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第二十二章 つきまとう陽炎

 待望の新年が明けた。ブロブシーガル社からブロブディンナジオ社へ引き渡されたプロミネンスは坂堂社長の陣頭指揮のもと大々的に売り込みが開始された。
 一方、龍一ら開発陣は仕事が一段落して遅ればせながら正月気分を楽しむことになった。
 松飾りが家々の軒から消えたころ、麗子に思わぬ事件が起こった。
「お兄ちゃん。気味が悪いの。早くっ!」と麗子が龍一の寝室に入ってくるなり布団にくるまっていた龍一をベットから引きずり降ろした。寒さに武者震いしながら彼はテレビの前に連れてこられた。
 麗子は受け取った電子メールをテレビ画面に映した。「麗子ちゃん。昨日のテニススクール初日は楽しかったかな。君に一目惚れしたよ。」という文章が繰り返し続いていた。延々と数十万行もあるメール爆弾と呼ばれる嫌がらせだ。テレビ内部のコンピュータメモリがオーバーフローして停止してしまった。
 発信人は陽炎というペンネームだけだった。
「誰なのかしら。この陽炎って。」
「テニススクールの生徒とか、コーチに様子が変なのはいないか。何か麗子をじっと見ていたような男はいなかったか。じっと視線を感じるような。」
「昨日は新クラスの初日だから緊張しちゃって他人の視線なんて感じている余裕なんてなかったわ。それにメール爆弾を落とされるような恨みを買うような心当たりはないわ。」

 陽炎からのメールはそれからも連日のように続いた。麗子は龍一に電子メールをまとめて見せた。「ラッフルズ英会話学校の日は帰りが遅いようだね。夜道に気を付けるんだよ。陽炎はいつも君を見守っているよ。」
「昨日は黄色いセーターの君を見かけたよ。可愛い君が一層愛くるしくて陽炎の心は君の虜さ。君の後ろで君の髪の香りを感じたよ。素敵だった。陽炎はいつも君の香りを感じられるほど側にいたい。」
「君の温もりはとても素敵だったよ。レストランで君が去った後の椅子に君の温もりを感じていたよ。手に伝わる温もりが君の肌の暖かさなのだと思うと至福の歓びを感じたよ。陽炎はいつか本当の君の肌の温もりに触れてみたい。」
「CDショップでロストボリアリスのサントラ盤のディスクを手にしていたね。棚の隙間からしばらく君を眺めさせて貰ったよ。あの曲は陽炎も好きだよ。君もフェスチュンマクレガーのファンとは趣味が合うじゃないか。君の望むものは何でも好きになれそうだ。だから君も陽炎を温かく迎えてほしいね。そう、早く君の温かい胸に迎え入れてほしい。」
 メールは短い文章だが麗子の生活をこまめに観察していることが伺えた。陽炎は相手を執拗に付け狙うサイバーストーカーだ。

 そしてある夜に送られたメールは麗子を驚愕させた。
「昨日は素敵な下着を手に入れたね。試着している君を見ているとうっとりするね。白い胸に身につける仕草が陽炎の心を狂わせるようだ。それを他の男に見せるなら許さないよ。君を賞味するのにふさわしいのは陽炎だけだよ。あぁ、今でも君の美しい自然な姿を思い出すと身体が熱くなる。早く温かい君に触れたい。」
 それは家の中まで覗かれている証拠だった。
「助けて。何処から見張られているわ。」と麗子は訴える、彼女の唇が震えていた。
「テニススクールの関係者とは限らないかもしれない。陽炎はどこにいるんだ!」と龍一は窓の外を見た。しかし通りには誰もおらず駐車しているような車もなかった。
「たぶん。私が掲載した職探しのホームページが原因かもしれないわ。」
 麗子はプロファイル適性検査を行っている放送局から閉め出された危機感から自分で会社を探す手段に出た。麗子は自分のホームページを作り、そこに自分の履歴書を公開した。
 しかし肝心の企業から声がかからずに陽炎の目に止まってしまったようだった。
「どうしてこんな危険な事をしたんだ。」と龍一は詰問した。
「だって女というだけで就職するのが難しいのは知っているでしょ。だから他人より早く1社でも多く会社を探さなければいけないでしょ。」
「履歴書を公開すればサイバーストーカーの餌食になるのはわかっているはずだ。」
「だってお兄ちゃんが何とかしてくれるって言ったけれど、何も変わっていないわ。私はのんびり待っていられないのよ。」
 龍一はそれ以上は責められなかった。
 龍一は麗子の開いたホームページを見せてもらった。そこには住所、電話番号などの情報は伏せていたものの、連絡先の電子メールのアドレスをはじめ名前、年齢、家族、大学名、専攻学科、ゼミでの研究テーマから趣味、希望する業種、売り込み文句などが記載され麗子の微笑む顔写真があった。正にプライバシーの公開そのものであった。
「テニスが好きなことや英会話学校に通っているのを知られたのは趣味の紹介欄からだろう。ホームページの顔写真を頼りにどこかで待ち伏せしていたのかもしれない。」と龍一は推理した。
「家族にも嫌がらせが及んだら困るわ。そうなったらどうしよう。」
「早く手を打たなくては。このいたずらメールを逆探知してみよう。」と龍一は提案した。
「お兄ちゃん。気を付けてね。相手が危害加えそうだったら逃げてね。」
「あぁ、わかっているよ。」

