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第二十章 竜宮からの贈り物

 龍一の会社にある日の夕刻、面会を申し込む女性が現れた。相手は島本真知子一人だった。真知子は東京への出張の帰りに先日の泥酔の詫びに訪れた。
 真知子は龍一の前で醜態を見せてしまったことがショックだったようで、意気消沈した面もちだった。
 会社を出ると真知子を誘ってクイーンズスクウェアのハードロックカフェへ入った。店内にはちょうどバックストリートボーイズのロッカバラードナンバー、ミッシングユーが8ビートを刻み、ベースの重低音が気持ち良かった。少しは真知子の気分が晴れるかと思い連れてきたのだ。
 二人の座るカウンター席にソフトドリンクが運ばれてきた。
「今日はアルコール抜きにしましょう。」とコーラで乾杯する真知子の顔にようやく明るさが戻ってきた。
 笑顔が戻ると真知子は近況を次々と龍一に話して聞かせた。「そういえば、うちの会社ですごい出世があったわ。鹿島係長を覚えているかしら。あの人がいきなり社長になっちゃったのよ。」
 龍一は知らないフリをして真知子の話に耳を傾けた。
「鹿島さんが社長になってから香織ちゃんとシックリといってないようなの。やっぱり人間って偉くなり過ぎると気持ちが変わってしまうものかしらねぇ。私、心配だから香織ちゃんにそれとなく尋ねたけれど何があったのか、ちっとも教えてくれないの。」
 真知子はあの日、香織と龍一が桜川咲のマンションへ行った一件を知らされることもなく朝までホテルで眠っていたのだろう。
「それにもう一つ、鹿島社長の気持ちがわからないものがあるわ。」
「もう一つ?」と龍一は首を傾げた。
「鹿島社長は以前にパーソナルCMという世帯別対応のテレビCMを制作していたことがあったけれど、そのシステムを使って就職する学生のいる世帯だけ狙って流すCMを実験し始めたのよ。」
「学生だけ狙うCMって何?」
「まだ本当は社外の人には秘密にしなければいけないことだから内緒にしておいてね。そのCMは企業向けの採用支援のアイデアなの。実験の結果が良ければ本格的に商売を始めるつもりらしいわ・・・」と真知子はその新しいCMの実験内容を詳しく説明し始めた。


 その頃、反町孝治の兄の秀介は実験CMの標的にされていることなど何も知らずにいた。
 秀介はすでに3社就職が内定していたが、新たに応募した東海センサス社から役員面接を受けるようにとの通知が今日来ていた。
 秀介は先に内定した会社に就職すべきか、あるいは東海センサス社の面接を受けるべきか迷っていた。夕食を囲みながら秀介は母の時子に相談した。「東海センサス社のこと、どう思う? この会社に浮気したらマズいだろうか。」
「東海センサス社という会社を受けるべきかどうかと聞かれても、そんな会社を見たこともないからねぇ。いったいどんな会社なの?」と時子がきいた。
 秀介は輸入サボテンの煮物を箸でつまんで言った。「マーケティングリサーチの世界じゃ5本の指に入るそうだよ。でも一般の人に物を売ってるわけじゃないからね。なじみが薄いのは仕方ないかもしれないよ。」
 弟の孝治は夕食を食べ残したままテレビのスイッチを入れた。
「孝治! テレビを点けるのは最後まで食べてからにしなさいっ! まだ残っているじゃないの。サボテンはカルシウムが多いんだからキチンと食べなさいっ!」と時子が叱りつけた。
「だってママ。このサボテンに骨があるんだもの。」
「針だよ。ハ。リ。サボテンに骨があるわけないだろ。ほんとにおバカな子だよ。テレビを消して少しはお兄ちゃんの話を聞きなさいよっ!」
 孝治がリモコンのスイッチに手を触れた時、コマーシャルに東海センサス社のCMが流れた。気が付いた秀介が咄嗟に孝治の手を押さえた。
 テレビ画面にはデパートでショッピングしている若い女性が現れ、ショーウンドのサングラスの品定めをしているところだった。
 CMのアナウンスが流れた。「貴方の会社の商品をお客様は今、手に取っているでしょうか。それとも・・・。東海センサス社にコールして下さい。貴方の商品を求めているお客様をきっと見つけられます。・・・」
 最初に声を上げたのは孝治だった。「お兄ちゃん! この会社って、今言っていた所じゃんか。」
 秀介と時子は箸を止めて目を見合わせた。
「ふぅん。テレビCMにも出ているんだね。景気良さそうな会社ね。」と時子の厳しい顔がほぐれた。
 秀介も東海センサス社のCMを初めて見た。あっさり時子が納得してくれたことで秀介もこの会社も悪くないなと思った。
「一応、東海センサス社とか言う会社の面接を受けてみたらどう? 内定貰ってから決めても遅くないわ。一生の問題なのだから先に内定した会社に義理立てすることもないと思うわ。」と時子は勧めた。秀介自身も母親の言う通りかもしれないと思った。
「ママぁ。どうしてもサボテン食べなくちゃダメなの?」
「孝治君。僕が代わりに骨を取ってあげるよ。」と秀介はニンマリした顔で言った。

