているのね。もう一つプロミネンスの言葉には卓越という意味もあるのよ。つまりプロファイルより卓越したシステムという意味が込められているの。これ、木下係長がお考えになったのよねぇ。」 「まぁな、どうだ良いネーミングだろ。」 「素敵よねぇ。まるで私みたいに燃える炎のような存在ね。早瀬ちゃんもそう思わない?」 「おいおい、早瀬君に感想を聞いているんだよ。彼にはこのプロジェクトのリーダーを引き続き頼むつもりなんだ。リーダーの当人にもプロミネンスを気に入って貰いたいんだよ。」 「えっ、リーダーを僕が。」龍一は顔をしかめた。 木下係長は言った。「そうだ。ブロブディンナジオ社に納めたクロスセンシングシステムの開発も無事終わったことだし、次を手がけるにはちょうど良いタイミングじゃないか。それに今度のプロミネンスにも個人情報の検索が不可欠だから、もう一度クロスセンシングシステムの技術を生かして欲しいんだ。」 「僕を買って下さるのは嬉しいですが、どうかプロミネンスの開発から僕を外してくれないでしょうか。あの開発だけはちょっと僕には向かないようで。」と龍一は低姿勢に断った。 「何を寝ぼけたことを言っているんだっ! 仕事に好き嫌いを言うもんじゃない。リーダーに抜擢されただけでも有り難いことなんだぞ。いいねっ、頼むよ!」 龍一の煮え切らない返事に木下係長の顔がゆがみ始めると佐藤が割って入った。「ほらほら木下係長っ、怒りっぽくなるのはヤニが切れ始めている証拠よ。あっちの座敷牢でゆっくり一服、一服。さあ、さあっ。」 佐藤は木下係長を喫煙エリアへ追い立てると佐藤は龍一を掴まえて耳元で囁いた。「あんたバカねぇ。ブロブディンナジオ社から受注を貰った功績で木下係長はやっと課長に昇進できるかもしれないって噂よ。ここで水を差したらヤバいでしょ。素直にリーダー勤めれば早瀬ちゃんにだって良いことあるわよ。」 佐藤の言葉を裏付けるように木下係長の態度はいつもとは違い、かなり強引さを感じた。 床に2メートル四方に黄色くマーキングされた喫煙エリアには四本の支柱で支えられた集煙装置が天井に取り付けられていた。その下で木下係長は満足そうに紫煙を吐いた。まるで座敷牢のような喫煙エリアの真ん中で牢名主のように仁王立ちした。 二、三服すると木下係長は大声で龍一を座敷牢の前へ呼び寄せた。「そういえば君はブロブディンナジオ社の坂堂社長の娘とパイプがあったはずだな。そのツテで頼みたいのだが。」 「何を頼むのですか。」と龍一が座敷牢の前でかしこまった。 「もう一度、ブロブディンナジオ社と手を組んで開発できないだろうか。今、ブロブディンナジオ社と縁が切れたら私が困るんだ!」 「もしダメだったら?」 「ダメじゃ絶対ダメだ! たとえ、あそこの娘に関係を迫っても良いから縁を切るんじゃないぞ。いいなっ! わかったら仕事に戻れ。」 「しかしそんな無理を言われても・・・。」 「バカたれっ! 君に我々の運命の全てを預けるのだぞ。いいなっ。あの娘とうまくいったら褒美に仲人ぐらい引き受けてやる。何とかして来いっ!」 龍一はぐうの音も出ずに引き下がってきた。 佐藤が龍一の脇腹をつついて小声で言った。「ねえねえ。係長の言葉を真に受けちゃ嫌よ。あそこの娘がどんな女か知らないけれど絶対に嫌よ。相手に頼むのは仕事の事だけにしてね。」 龍一はプロミネンスの計画を桜川咲に伝えると幸運なことにブロブディンナジオ社との共同事業の話はうまく事が進んだ。程なくしてブロブディンナジオ社からREX社へ発注する承諾が入った。つまりプロミネンスはREX社で開発して、発売元はブロブディンナジオ社となる段取りになった。 次の一手に窮していた坂堂社長にとってプロミネンスは救いの一手だった。ブロブディンナジオ社の経営陣は二つ返事で賛成した。とりわけ桜川咲が喜んだのは言うまでもない。もはやプロミネンスは設計企画書もできないうちにGOサインが出た。 REX社側では二つの部門で分担して開発することになった。プロミネンスに面談サポートシステムを組み込む作業を電算設計部が担当し、クロスセンシングシステムを使って適性検査システムを制作する部分を龍一が所属する並列COM応用開発部が担当することになった。