 しかし龍一の意気込みはすぐに打ち砕かれた。通信会社側は通信の秘密を盾に情報提供を拒んだ。龍一は由美子らブロブシーガル社の仲間にも相談したが特に名案もなく壁に突き当たった。
 その間にも嫌がらせは執拗に続いた。
「早く温かい君に触れたい。そのためなら何でもできる。触れたい。触れたい。触れたい。触れたい・・・」触れたいという言葉を数千行も綴ったメールを受け取った翌日、麗子は通学中の満員電車の中で背後からスカートに触れる手を感じた。麗子は遂にその時が来たことを悟った。蠢く手が麗子の様子をうかがいながら、ゆっくりとスカート越しにその膨らみをまさぐった。麗子は怖さに振り返ることも出来ず、自然に涙がとめどなく溢れた。
 そして遂にスカートの裾に手が掛かった時、麗子は気を振り絞ってすくむ脚を前に出し、ホームへ向かって逃げ出した。通り過ぎて行く電車を振り返る力も失せたまま、ベンチでじっと涙を溜めた。
 この日を境に明るく活動的だったはずの麗子は次第に部屋に閉じこもるようになり、昼間でも外から覗かれないように窓のカーテンをしめ切っていた。そしてテニススクールも英会話学校も欠席がちになり、ついには解約してしまった。
 麗子の猜疑心は日増しに強くなり、ついには恋人の木佐口ディアンの口から麗子の行動が漏れていると疑いをかけ、交際も疎遠になってしまった。

 そんな折、佐藤友康が龍一の家を訪れた。彼は麗子の窮状を知らされて自ら調査をかって出た。佐藤は盗聴電話から発信される電波を追って家のあちらこちらを検知機で調べた。テレビ、電卓、置き時計、コンセントなどに似せた盗聴器が仕掛けられやすい所は念入りに調べられた。
 だが盗聴器らしきものは何も見つからなかった。佐藤は盗聴器がないことを確信すると初めて口を開いた。「残る可能性としてはコードレス電話か、携帯電話の電波を傍受して麗子ちゃんの動きを追っているか。あるいは電話や電子メールの回線から直接傍受している可能性があるわ。いずれにしても電気で動くもので連絡をとらないことね。」
「困るわ。公衆電話の所まで外に出たらつきまとわれてしまうわ。」と麗子は困惑して言った。
 佐藤は検知器のヘッドフォンを耳から外して言った。「でも部屋に閉じ籠もれば、どうしても家の電話や電子メールに頼らざるを得ないでしょ。陽炎にとってそれは好都合なのよ。」
「手紙にすればいいの?」と麗子は畳みかけるようにきいた。
「それも危険ね。返事の手紙を郵便受けに入れっぱなしにしていると抜き取られるわ。こうして直接話すのが一番安全よ。」
「わかったわ。でもどうしてホームページに載せてもいない住所がわかるのかしら。」
「たぶん大学の名簿から麗子ちゃんを探したか。あるいはホームページには載せていた電子メールのアドレスを逆引きリストで探したのかもしれないわ。」
「そんなリストが存在するなんて。」
「色々なリストを収集しているリストマニアがいるわ。」と佐藤は彼らリストマニアの実態を説明した。
 彼らは互いにリストを物々交換してリストコレクションを増殖させている。例えばペンタゴンのデータベースのIDリストのようなレアもの1本持っていれば世界中のマニアから引く手あまたとなる。あらゆる望みのリストと交換することも可能だ。だから希少性の高いリストを手に入れることが彼らの自慢でありステータスなのだ。
 佐藤は一計を思いついた。「陽炎が通信回線をモニタしているならば逆に罠を仕掛けてみない?」