 このCMこそ鹿島ブレインリサーチ社が東海センサス社に依頼して密かに実験していた放送だった。反町秀介も時子も何も疑うことなく東海センサス社のイメージを心に刻みつけた。
 これはめぼしい学生を確実に押さえるために、その学生のいる世帯だけに送り込んだパーソナルCMだ。
 学生の中には確固とした志望動機を持って企業に応募する者もいるが、大多数の学生は企業をイメージで捉え、選択しているものだ。そのイメージはコマーシャルによる知名度の影響が大きい。ましてや親にとっては仕事の内容よりも企業の知名度が大きく影響するのである。つまりその知名度をコントロールすることが選択の条件になるのだ。
 秀介はその後も繰り返し放送されるCMによって東海センサス社への就職を強く意識し始めた。


 島本真知子がリークした実験CMの情報はただちに龍一からブロブディンナジオ社をはじめ、美並由美子にも電子メールで一斉に伝えられた。
 メールに最初に応答があったのは清水春樹だった。彼はその日のうちに早瀬龍一を訪ねてREX社へやってきた。二人は会社を出るとランドマークタワー下のドックヤードガーデン前で立ち止まった。ドックヤードは造船所の跡地を利用したスリ鉢状になった石造りの野外ホールだ。
 ドックヤードでアマチュアバンドがロックをがなり立てていた。演奏に興奮したファンが何かにとり憑かれたように両手を挙げて踊り狂っていた。まるで古代遺跡で呪術師の奏でる黒魔術に踊らされているようだった。
 清水はバンドを囲む群衆を遠巻きに見ながら言った。「やつらは狂っている!」
「あのファン達か。」と龍一はきいた。
「いや、鹿島ブレインリサーチ社だ。彼らのやっていることはまるで洗脳じゃないか。他の会社へ就職を防ぐためにテレビCMを好き勝手にコントロールするなんて許されていいのだろうか。」と清水は吐き捨てるように言った。
 龍一はバンドに背を向けると周囲のビルに微かに反響して戻ってくるギター音を聴きながら答えた。「彼らは学生向けのパーソナルCMの実験が成功したら、近くクライアント向けに販売しようと狙っている。つまりプロファイラでめぼしい学生を選別して、良い学生を他社に取られないように洗脳するサービスをしようと考えているようだ。そのためなら手段を選ばないつもりらしい。」
「手段を選ばないって?」と清水がきいた。
「島本真知子さんの話によると彼らはパーソナルCMだけでは飽きたらず、サブリミナル広告まで密かに実験しているそうだ。」
 サブリミナル広告は映像の合間に視覚的に認識できないほどの瞬間に商品名などのイメージフィルムを流す方法である。視聴者は無意識にそのイメージを潜在意識に植え付けられる。過去に米国の大手清涼飲料水メーカーで実施されて売り上げが伸びた実例があるが、その危険性ゆえに今は禁止されている。
 清水は踊り狂うファン達を見つめながら声を荒げた。「彼らのやろうとしていることは学生達の公平な判断を妨げるものだ。学生達にとって一生を決める選択なのに潜在意識までコントロールするやり方は断じて許せない。絶対に。」
 リードボーカルのシャウトする声に呼応するファン達の悲鳴にも似た叫びが二人の耳をつんざいた。