そして二つの開発チームの総指揮は龍一が受け持つことになった。 このトントン拍子の展開に最もゴキゲンなのは木下係長であった。彼はデスクの上を雑巾で拭こうとした女子社員に言った。「そんなにここは丁寧に拭かなくてもいいよ。それよりあっちの席を丁寧にね。そう丁寧に。」木下係長は隣の課長席を目で指図した。 龍一には気の進まない開発であったがREX社開発陣の総指揮者に祭り上げられて、もはや個人的な趣味を言える状態ではなくなった。むしろ桜川咲の期待に応えようとする気持ちが次第に龍一の心に新たなファイトの火種を植え付けた。龍一はお盆休み返上で開発に臨んだ。 しかしお盆休みが明けると早くも最初の難問に見舞われた。 佐藤友康が耳打ちした。「早瀬ちゃん。ちょっと聞いたんだけどぉ。今度、開発を頼まれている会社。えぇっとブロブなんとかって言う会社が新聞に叩かれていてヤバイらしいのよ。知ってるでしょ?」 「ブロブディンナジオ社だろ。僕も見たよ。」 日陽新聞の経済面の見出しには「ブロブ社主力のスクールブロブスの出荷、前年度比半減の大幅ダウンに見舞われる。」と報じられていた。モーションブロブスの買い控えの動きはついにスクールブロブスへ津波のように押し寄せた。それはもはやブロブ社の経営危機をも予感させた。 「じゃ社会面も?」と佐藤は尋ねた。 「いや、忙しくてそこまで見ていなかったが。」 佐藤はおもむろに社会面を差し出して見せると記事を読み上げた。「文部省はモーションブロブスが電話番号を元に学童宅を地図検索していたことを重く見て、今後は住所録などのプライバシーに関わる情報をクラス内で公開しないことを各校長に求めることになりました。この対応によって今まで慣例化していたクラス内の緊急連絡網の廃止と、生徒同士の年賀状のやりとりは自粛される公算が強くなる模様です。」 佐藤は記事の途中まで読み上げると龍一に新聞を手渡した。残りの記事を貪るように読む龍一に向かって佐藤は新たな情報を伝えた。「この記事が報じられてからね。うちの並列COM応用開発部では部長が怖じ気付いちゃって、ブロブ社の仕事から手を引きたいって販売本部長に訴えたらしいのよぉ。」 「えぇっ! 開発のリーダーはこの僕なのに撤退するなんて一言の相談もなかったぞ!」 「早瀬ちゃんにはショックかもしれないけれど噂ではうちの部長が勝手に一人で決めてしまったらしいの。撤退に備えて、うちのクロスセンシングシステムのノウハウはすべてブロブ社に譲り渡す気でいるそうよ。つまり火傷しないうちに後始末をブロブ社に押しつけて逃げる気でいるつもりよ。」 龍一は叫んだ。「そんなバカなっ! そんな勝手なことが許されるのか! いったいプロミネンスは誰が面倒をみるんだ!」 席を立ち上がった龍一を佐藤が腕をむんずと掴み、龍一を椅子に叩きつけて戻した。オカマのくせに腕力の強い佐藤に龍一は閉口した。 佐藤はドスの効いた声で言った。「どこへ行くのよ。情報をバラされたら私が喋ったと思われるでしょ。落ち着いてよぉ。まだ望みはあるわ。電算設計部は面談サポートシステムの開発をまだ続けているわ。」 すると木下係長のデスクへ女子社員が部長の伝言を伝えに来た。「部長がすぐに別室に来るようにと言っておられました。」 佐藤はそっと龍一に言った。「ほらね。言ったとおりでしょ。ウフフ。木下係長が一番可哀想ねぇ。あんなに期待していたのにね。」 それから暫くすると目を赤く腫らした木下係長が戻ってきた。木下係長は部下を集めると予想した通り並列COM応用開発部の撤退の知らせを伝えた。 プロミネンスの開発は暗礁に乗り上げた。並列COM応用開発部の支援なしではますます完成が遠ざかることになる。遅れれば遅れるほどプロファイルからシェアを奪う可能性が消えて行く。 龍一は妹の麗子の就職活動が本格化する前にプロミネンスを市場に投入したかった。そして消された3千人のためにも早く手当しなければならなかった。龍一は焦燥感に見舞われた。 9月に入るとブロブディンナジオ社の経営不振がますます濃厚になった。銀行支援の代償として銀行からは役員派遣を要求されたが、坂堂社長は銀行支配を拒んだために資金不安の黒い噂が流れた。 