 麗子は小雪舞う二月十四日、一人で横浜キャンパスへ向かった。企業の研究所や学校などが深い植え込みに区画されて整然と立ち並ぶ港北ニュータウンの一角に横浜キャンパスはあり、煉瓦作りの5階建ての中心に小ホールがある。
 玄関口には「バレンタインコンサート 午後1時開演 入場無料 ご自由にご覧ください。」と書かれた稚拙な手作り看板が掲げられていた。すでに受付は来訪者の応対に追われ麗子も人の流れに混じってコンサート会場へ吸い込まれた。

 初め岩下雪江を誘ったが急に雪江の都合が悪くなり麗子一人で観ることになった。そのやりとりは全て電子メールと電話を使って行っていた。
「先輩、どうしても都合つかないんですか。一人じゃ不安だわ。」と麗子は雪江に電話で訴えた。
「大丈夫よ。陽炎とかいう奴、音楽なんか楽しむほど上品な趣味あるわけないわよ。だから平気よ。来るわけ無いわ。一人でも大丈夫と思うわ。」と雪江は安全を強調した。
「そうねぇ。どうせ私について来たって居眠りするか、途中で逃げ出すかもしれないわ。」
「そうよ。住む世界の違う所にいれば安全よ。当日はおしゃれして目立つ格好しても平気よ。今まで家に籠もっていたウップンを発散してきなよ。思い切りよく色っぽい女をやっておいでよ。周りの男の視線を集めるのも気分転換には最高よ。」
 佐藤友康の指示で麗子と雪江は事前に示し合わせて陽炎を挑発する会話を流しておいた。

 麗子は雪江が勧める通り大きく胸の開いたドレスで着飾ってきた。周囲の男達の視線が集まる中で麗子は席に座るとじっと息を殺した。
 すでに会場に据え置かれたビデオカメラはステージではなく客席をモニターしていた。人を捜している様子の観客や麗子の近くに座る観客をカメラは追った。一方、会場入口にも据え付けられたビデオカメラも入場者をモニターした。
 観客はほとんど龍一と麗子の友人、同僚やクラスメートで固められていた。彼らには仲間のコンサートを応援してほしいと招待したのだ。龍一らは友人のつてを頼りに音楽仲間に出演を依頼し、龍一自身も出演3番目にステージに上がり日頃のギターの腕を披露した。外は小雪模様ながらコンサート会場は熱気に包まれ盛り上がった。

 汗を拭きながら楽屋に戻った龍一はビデオをモニターしている佐藤友康や岩下雪江に様子をきいた。佐藤達は入場者が招待客かどうか一人一人チェックを進めていた。
 入場無料の看板に釣られて入場してきたフリー客は8人、そのうち周囲を気にしていた者5人、そして麗子の近くに座った者3人でうち2人はカップルで、もう一人は若い男が一人きりだった。その黒いセーター姿の若い男に関心が集まった。男は麗子の斜め後ろでしきりに視線を配っていた。
 佐藤は言った。「陽炎が男だと決めつけるのはいけないけれど、どう見てもこの男が怪しいわ。」
「私もそう思うわ。入場自由とはいえ、こんな雪混じりの天気に招待もされていないのにわざわざ来るなんて変よ。それにこの男は麗子ちゃんの様子が気になるらしく時々見ているわ。」と雪江も同じ感想を言った。
 龍一はじっとモニターを見つめていたが、何かを決心すると司会者に耳打ちした。

「さぁ、今日のバレンタインコンサートの最後を飾るメインイベントです。会場から選ばれた5人の女性に愛を告白していただきます。さて愛の矢を受ける幸運な男性はだれでしょうか。」と司会者がステージでアナウンスすると、最初に早瀬麗子の名前が呼ばれた。
 麗子ら5人の女性がステージに呼ばれると手にチョコレートの包みを持って立った。
「では最初の告白を。早瀬麗子さん。お願いします。」
 麗子は一度呼吸を整えると、ステージをゆっくりと降りて客席に向かった。その麗子を追ってスポットライトが移動した。
 麗子が立ち止まると彼女は目をつむり、手が小さく震えた。そして意を決すると若い男に向かってチョコレートが差し出された。途端に龍一が男の前に躍り出てカメラのフラッシュを浴びせた。
「おめでとう。お幸せに。」と司会者は男の肩を叩いて祝福した。モニターでマークしていた黒いセーターの男はチョコを手にしたまま呆然とした。