 反町孝治は学校から帰宅するとすぐにカバンを放り出してキッチンに走った。冷蔵庫におやつに用意された地元産の浜梨を見つけると口に目一杯詰め込んでテレビの前に急いだ。
 チャンネルを合わせるとすぐに始まった。ディスクジョックキーの佐和田健吾がいつものハイな調子で喋り始めた。「ハローエブリバディ! 相変わらず今日もたくさん、清水博士へメールを貰いましたねぇ。サンキューベリマッチ、ベロエッチ。」と佐和田はテレビカメラに向かって髭だらけの唇から舌を出した。
「では最初のお便りは誰にしましょうかねぇ。」と佐和田は舌舐めずりしながら投稿メールを物色した。
 不意に清水春樹が言った。「たまには私にメールを選ばせてくれませんか。」
「えっ。清水博士が? はぁ。良いですけれどぉ。」と佐和田は手元に置いたメールのプリントを清水の側に置き換えた。だが清水は佐和田が渡したメールを無視すると、いきなり立ち上がり部屋の隅に置いたメールを鷲掴みにした。
「博士! それはっ!」と佐和田が叫んだ。そのメールはすべて没にしたものだ。
 佐和田の制止を聞かずに清水はメールを勝手に読み始めた。「横浜市にお住まいの小学5年生の重田誠君からです。」
 孝治は重田誠の名前に仰天して梨が口から吹き出した。
「清水博士様。モーションブロブスでクラスの友達から僕の家がいつも標的にされています。電話番号を内緒にしているのにクラスの子がバラしちゃうんです。何とか見返してやりたいのですが、良い方法はないでしょうか。一生のお願いです。助けてください。」
 ついにモーションブロブスの被害者からのメールが放送されてしまった。局ではスポンサーのブロブディンナジオ社に気兼ねしてモーションブロブスによる被害者からのメールは全て没にしていた。
「博士。この小学生はきっと戦争ゲームに勝ちたいために嘘言ってるんですよ。次のメールに行きましょうか。」と佐和田が言いくるめようとした。
 しかし清水はまったく無視して喋り始めた。「いいか。重田君。助けてもらう事ばかり考えちゃいけない。自分一人でも戦うんだ。博士はね。君を見捨てないよ。」
「博士っ!」と佐和田が必死の形相で清水を押しとどめようとした。が、清水はそれを無視するようにマイクを握って言い続けた。「良く聞いてくれっ! 君に一つだけチャンスをあげる。ブロブスのマップを横須賀に合わせるんだ。米軍海軍基地に入港している空母カールビンソンと全ての艦載機のデータを君だけに送るよ。もちろんデータ放送なんかしない。ディスクに入れて君だけに送るよ。これでクラスの悪い奴らに挑戦しろ! あとは君の腕次第だ!」
 佐和田がマイクを手で遮って文句を言った。「博士っ! 戦争をけしかけるなんてマズいですよぉ!」
「モーションブロブスに泣く子供をこれ以上増やすのはご免だ。私は博士なんかじゃない。私は間違っていた。モーションブロブスの正しい使い方を広めようと思って今まで一生懸命にやってきた。けれど何も良くはならなかったんだ!」
 マイクを奪おうとする佐和田を振り切って清水は連呼した。「自分一人でも戦うんだ! たとえ一人になっても! 戦うんだっ!」
 佐和田はディレクターに合図して番組を突如中断して強引にCMに切り替えた。
 清水が切れた。そして放送もそれっきり切れてしまった。この日の放送を最後にブロブディンナジオ社はスポンサーを降りしまい、番組は消滅してしまった。哀れにも佐和田はただ一つのレギュラー番組を失った。

 清水春樹の番組潰しの行動はすぐにマスコミに恰好の取材ネタを与える結果となった。
「タレント社員、問題発言で番組ごと降板へ!」
「モーションブロブスはやはりイジメの道具だった。社員自ら認める。」
「タレント社員がイジメの仕返しを煽る発言! 子供向け番組に苦情殺到。」
「ブロブ社、深刻な経営危機が社員をも狂わせたか。」
 新聞に活字が踊り、電車の吊り広告には週刊誌各誌が一斉に事件を取り上げた。そのようなマスコミの動きはブロブ社の株価さえ急落させた。
 当然、ブロブ社内での波紋が大きいのは言うまでもない。取材カメラに追いかけ回される社員達からは清水に対する非難の火の手があがった。女性社員達は彼の姿を見つけるとエレベータに乗り合わせることさえ嫌った。
 そして非難の矛先は清水の上司である和田開発部長にも向けられた。和田はモーションブロブスの不振に悩む荒山営業部長からは怒鳴り込まれ、経理部長はもとより取締役からも部下指導の甘さを叱責された。
 それをキッカケに和田部長から疎まれ、プロミネンス開発チームの中でも清水は孤立した。彼が開発に力を注げば注ぐほどチーム部員達は開発を清水任せにして敬遠し始めた。
 清水は四面楚歌に耐えながら家にも帰らず、会社に泊まり込みで孤立奮闘で開発を続けた。