噂は出入りの銀行マンの口からREX社の耳にも届いた。すると面談サポートシステムを支援していた電算設計部の態度までもが冷たく変わった。電算設計部も並列COM応用開発部と同様に機材や一通りの技術ノウハウをブロブ社に引き渡すと、後始末をブロブ社に任せてREX社の技術者をすぐに引き上げた。 ブロブ社の倉庫には面談サポートシステムのカメラやコンピュータ機材が梱包されたまま捨て置かれたが、それを開く者はだれもいなかった。 そして強引に開発を移管されたブロブ社では急遽、開発チームが編成された。 龍一は適性検査システムに組み込むクロスセンシングシステムの技術資料を引き渡すためにブロブ社へ向かった。それがブロブ社との最後の仕事になる日でもあった。 龍一は仕事が終わりブロブ社の玄関ロビーへ降りてきた。5階建ての吹き抜けの高い天井の真下を通りかかるとガラスの壁が釣り鐘の中のように周囲を取り囲み靴音が共鳴して響いた。 龍一は吹き抜けを見上げて最上階の秘書室にいる桜川咲のことを思った。龍一は玄関口に背中を向けるとエレベータへ向かった。 龍一が乗った箱の扉が閉じた時、入れ違いに清水春樹がエレベータホールへ現れた。 清水は坂堂社長にモーションブロブスに対する子供達の最近の動きを報告するために役員室に向かうところだった。 龍一は秘書室のドアーを開けると悲鳴が聞こえた。ドアーの裏にまたも偶然、咲が挟まれてしまった。 「やっぱり下手くそね! まだドアーを満足に開けられないじゃない。」と咲が口を尖らせて言った。 フォレストビューホテルで初めて出会った時と同じファインシルクのシャツを身に着けていた。そして胸のボタンはあの日と同じく外れたままになっていた。 「あのボタン探してきてよ。」 はち切れそうな胸の膨らみが作る谷間が惜しげもなく目の前に大きく晒された。 「咲ちゃん。そんな無理を言っても困るよ。」 咲は無言のまま龍一の手をとって自分の胸の谷間に押しつけた。 「誰かが見ていたらマズイよ。」 「逃げたら叫ぶわよ。」と咲は低い声で言った。龍一は観念して忍し黙った。 「REX社が手を引いても龍一君だけはプロミネンスから手を引いてほしくないの。うちの坂堂を見捨てないで。お願い。」 手の平に咲の胸の温もりが伝わってきた。咲は胸にじっと龍一の手を押しつけたまま呟いた。「お願い。助けてあげて。お願い・・・。」 龍一は咲の気迫に断る言葉を失った。 「このボタンは僕にも見つかるのですか。」 「見つかるわよ。龍一君なら、きっと。」と咲は言うと龍一の頬に優しく接吻をした。 清水は坂堂社長との面会の取り次ぎを頼むために秘書室のドアーの前に立った時、ドアーの隙間から咲の声が聞こえた。 咲に声を掛けようとした。が、声を押し殺した。咲の哀願する声が清水の耳に響いた。 哀願されている相手の顔を覗き見ようと隙間に目をやった時、咲の横顔が男の影と重なった。 清水はドアーからそっと離れるとエレベータホールへ逃げるように急いだ。 エレベータの扉が開くと坂堂社長と出くわした。 「おっ。清水君じゃないか。儂に用事かね。いや、その様子は咲に用事なんだろうな。咲なら秘書室にいたと思うが。」 坂堂社長が秘書室に咲を呼びに向かおうとした時、清水が行く手を遮って言った。「社長にお話があるのですが。」 「何だ。儂に用事だったのか。モーションブロブスのことかね?」 清水は一瞬、ためらってから言った。「いいえ、その事ではありません。プロミネンスの開発チームに私も加えてもらえないでしょうか。たとえREX社からの支援がなくても私は開発してみせます。」 「そうか。君はテレビ番組と二股かけてもやろうと言うのだね。REX社の支援がなくなると今まで以上に厳しいぞ。大丈夫なのか。」 「覚悟はできています。ぜひやらせて下さい。」 「わかった。」と坂堂は言うと一人社長室へ戻って行った。そして清水の上司に当たる和田開発部長へ電話をした。 清水春樹のプロミネンスの開発と湘南ロコウェブ局のレギュラー掛け持ちの仕事はこうして始まった。その過密なスケジュールは夜昼の区別のない異常とも思えるものだった |