 数日後、曇り空が肌寒さを感じさせる空模様だった。龍一は夕食後、家族団らんでテレビを見ていると外でドスという物音がした。
 母の幸子が麗子に外を見回ってくるよう頼んだが、麗子は龍一の耳元で訴えた。「陽炎だったらどうしよう。怖いわ。」
 龍一は恐る恐る窓のカーテンを開くと辺り一面の銀世界だった。庭木は雪の綿帽子をかむり新雪の結晶に月が輝いた。龍一と麗子はベランダに飛び出した。屋根からベランダに落ちた雪の塊を麗子が見つけると大喜びで雪だるまを作り始めた。
 子供のようにはしゃぐ麗子だが、いまだに陽炎の影に怯える様子に龍一は気にかかった。「まだ陽炎からのメールが来るのか。」
 麗子は首を振って否定した。幸子が相変わらずテレビに夢中になっているのを確認すると陽炎からのメールがコンサート以来、途絶えたことを語った。やはりコンサート会場にいた男は陽炎だったのだろうと二人の意見は一致した。たった一枚の写真を残して陽炎は消えたようだ。しかし陽炎が消えても未だに雪の落ちる音にさえ怯える麗子を龍一は不憫に感じた。
 麗子はしんみりと言った。「陽炎は姿を消しても私は以前の履歴書に載っていた私自身とは違う人間になってしまったわ。以前のように明るく活動的ですって書けなくなってしまったの。こんな陰気くさい女を雇ってくれる会社なんてあるのかしら。」
「大企業だけが会社じゃないよ。小さくても乗りに乗ってる会社はたくさんあるよ。僕のブロブシーガル社だって見かけは小さいけれど将来有望だぜ。」
 麗子は雪で凍えた手をさすりながら言った。「お兄ちゃんの会社に私も就職できるかしら。」
「それは願ったりだ。社長と従業員3人のちっぽけな会社だけど良いのかい?」
 龍一も雪だるま作りに身を乗り出した。
「いいわ。会社が大きくなっていくのを見るのも楽しみよね。お兄ちゃんの会社に入れば、こんなに就職のことで嫌な思いしなくても済むし。なんとか頼める?」いつもの麗子とは違って、しおらしくコクッと頭を下げた。
「坂堂社長に相談してみるよ。たぶん大丈夫と思うよ。」
「社長は坂堂さんって言う人なのね。少し会社のことを知りたいわ。詳しく教えて頂戴ね。」
「あぁ、いいとも。」
 冬の終わりを飾るこの雪が溶ければやがて春がくるだろう。麗子にとって長い冬が終わり、きっと昔の明るさを取り戻せるだろう。


 坂堂社長を初めブロブシーガル社の社員3人はレストラン・ティファニーに集まり、そこで早瀬麗子を面接試験に呼んだ。あえてプロミネンスも使わない面接だけの試験だった。
 静かな住宅地に囲まれたオープンエアのテーブルに次々とピザが運ばれ、さらに春風の暖かさも運び込まれた。昼食を囲みながらの気の利いた面接をするつもりだったが、食が進むうちにだんだん脱線して麗子を囲んだ井戸端会議のように盛り上がった。
「お兄さんは妹思いですか。」と由美子がきいた。
「まぁ、そうかもしれませんね。先日も元気出せよってパチンコの景品で貰ったチョコを全部くれましたから。そういうところは太っ腹かもしれませんね。」
「おいおい、麗子の面接なんだから兄妹のことはバラすなよ。みんなは麗子のことを聞いてくれよ。頼むよ。」と龍一は口を尖らせた。
「だいぶ脱線してしまったようだな。面接はそろそろ終わりにしよう。麗子さんならみんなと仲良くやっていけそうだ。どうです。うちで働いてみませんか。」と坂堂社長が切り出した。
 麗子も二つ返事で同意した。そして坂堂社長は春休みにインターンシップで働いてみるを勧めた。インターンシップとは正式入社する前に企業で試しに働くことである。学生にとっては仕事の内容や社風などが自分に合うかを判断することができ、企業側は学生の実際の能力を見極めてから正式採用を決めることができるメリットがある。