 ある日、清水は憔悴しきった顔で社長室から出てきた。彼は坂堂社長に番組を潰した顛末を詫びを入れに来ていたのだ。
 桜川咲はうつむいまま目の前を通り過ぎる清水に声を掛けた。清水は咲の視線を避けるように背中を向けたまま立ち止まった。
 坂堂は思い詰めた様子の清水が気になって清水の後を追って部屋を出てみた。坂堂はそこに孫娘と清水を認め、ドアーの陰に身を隠した。そこへ孫娘がやさしく清水をかばい励ます言葉が聞こえてきた。


 翌日、咲は秘書室から龍一にテレビ電話で電話した。「清水君が自分の番組を潰してしまったのは、きっと逃げ道を絶って自分を追い込むためだと思うわ。」
 龍一は咲の電話を会社のデスクで受けた。「つまり自ら背水の陣を敷いてプロミネンスの開発を彼一人でもやるつもりなのか。」
「心配なの。あのまま続けたら倒れてしまうわ。」と咲は画面の中で不安そうな顔を見せた。
 テレビ電話の背後を佐藤友康が通りかかかった。佐藤はチラッと画面を覗くと小指を立ててニタッと微笑んで通り過ぎて行った。龍一はあわてて電話カメラのスイッチを切った。途端に電話は音声だけになった。
「近く僕と由美子さんが応援できるかもしれないよ。」
「えっ。本当なの。REX社が手を引いても大丈夫なのね。」
 龍一は咲の喜ぶ顔が見てみたかったが声だけで我慢した。
「坂堂社長から何も聞いていないのか。」
「いいえ。まだ何も。」と咲は何も聞いていない様子だった。
 坂堂は美並由美子のマンションに子会社を作ることを申し入れていた。坂堂が全額出資して形式的には社長に就任するが、実質的経営は清水春樹、早瀬龍一、美並由美子の3人に任せる気持ちを伝えた。それは龍一にとってREX社を辞めることを暗に意味していた。
「REX社を辞めるの?」と咲はきいた。
「やはり、そうせざるを得ないだろうか。迷っているんだ。」と龍一は言った。その思いは明かりの消えたモニター画面のように暗かった。
「たった3人だけで?」と咲は心配そうに尋ねた。
「仕方ないさ。乗りかかった船だから。でもこの船を沈没させるわけにはいかないさ。」と言う龍一は自分自身がすでに退職を覚悟している口振りなのに自ら気が付いた。



 龍一はそれから1か月も経たない十月初旬、通い慣れたREX社を去ることになった。
 同僚達の別れの言葉に混じって木下係長も別れの言葉を伝えた。「プロミネンスの開発を私も手がけたかった。そうすれば今頃はきっと・・・。私の分まで頑張ってきてくれ。頼むよ君。」
 木下係長の手がしっかりと龍一の手を握った。手の温もりに夢を託す木下係長の心が伝わった。
 同僚達の見送りに別れを告げて玄関口へ来ると佐藤友康が待っていた。「早瀬ちゃん。本当に辞めちゃうのね。信じられないわ。・・・これ、私達の仲間からの餞別なの。受け取ってね。」と佐藤は大きな重い箱を龍一に渡した。
「これは一週間後に開けてね。それより前に開けてはダメよ。いいこと。絶対に今開けてはダメよ。」
「まるで乙姫様の玉手箱のようだな。ありがとう。」
「そうよ。もし約束を破ったら一気に老けちゃうわよ。だからね、だから、いつまでも元気でいてね。それと、変な女に捕まっちゃいやよ。ね。」
 佐藤のジョークを言う口元が最後は泣き出しそうに震えた。佐藤は龍一の手を強く握ったまま離そうとしなかった。龍一はやさしく佐藤の手から離れると別れを告げた。
 玄関口から遠ざかり、後ろを振り返ると佐藤の姿が小さく見えた。今、本当に会社を辞めたという実感がこみ上げた。
 この会社は龍一にとって竜宮城だったのかもしれない。仕事に追われて歳月があっという間に過ぎていたが、佐藤のようないつも暖かく見守っていてくれる人達に囲まれた日々だった。


 翌朝、龍一はいつもの習慣で定刻に目が醒めた。
 机に置いた餞別の大きな箱が気になった。会社を辞めた初日の仕事は箱の中身を透視することだった。包装紙の上から触ってみたり箱を振ったりしたが皆目中身がわからなかった。
 箱を動かしているうちに包装紙を止めたテープが切れて、包装紙が半開きになってしまった。佐藤友康との約束を思い出すとそっと机の上に戻した。
 龍一は何か仕事をしなければと思い立つとパチンコ屋へ出稼ぎに行った。