 麗子は春休みになると坂堂社長の勧めに応じて週に3日はブロブシーガル社に通い始めた。若い麗子が事務所にやってくると部屋が華やいだ雰囲気になった。
 それまで滅多に来ることがなかったブロブディンナジオ社の営業マンがちょくちょく事務所に顔を出すようになった。彼らは麗子が来る日に限ってわざわざ事務所まで昼食をとりにやってきた。麗子を囲んでのお昼休みは彼らのお楽しみの一つになった。
 そんなお楽しみの輪にもう一人加わった。それまで電子メールで用事を済ましていた坂堂社長までが足繁く事務所に顔を出すようになった。麗子の最初の仕事は雑務だったが、坂堂社長の茶飲み話の相手も結構楽しんでいるようだった。
 だが、坂堂社長の秘書としてどこへでも同行していた桜川咲だけはブロブシーガル社に寄りつかなくなった。彼女はクリスマスの日に清水春樹の前から去って以来、姿を見せなくなった。
 そのためブロブシーガル社の事務所では麗子が坂堂社長の秘書の役目も自然と受け持つようになった。いつしか社員達から麗子秘書と呼ばれるまでに職場に溶け込んだ。

 麗子は秘書として坂堂社長が毎日数多く受信する電子メールの中からジャンクメールと大切なメールを選り分ける作業も任せられ、重要なメールのみプリントアウトして坂堂に見せることになっていた。
 今日もいつものようにメールを選り分ける作業をしていると、昼下がりの二時過ぎに営業の田島道夫がやはりいつものようにフラッと事務所にやって来た。田島はテーブルに昼飯のホカ弁を置き、麗子にコーヒー豆の袋を渡した。
「遅いお昼ね。じゃ、このコーヒー入れてあげるわね。」と麗子はデスクを離れ厨房へ向かった。
「わるいね。麗子ちゃんの入れてくれるコーヒーが一番だよ。」と田島はお世辞を言いながら麗子のデスクの上に綺麗に選り分けられたメールのプリントに目を通した。厨房からは豆を挽くミルの音が賑やかに聞こえてきた。田島はプリントを順にめくっては溜息をついた。

 そこへ坂堂社長から麗子に電話がかかってきた。麗子は両手が塞がっていたため受話器をスピーカーに切り替えて聞いた。「麗子ちゃんか。今そっちへ向かっているところだ。悪いがおいしいコーヒーを作っておいてくれんかね。最近、咲がちっとも入れてくれんのだよ。」
「グットタイミングだわ。今、田島さんが新しい豆を持ってきてくれたんです。」
「えっ、あいつこんな時間にまだ事務所で油売っているのか?」
 田島は厨房に駆け込むとジェスチャーで居ないことにしてくれとサインを送った。そしてホカ弁を鷲掴みにすると逃げるように事務所を出ていった。


「田島君も逃げることはないのになぁ。こんな良い豆なら儂が誉めてやったのに。ところで今日は儂のメールで何か重要なものはあるかね。」と坂堂はコーヒーを旨そうに啜りながら麗子に尋ねた。
 麗子はブロブディンナジオ社から受信した販売実績の定例報告書と売込先計画書のプリントを坂堂に渡すと言った。「営業の鈴木係長が今日の四時に社長と販売計画のご相談をしに来るそうです。それで事前にこの販売資料を見ておいて頂きたいとメールがありました。あと、ゴミメールにはいつものように画面に赤い印を付けておきました。それから桜川咲さんから帰りにノリコの宝乳菓を15個買ってきてほしいとのメールもありました。」
「ええと。店はどこだったかな?」
「はぁい。私、知っています。この近くでぇす。」
「ほう。それじゃぁ。鈴木係長が来る前に、今から一緒に買いに付き合ってくれないかね。ついでに我々の分も買ってきてお茶にしよう。」
「うぁ、嬉しいっ! あそこのケーキってファンなんですぅ。」
「おぅおぅ。そうか、そうか。」坂堂は相好を崩していそいそと先に玄関を出ていった。
 何も知らぬ龍一が隣の部屋から資料を持って出てくると言った。「あれっ。社長が来たら報告してくれって言われてたのに。」
「だめよ。お兄ちゃん。これからちょっと坂堂社長と一緒に大事なマーケティングリサーチのお仕事があるんだから後にしてね。それと鈴木係長が来たら待たせて置いてね。じゃ、バイ、バァイ。」麗子は龍一に投げキッスを送ると玄関を出て行った。

 麗子達が出かけていった後、事務所にテレビ電話が掛かってきた。相手は荒山営業部長だった。
 荒山部長は坂堂社長を探して電話をしてきたが社長がいないとわかるとすぐに電話を切ろうとした。が、切る前に荒山は一言尋ねた。「今、うちの営業の誰か、そこに居るかね?」
 龍一が否定すると荒山は何かを言いたそうだった。急に彼は手元の紙にボールペンを走らせると画面一杯に紙に書いたメッセージを広げた。それは浮かれ気分の事務所の雰囲気を一変させる内容だった。「盗聴されているかもしれないから、これを読んでくれ。会話は当たり障りのない世間話をしてくれ。」
 龍一も手元のノートのページに「了解」と書いてカメラの前に広げた。龍一の異様なやりとりに由美子と清水も気が付くとテレビ電話の前に静かに集まり、紙の文字を追った。
 荒山営業部長の話はこうだった。
 ブロブディンナジオ社はプロミネンスを武器に全国の就職専門のウェブキャスト局を攻略して順調な販売実績を納め、カメラ機材の納入も間に合わないほどの活況を呈した。その結果、先発する鹿島ブレインリサーチ社のプロファイラとのシェアの差は次第に縮まりはじめていた。
 しかしその快進撃に数週間前から赤信号が灯り始めた。
 ブロブディンナジオ社がクライアントのウェブキャスト局を訪問すると、すでに鹿島ブレインリサーチ社が先回りしてプロファイラの商談を開始している後である事が多くなった。あるいはブロブ社がプロミネンスの見積価格を出すと、鹿島側もすぐにプロファイラの価格をさらに値引きすることがたび重なった。まるでブロブ社の手の内を全て知り尽くしているような状態だった。
 その影響でブロブ社の先週の営業成績は惨憺たるものだった。荒山は販売実績の惨状を見て欲しいと訴えた。
 荒山は更に紙に書き綴った。「もしこの惨状がマスコミに漏れたら今度こそ危ないかもしれない。なんとしても情報が漏れている所を突き止めないと・・・」
 だが、ブロブ社の何処から情報が漏れているのか荒山部長も皆目わからず困惑しているようだ。社内からの漏洩の疑いが最も強いことからブロブ社の営業マンに警戒するようにとの忠告だった。
 荒山部長の筆談での伝言が済むと龍一はもう一度「了解」と書いた紙を差し出した。

 テレビ電話が切れるとテレビを音楽番組に切り替えてボリュームを上げ、龍一、由美子、清水の3人は額を寄せ合って筆談で防衛策を相談した。だが彼ら営業マン達は毎日のように事務所に入り浸っている。その彼らから全ての情報を隔離するのは困難だ。龍一達は頭を抱えた。


 玄関のベルが鳴った。営業の鈴木係長だろうか。由美子が恐る恐るドアーを開いた。
 玄関へ飛び込んで来たのは桜川咲だった。「ビックニュースよ! 音楽なんか聞いている場合じゃないわよ。麗子ちゃんを脅していた犯人の手がかりを見つけたのよ。」
 咲は犯人の電子メールのアドレスの身元を調べ続けていた。通信会社の壁を打ち破るために警察を通じて調査を依頼した。その結果、ようやく通信会社は重い腰を上げた。
 犯人は盗んだ携帯端末から電子メールを出していたことがわかった。その盗まれた持ち主は建設会社だったが管理がズサンで警察から問い合わせがあるまで盗まれていたことさえ知らずにいた。
 咲は通信会社に依頼して通信記録を取り寄せた。すると携帯端末からはつい数日前にも発信の形跡があることがわかった。
 龍一は叫びだしそうな声を押し殺して言った。「まさか。まだ発信されているなんて、いったいどういうわけだ。」
「バレンタインコンサートで陽炎を封じこめたはずじゃないの? あれは陽炎ではなかったと言うの?」と由美子も語意を強めて言った。
 龍一と由美子は顔を見合わせた。「もしや!」と龍一は叫ぶと外へ飛び出して行った。その後を由美子も追いかけて行った。


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