 昼下がりに家に戻ると妹の麗子が庭の植木に水撒きをしていた。「お兄ちゃん。錬金術師って何なの。」「何の事だ?」
 麗子の撒くシャワーが中空に虹を作っていた。
「ほら。お兄ちゃんの部屋にある箱よ。」
「えっ。開けちゃったのか。」
「あらっ。開けちゃったらいけなかったの? だってお母さんがお兄ちゃんの部屋を掃除していたら、箱に書いてある英語は何という意味なんだろうねって私に見せてくれたよ。」
「二人とも何ともなかったか。例えばちょっと老けたとか。」
 麗子は水を止めて言った。「うん。老け込むわよ。だってプロファイル適性検査をやっている放送局をあちこちチェックしてみたのだけれど、どこも私だけは門前払いを受けるのよ。これでは落ち込むわ。
このまま就職もできずにお婆さんになっちゃったら、どうしょうかしら。お兄ちゃんが何とかしてくれるって言っていたけど本当に大丈夫なの?」
「あぁ。何とかしようとは思ってはいるんだが。これやるから元気出せよ。」と龍一はチョコレートの入ったパチンコの景品を包みごと渡した。

 龍一は部屋に戻って箱を見た。それはレックス・アルケィミストだった。それもバージョンアップした強化版であった。これは佐藤友康達が開発していたもので来週発売予定のはずだ。これで佐藤が強く1週間後に開くよう求めた理由がわかった。
 これを使えば面談サポートシステムを簡単にプロミネンスに組み込むことができる。つまり面接者の動きを面談サポートシステムでデータ化してレックス・アルケィミストで解析すれば、あらゆる心理分析が可能になるはずだ。
 今まで面談サボートシステムをプロミネンスにうまくドッキングさせる方法がなく目処が立っていなかったのだ。
 世界中で最も早く手にしたその箱をそっと開いた。取扱説明書と一緒に手紙が添えられていた。
「約束は守られなかったようね。でもそれでいいの。乙姫様は老いを与える玉手箱をなぜ浦島太郎に渡したか、わかるかしら。
 それは人間の弱さを知っていたからだと思うわ。長い歳月を過ぎて太郎が家に戻っても誰も太郎だとはわからなくなってしまうからよ。太郎が太郎でなくても生けていける男ならば玉手箱を開ける必要がなかったでしょうね。でもそんなに強い人間はいないわ。太郎は老いと引き替えに人々に太郎と認められて安らぎを得たのよ。
 妹の麗子ちゃんは今、麗子ちゃんでなくなっているのでしょ。早くこれで助けてあげて。麗子ちゃんを早く麗子ちゃんに戻してあげてね。追伸、もし万が一約束を守っていたらご免ね。」
 龍一は佐藤の志を無にしてはいけないと心に誓った。
 窓の外を見上げると壊れた風鈴が鈍い音で揺れ、もう秋の訪れを告げていた。時間がない。今日一日無為に過ごしたことを悔やんだ。龍一は由美子と清水春樹へ新会社の打ち合わせをするために電話をとった。



 坂堂社長率いる新会社はブロブシーガル社と命名され、早瀬龍一、美並由美子、清水春樹の3人の社員でスタートを切ることになった。由美子のマンションに美並由美子の表札とともに社名を書いた表札が掲げられた。
 坂堂社長をはじめ、桜川咲ら関係者がお祝いに駆けつけた。龍一は以前は広い部屋だと思っていたが、部屋を間仕切りして由美子のプライベートな部屋を仕切ると作業部屋はとても狭くなった。会社として眺めれば吹けば飛ぶような小さな会社に見えた。
 その狭い部屋に荒山営業部長がブロブディンナジオ社の営業マンを十人連れて入ってきた。椅子が足りず皆、床に車座になって座り一人一人が自己紹介された。商品が完成すれば彼らがブロブシーガル社に代わって販売を担当する手はずになっている。龍一達にとって頼もしい連中だ。
 自己紹介が終わると最後に車座の中心に座った坂堂社長が言った。「皆よく聞いてくれ。今、我々は橋の真ん中を支えている。しかし我々が築き上げてきた橋はスクールブロブス、モーションブロブスの重みに耐えかねて橋桁が崩れようとしている。さぁ今、互いの手をつなごう。しっかり手を握り、心を一つに結べば崩れるのを防げるかもしれない。我々の手で次のプロミネンスを世に出そうじゃないか。」
 坂堂の言葉が終わった時、車座の人々の手が互いに結ばれて大きな輪を描いた。その堅い結束はもう後戻りのできない戦いの始まりを意味していた。


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